◇4◇
雪が解けて川が再びせせらぎ始め、蝶が飛び、花が芽吹き始めたころ。
おやかたさまが視察に行って二日ほど戻らないというから、僕はアロルドに、テレーゼのお屋敷まで連れて行ってもらった。おやかたさまのお屋敷も大きいけど、テレーゼのお屋敷はそれより大きくて、迷路になりそうな立派な庭もついていた。
「まあまあまあ、よく来てくれたわねえ、カーライルちゃん!」
フットマンに大扉を開けてもらうと、テレーゼが自ら僕を出迎えて、ぎゅっと抱きしめてくれた。この前会ったときと同じように、気付け薬のラベンダーの香りがした。
「やっぱりあなたは本当に愛らしくて、賢そうで、優しい子!」
「久しぶりだね、テレーゼおばあちゃん」
僕はテレーゼの腕の中でもごもごと返事をした。
テレーゼは僕をバルコニーへ案内してくれた。バルコニーにはティータイムの準備が整えられていて、クリームたっぷりの真っ白なケーキやバターがごってり塗られたパン、イチゴやラズベリーが積み重なったパイがテーブルの上に置かれていた。そこへバトラーらしき黒い服の人がうっとりするくらい綺麗なティーポットを持って現れた。
「すごく綺麗だね」
僕が素直に褒めると、テレーゼは顔をしわだらけにしてにぃっこり笑った。
「そうでしょう。亡くなった主人の形見なのよ」
ティーポットは、白地に青い異国風の模様がどうやったのかって思うくらい繊細に描かれていた。ティーカップが目の前に置かれ、琥珀色の紅茶が湯気を立てて注がれた。
バラの香りが立ち上った。あまりにも濃い匂いに、僕は咳をした。
「あらあら、坊やにはきつすぎる香りかしらね……」
馬鹿にしたんじゃなくて、テレーゼは心配そうにそう言ったけど、僕は首を振って平気だと言った。僕、もう子供じゃなくなるって決めたんだ。
テレーゼが出してくれたお菓子はどれも素晴らしく甘く、おいしく、僕は天国に行けたらここに似ているところがいいと思った。テレーゼはお菓子をちょこっとずつしか食べないで、後は僕がぱくぱく頬張っているところを嬉しそうに見つめていた。なんだか、そういうところはおやかたさまに似ていると思った。
「ねえ、坊や」
ふと、テレーゼが言った。
「差し支えなければ、あなたとマリオンちゃんの関係について教えてもらってもいいかしら。話したくなければ話さなくていいのだけど、ずっと気になっていたの。マリオンちゃんの子ではないわよね?」
僕は迷ってからうなずいた。そういえば、おやかたさまに、テレーゼに僕のことを話していいか聞くのをすっかり忘れていた。でも、そろそろ一年が経つし、もういいんじゃないかなと思い始めていた。
それに、最近おやかたさまが本当に冷たくて、僕は拗ねてたんだ。タブーやぶりをしたくてうずうずしていた。
「僕、おやかたさまに雇われて、お人形のふりをしているんだ」
「お人形のふり……?」
「うん、おばあちゃん、キャンディって知ってる? おやかたさまから聞いたことない?」
キャンディの名前を聞くなり、テレーゼの顔がゆがんだ。
「あるわ。マリオンちゃんの、焼かれてしまったお人形でしょう?」
「そうだよ。僕はね、キャンディにそっくりなんだって。だからおやかたさまに雇われて、あの屋敷に連れてこられたんだ。そこで、キャンディのふりをして、女の子のウィッグをかぶったり、服を着たり、おやかたさまと遊んだりしているんだよ。一年間だけね」
なんということ、とテレーゼが唇だけで言うのが見えた。
「あなたは男の子よね?」
「うん、男だよ」
「マリオンちゃんと一緒のときだけ、女の子の格好をしているの?」
僕はうなずいた。
「おやかたさまは、自分が留守にしているときは、僕は自由にしてていいって言ってたんだ。だから彼女がいないときは、僕はアロルドに勉強を教えてもらったり、屋敷を探検したりすることになったんだ」
「そう、だから私と会ったときは女の子の格好をしていなかったのね」
テレーゼはそう言うと、深くため息をついた。
「そうだったの、そんなことが……。マリオンちゃんたら、どうしてそんなことをする前に私に相談してくれなかったのかしら……。十六歳の女の子が、一人で抱えていい話じゃないわ」
真剣に言うテレーゼに、僕は怖くなって、彼女の顔を上目遣いで見ながら言った。
「おやかたさまを怒らないでね」
「怒らないわ。あなたが話したってことがばれてしまうしね。……話してくれてありがとう、カーライルちゃん。今度は私がお話してあげましょうね」
