第六十一話 「風の前に」
「リカルドが独り立ちするのを見届けたら、私――この街を出ようと思うの」
マルゲリータの声は静かだった。
まるで長い祈りの終わりにそっと息を吐くように、言葉が落ちる。
「出る? どこへ?」
「……ヨーゼフ卿の後宮へ」
一瞬、時間が止まったようだった。
ヨーゼフ卿――あの貴族の名を聞いた時、胸の奥で鈍い音がした。
平民が貴族の側室になるなど、常識ではあり得ない。
けれど、彼女の瞳に迷いはなかった。
「ヨーゼフ卿は……あなたを愛しているのか?」
「ええ。あの方は本気よ。でも、正式に迎えられるためには、一度別の貴族家の養子にならなくてはならない。
だから、今の私は“存在しない人間”なの。公の場では、もう誰とも会えない」
淡く笑った彼女の横顔には、覚悟が滲んでいた。
それは諦めではなく、選ばれた道を受け入れる者の静かな誇りだった。
風が窓を揺らし、カーテンが白い翼のように膨らむ。
「……試験があるんだ。魔法研究院の入門試験」
「そうなのね」
「受かったら、知らせるよ」
「必ず教えて。お祝いしたいから」
その言葉は、まるで遠い約束のように胸に残った。
その時、扉を叩く音がした。
現れたのは、深い緑の外套をまとった女性――アンナマリア。
「アンナマリアよ。彼女とは学院の頃からの友達なの」
マルゲリータが紹介し、俺も軽く頭を下げた。
彼女は柔らかな笑みを返し、胸元で銀の鳥のブローチが陽の光を受けて瞬いた。
(あの人だ……)
思い出す。いつかの貴族の食事会。遠くの席で見た女性。
けれど彼女の瞳には俺を知らぬ初対面の穏やかさが宿っていた。
「これ、差し入れよ」
籠の中には白いすずらんがぎっしりと詰まっていた。
マルゲリータは嬉しそうにそれを受け取り、ガラスの花瓶に活ける。
小さな花弁が光を透かして揺れ、部屋いっぱいに淡い香りが広がった。
やがて、アンナマリアは胸のブローチにそっと触れながら口を開いた。
「最近、クルース教の教会がこの街にもできたの。もうご存じ?」
「クルース教?」と俺が尋ねると、彼女の声に柔らかな熱が灯った。
「救世主クルースさまが神の言葉を伝え、人々を導いたの。
神官たちは経典を手に、神の慈悲を広めておられる。
お祈りをすれば、誰の心にも“光”が宿るのよ」
その声音は、聖堂の鐘が遠くで鳴るように澄んでいた。
この国の古い信仰――森や川、火や風に宿る神々への祈りとは、まるで異なる響きだった。
「母を病で亡くした時、私は何も信じられなかったの」
アンナマリアの声が、わずかに震えた。
「けれど、教会でクルースさまの御言葉を聞いた瞬間、胸の奥に光が差しこんだの。
あの時、わたしは確かに救われたのよ」
マルゲリータは静かにうなずき、彼女の手を包んだ。
「あなたが立ち直れたなら、それは尊いことね」
「ええ。神は誰も見捨てない。クルースさまはそうおっしゃったわ」
彼女の瞳は、祈りそのもののように澄んでいた。
光を受けたすずらんの白が、その信仰の純粋さを映しているように見える。
けれど――どこかで風が逆巻いた気がした。
美しいほどに真っ直ぐな信仰の言葉は、同時に人を呑み込む力を孕んでいる。
その微かな不穏を、俺だけが感じ取っていた。
窓の外では、春の陽が傾き始めていた。
「そろそろ行かないと。試験が始まる」
「頑張って。結果を聞かせてね」
マルゲリータの笑顔を胸に刻み、俺は外に出た。
白いすずらんが、風に揺れて小さく鐘を鳴らしたように思えた。
* * *
魔法研究院に着いたのは、まだ試験開始より少し早い時刻だった。
門の前には受験者らしき若者たちが集まり、緊張を隠すように談笑している。
「来たわね」
振り向くと、エレナが立っていた。
いつも通り落ち着いた笑みを浮かべているが、その目は静かに俺を励ましていた。
「見に来てくれたのか」
「もちろん。あなたがどこまで進んだか、確かめておきたくて」
冗談めかした口調に、思わず笑ってしまう。
試験は研究院の裏手にある広場で行われる。
試験官はガラドミアとファラサール――どちらも名の知れた魔術師だ。
「突風を吹かせ、あの林の木の葉を落とせれば合格とする」
ファラサールの短い説明にうなずき、深く息を吸う。
(落ち着け。風は、呼吸だ)
集中する。
空気の粒が肌を撫で、胸の奥で魔力が静かに旋回を始める。
指先を天へとかざすと、目には見えない渦が頭上に広がった。
その存在は、魔術師でなければ感じ取れない。
エレナは黙って見守っている。
彼女のまなざしが、まるで静かな灯のように背中を支えてくれていた。
限界まで魔力を練り上げたとき、ガラドミアが目で何かを訴えてきた。
――まだだ。もっと。
その視線をそう受け取って、さらに魔力を膨らませる。
体の奥が軋む。空気が震える。
だが、次の瞬間、ガラドミアの眼差しが鋭くなった。
(まさか……放てという意味だったのか!)
がまんを切らしたように彼女が叫ぶ。
「早く放てッ!」
反射的に意識を解き放つ。
刹那、世界が反転した。
広場全体を呑み込むような風が轟き、林の木々が唸りを上げ、葉が一斉に空へと舞い上がった。
嵐が過ぎ、静寂が戻る。
ガラドミアが苦笑しながら言った。
「まったく、目で合図したのに伝わらんとはな」
俺も笑って返す。
「すみません、てっきり“まだまだ”って意味かと」
ファラサールが一歩前に出て、厳かな声で告げた。
「合格とする。よくぞここまで力を磨いた」
歓声が上がる。
エレナが駆け寄ってきて、そっと肩を叩いた。
「おめでとう。風も、ちゃんとあなたを認めたみたいね」
俺は空を仰いだ。
散り散りに舞う木の葉が、光を受けて金色に輝いていた。
――まるで、すずらんの鈴が風に溶けたように。
心の中で、マルゲリータの笑顔を思い浮かべる。
「受かったら知らせてね」
その言葉が、静かに胸の奥で響いていた。
書きかけで放置してしまい、ごめんなさい
ずっと気になっていたのですが、続きを書く筆に手が伸びませんでした
これからゆっくりと投稿していこうと思っています




