◆5◆
明日は私とマリオンのお別れの日。いつものように、マリオンが、私の部屋にやってくる。
「やあ、キャンディ」
部屋に入ってきたマリオンは小さな声で、ソファに座っている私の名を呼んだ。
「おかえりなさい、マリオン。今日は何して遊ぶ?」
「……」
マリオンは答えずに、私の隣に座ると、いきなり私を抱きしめた。
柔らかくって、あったかくって、シナモンの匂いがする。私は一瞬、マリオンを突き飛ばしたいと思った。でも同時に、このまま抱きしめられていたいと思った。自分がよくわかんなくて、ほっぺたが熱くなった。
「く、苦しいわ、マリオン」
マリオンの力は強くなかったけど、でも苦しかった。喉にナッツが詰まったみたいで、頭がぼうっして、ぐるぐるするわ。マリオンに抱きしめられたのは初めてだった。マリオンはいつも、私が壊れてしまうのを恐れているように、私にそっと触れることしかしなかった。だから私も、マリオンに触れることはなかった。だから、だから……。
だめ、だめ、だめ。離れてマリオン。
そう言おうとしたとき、マリオンが私の耳元で言った。
「キャンディ――君との日々はとても楽しかった。本当にどうもありがとう。ミセス・スペンサーならわたしも安心だ。彼女はいい人だから」
私がアロルドにしたテレーゼの話は、ちゃんとマリオンにも伝わっていた。テレーゼが私の告げ口をマリオンにしやしないかと少し怖かったんだけど、テレーゼはマリオンに何も言ってないみたいだった。
マリオンは上ずった声で話し続ける。
「君は本当によくやってくれた。十分すぎるほどよくやってくれた。君は完璧なキャンディだった――おかげでわたしは気づいてしまった」
頭の中に心臓があるみたい。私のこめかみがドクドクいっていた。固まっている私に、マリオンは気づかない。
「もうわたしは空っぽになりすぎてしまった。人形でももうわたしの心を埋められない。わたしの心はきっとなくなってしまった。今のわたしは心を持たないただの彫刻だ」
「……え?」
ほてった体に冷たい水がしみこむようにして、ようやくマリオンの悲しみが私に流れ込んできた。
「君が来てくれて本当に嬉しかった。楽しかったんだ。でも、段々と心が死んでいった。キャンディがいないうちは、キャンディさえ戻ってきてくれれば、わたしはわたしに戻れると思っていた。キャンディはわたしがわたしであることを認めてくれたから。……だが、戻れる日は来なかった。むしろキャンディが来てくれたことで、わたしは」
マリオンはそこで口をつぐんだ。私の体を離し、私の顔をじっと見た。
「………………すまない。これじゃあ恨み言だな。君には感謝している、本当だ」
相変わらずその顔は、彫り上げられたかのように微動だにしなかった。マリオンは立ち上がった。
「今日はもう帰るよ。ミセス・スペンサーの家に行く準備をするといい。必要あらばアロルドをいったん返してやってもいいから」
「ま、って。マリオン、待って」
扉を開けかけて、マリオンは振り返った。彼女はやっぱり笑わなかった。それでも寂しそうに微笑もうとして、口元をゆがませた。
扉が閉まる。置いてけぼりの私は――僕は、しばらく経ってから、長いウィッグをむしり取った。
明日でこのお屋敷での生活もおしまいだ。
僕はこのお屋敷が大好きだった。僕の欲しかったものを全部与えてくれるお屋敷。
きっとテレーゼのところにも、ふわふわのベッドや温かい食事、おいしい紅茶がある。テレーゼは僕を愛してくれるし、何不自由なく僕を育ててくれるだろう。
でも、きっと満たされはしない。僕を愛してくれるマリオンがいないから。
マリオンはキャンディが戻ってきたことで、自分のうつろさに気づいてしまった。
それで、人間らしさみたいなものを失って、石の彫刻みたいになってしまったんだ。
僕は彼女に人間になってほしい。
そうすれば僕は、ピュグマリオンになれるだろうか。
どうして僕は、そこまでマリオンのことを思うのか。
僕は、マリオンが好きなんだ。
かわいそうなマリオンが好きだ。
僕を必要としてくれたマリオンが好きだ。
だから、彼女に人間になってほしい。
僕がこの間開けた開かずの間は、寝室だった。僕は初め、その寝室が一体誰のものかと思った。だってあちこちに大人の女の人用のドレスがぼんぼん積み重ねられて、リボンやレースの手袋、ブーツなんかが転がっていたから。
部屋にはあまりホコリが積もっていなかった。暴れた後みたいに服が散らばっていて、ソファーやいす、大小さまざまな大きさの鏡が飾ってあった。そして何より、僕とよく顔の似た女の子の人形がベッドに横たわっていた。ドレスを着るには小さすぎるから、やっぱりこのドレスはこの子用ではなさそうだ。
この部屋を使うのは、マリオン以外いない。フットマンやバトラーにこんな部屋は与えられないし、このお屋敷に住み込みで働いているのではなく住んでいる人はマリオンしかいないからだ。僕は気づき始めていた。
ずっと気になっていたんだ。マリオンと僕が初めて出会ったあの日、通り魔の噂のある通りを、どうして彼女が一人で歩いていたのか。
マリオン自ら、どうして来なくちゃいけなかったのか。
フットマンやバトラーには知られたくないことがあったんだ。
別にマリオンが女らしく振舞ったって、アロルドたちは叱らないと思う。でも、お父さんにずっと怒られてきたマリオンは、きっと『そういうこと』は隠れてするものだって、体に染みついてしまったんだ。
……あのトランクには、きっとドレスが入っていた。ずっと着られることのない、マリオンのためのドレスが。開かずの間を埋めつくすドレスが。
図書室の本の中には、女の子のお人形遊びについての本もあった。そこには、小さな女の子はお人形で着せ替えをし、大きくなってからは自分で着せ替えをするって。
マリオン、君は本当は、女の子として生きたかったんじゃないの?
それをキャンディに、代わりにやってもらおうとしたんじゃないの?
けれどキャンディでも埋められなかった心の穴を見てきっと、気づいたんだ。
今の自分が求めているのは、友達として愛してくれるキャンディじゃなくて、女として愛してくれる存在なんじゃないかって。
僕はドレスを脱ぎ始めた。
一人で脱げる構造になっていないから、あちこち苦戦したけど、それでも何とか脱ぎ捨てた。僕は服のうずまきの中に立っていた。
下着も何もかもを脱いで、鏡の前に行く。
化粧をぐいとぬぐい、目を見開いた。
とてももうキャンディにはなれそうにない体が、そこにあった。