バトラーがテレーゼに紅茶のお代わりを注いだ。それから一礼して、バルコニーから出て行った。
「マリオンちゃんのことは、あの子がほんの小さな子供だった頃から知っているの」
テレーゼはバターケーキを僕に渡してくれながら、こう話し始めた。
「彼女もね、あなたと同じくらい利口な子だった。お花畑でお花の冠を作ることも、お人形遊びも大好きで、可愛いお洋服を愛していた。本当に笑顔の似合う女の子で……」
なんだか、今のおやかたさまからは想像もつかない話だ。
「でも、あるとき彼女のお母様がはやり病で亡くなってしまって、それから彼女のお父様はマリオンちゃんのお洋服もぬいぐるみも、お人形も全て焼いてしまった。そして彼女にこう命じた。これからは男として生きろって。
後妻をとって、男の子を生んでもらえばいい。誰もがそう思ったわ。でも、マリオンちゃんのお父様はそれを認めなかった。……ちょっとおかしくなっていたのよ。だから誰も彼の再婚の面倒はみようとしなかったし、彼から離れていった。マリオンちゃんのことを案じる人なんていなかった。
女のくせに男装し、女の華やかな話し方をしない彼女は、いろんな人たちから指さされ、侮蔑され、敬遠された。でも彼女は今さら女には戻れない。女のマナーを教えてもらう前に彼女は男として教育されてしまった。女として女王陛下に挨拶にも行かせてもらえなかった」
僕は黙って聞いていた。自分の予想が合っていたことが嬉しくなかったというと嘘になるけど、でも、あんまり当たってほしくなかったような気もした。
「二年前にお父様が亡くなった後も、マリオンちゃんは女の子に戻らなかった。私は心配して、アロルドを彼女にあげて、定期的にマリオンちゃんの屋敷に行っていたんだけど……それでも、彼女が心を開いてくれたのは、あなたにだけだったのね」
テレーゼはもう一度、深くため息をついた。
「ねえ、カーライルちゃん。一年間だけ雇われてるって言ってたけど、その後はあなた、どうなるの?」
「おやかたさまは、それまでに僕の面倒をみてくれるお家を探してくれるって言ってた」
僕の答えを聞くと、テレーゼは考え込んで、黙ってしまった。僕はどきどきした。このタイミングで黙るってことは、誰だってこの次のセリフが想像できると思う。
「カーライルちゃん、この家の子にならない? そうしたら、またマリオンちゃんに会いに行けるから」
できるなら、僕は天使みたいに飛んでしまいたかった。テレーゼにキスしてあげてもよかった。それくらい、僕は嬉しくって、どうにかなってしまいそうだった。
でも、次の瞬間に、僕の心はもやもやした黒い雲に覆われてしまった。
「……嫌かしら?」
テレーゼが悲しそうに顔を覗き込んでくる。僕はぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、嬉しい。とっても嬉しいよ、おばあちゃん。……でも、おやかたさまはもう、僕のことなんていらないと思うんだ」
「あら、どうしてそんなことを言うの?」
僕は自分の手の甲を見た。この間おやかたさまの手を見て、それから僕の手を見て、もう僕と彼女は違う生き物になってしまったことを僕は知った。僕はもう女の子を演じることはできない。
それに僕は、少しならいいけれど、これからもずっとおやかたさまに女の子の人形として見られているのは、嫌だった。
テレーゼはそんな僕を見て何かを察したように、寂しそうに微笑んで、僕の手をとった。
「……そういうことね。でも、マリオンちゃんに会いに行かなくてもいいから、このお家に来ることは考えてみてくれないかしら。希望がないと、人は人として生きていけないのよ。あなたが望むなら、このお家、スペンサーの苗字をあげてもいいのだから……」
テレーゼのお屋敷から帰ってきた頃、まだ空は明るかった。
僕が帰ってくると伝えておいた時間より早かったから、僕がお屋敷に入ってもお出迎えはなかった。
僕は猫より静かに二階に上がった。廊下には誰もいない。僕は足音を立てないように走って、自分の部屋まで行って……そして、通り過ぎて、開かずの間の前に立った。
もう少しでこのお屋敷からもいなくならなくちゃいけない。その前に、一回くらい開いてほしい。僕はドアノブをひねって、引っ張った。
………………………。
………………………手ごたえが返ってこなかった。
僕の動きにすんなり答えて、開かずの間の扉はきしみながら開いた。