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第三十四話 「バルデッリ商店」

第二章

第三十四話 「バルデッリ商店」


 俺はバルデッリ商店の敷居を跨いだ。

 

 学校のグラウンドほどの広さはあろうかという広大な敷地の中には何棟もの倉庫が建ち並び、荷物の搬入と搬出を行う荷車を押す人達がひっきりなしに行き交っている。

 門の側には、長距離の運搬に使うと思われる大きな荷馬車がいくつも停められており、厩には何頭もの立派な馬がつながれていた。

 そして門からまっすぐに伸びた石畳の先には、ひときわ立派な二階建ての建物が建っていた。

 その建物の入口から、商人と思しき人々の列が伸びている。

 商談を待つ列なのかな、と列の一番後ろに並ぶことにした。

 その行列には30人以上並んでいたため、長い時間を待たされることを覚悟していたのだが、列が進むのは思っていたよりも速かった。

 店の建物の中にはいくつかのブースが設けられており、今は6人の営業担当者が手分けして商談を行っていた。

 彼らは効率よく客をさばいていたのだった。

 程なくして、俺の順番が回ってきて、ついたてで仕切られた商談のための席に案内された。

 小さなテーブルを挟んで反対側に座っている営業担当者はにこやかな笑顔を見せると、いらっしゃいませ、と声をかけてきた。

 俺は、初めて来たのですが、と前置きをしてから、話を始めた。

 

「ええっと、実は、これから食べ物屋をはじめようと思っているんですけどね。

 小麦粉を仕入れたくて、こちらに相談にあがったというわけなんですよ」

 

「ほほう。

 飲食店を開業なさるんですね。

 それはそれは、繁盛するといいですね」

 

 無難な型通りの言葉が返ってきた。

 なかなかできる営業マンだ。

 

「それで、どのような小麦粉をお求めですか?」


「いくつか候補があるのですが、まずはそれらで試作品を作ってみて、絞り込もうと考えているんですよ。

 そんなわけで、今日はそれらを少量ずつ購入したいと思っていまして」

 

 営業マンは、うんうん、と頷くと、

 

「それで、その候補というものを伺ってもよろしいですか?」


 そう訊いてきたので、俺はジュノに教わった通りに、小麦粉の種類を伝えた。

 その途端、営業マンの顔色が劇的に変化した。

 顔色だけでなく、態度がガラリと変わったのだ。

 それまでの営業スマイルが姿を消し、明らかにこちらを警戒しているようだ。

 

「お客様、失礼ですが、今おっしゃった小麦粉については、どこでお知りになられたのでしょうか?

 それらの小麦粉を指定されるような方は、そう滅多にいらっしゃらないのですよ」


「え?」


 俺はジュノに教わった通りに伝えただけだったので、その対応の変化に面食らっていた。

 

「いや、実は、小麦粉に詳しい知り合いがおりまして、彼に教わったままをお伝えしたんですが……」


「なるほど、そうなんですか……」


 彼はしばらくの間考え込むような仕草を見せた後に、少々お待ちください、と言うと、席を立って奥に引っ込んで行った。

 

 程なくして、その営業マンは一人の男を連れて戻ってきた。

 連れられて来たその男は、歳は二十代半ばといったところで、店の中でも最も立派な服を着ており、自信に満ちた目の光を放っていた。

 営業マンの方が年上なのだが、若者の方が上役だということは明らかだった。

 

「若旦那、こちらの方が、あの小麦粉をお求めなのです」


 そうやって俺の方に促した。

 

 『若旦那』と呼ばれたその男は、どうもはじめまして、と挨拶をしながら対面の席に腰を掛けた。

 営業マンは彼の後ろに立ったまま、心なしか背筋がピンと伸びていた。

 

「私はこの店の店主をしております、ステファーノと申します。

 この度は、小麦粉をお買い求めになるということで、うちを選んでいただいて、まことにありがとうございます」

 

 とても丁寧な態度でそう切り出すと、言葉を続けた。

 

「先ほどこの者に告げられた小麦粉は、この街ではそうそう出回っているものではございませんで、名前を知っている方も、そう多くはございません。

 お知り合いの方からお聞きになったということですが、よろしければ、その方のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 

 俺は大いに焦った。

 まさかこんな展開になるとは思ってもみなかったので、ジュノの名前を出していいのかどうか、考えていなかったのだ。

 俺は口ごもりながら、どう答えるべきか考えていたのだが、どうやらそんな必要はなかったようだ。

 

「もしかして、その方のお名前は、ジュリアーノではありませんか?」

 

 俺は目を丸くして、口を開けて相手の顔を見ていた。

 さぞかし間抜けな顔だったろう。

 しかし、その表情は、彼の問いに答えたようなものだった。

 

「やはりそうでしたか」


 ステファーノはしばらくの間をとった後、さらに続けた。

 

「その品種の小麦粉は、ジュリアーノが取引先を見つけてきて、うちで扱うようになったものなんですよ。

 この国の南東の地域の特産で、この街ではまだまだ出回ってはおりません。

 それを知っていると聞いて、ピンと来たわけです。

 もしかして、ジュリアーノがこの家の出だということもご存知でしたか?」

 

 ここまで来たら、隠してもしょうがない気がしてきた。

 

「ええ、この店で買うのがいいと、ジュノに聞いて来たんですよ。

 とても強く勧められました。

 きっとジュノは、今でもこの店のことを誇りに思っているんでしょう」


 そう応えると、ステファーノはさらにジュノについて訊いてきた。

 元気にしているのか、うちに戻ってくる気はないのか、これからどうするのか、と訊ねられたのだが、俺が答えにくそうにしているのがわかると、すみません、と謝られた。

 

「そうそう、小麦粉でしたね。

 お望みの小麦粉を少量ずつ小分けにして、小袋に入れてご用意しますよ。

 お試しということのようですから、今回は無料で差し上げましょう。

 開店の暁には。ぜひうちから納めさせて下さい」

 

 そう言うと、後ろに立っていた営業マンに指示をして準備をさせた。

 

 その間、ジュノについての話に戻った。

 

 彼は何度かジュノに戻ってくるように言ったのだが、ジュノは頑なに拒んでいたらしい。

 弓矢工房の営業として頑張っていることも知っていた。

 そして、最近は目覚ましい成績を挙げていることも伝え聞いていたようだ。

 

「最近は、その工房の方も、画期的な経営をされているようですね。

 優秀な経営者を雇われたのでしょうかねえ?」

 

「いや、それは……どうなんでしょうかねえ」


 俺は話をごまかしながら、時間を稼いでいたら、小麦粉の準備が整ったと伝えられた。

 自宅まで届けましょうか、と訊かれたが、ジュノと顔見知りが出くわすのも都合が悪いと思い、自分で持って帰ると告げた。

 

「それでは、またのお越しをお待ちしております。

 ジュノには、兄が会いたがっていたとお伝え願えますでしょうか」

 

 少し寂しそうな顔をして、ステファーノは俺に挨拶をした。

 

「わかりました。

 必ず伝えますよ」

 

 そう答えると、俺は店を後にした。

 

 

 

 少しでいいと言ったのに、小麦粉はかなりの量が袋に入れられていた。

 その重たい荷物を運ぶのに泣きそうになりながら、弟を想う兄の声が、俺の心の中で繰り返されていた。

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