◆4◆
思えばそのときのマリオンは最初からどこかおかしかった。
だからきっと、マリオン自ら、一瞬でも魔法を解いたんだわ。
クリスマスが終わって、新しい年がやってきた。
でもしばらくマリオンはキャンディの部屋に来なかった。ようやくマリオンが来たのは、新年になってから二週間経った頃。それまで私のことを放っておくなんて、マリオンが今まで一度もやったことのないことだった。
いつも通りトワレットを終わらせて、私は部屋にいた。マリオンが来ることを期待するのはもうやめていた。図書室の本をアロルドに持ってきてもらえば、退屈しないで済んだのよ。
――がちゃっ。
私、最初は部屋に入ってきたのがアロルドだと思ったの。だから本から顔を上げずにいたんだけど、その人はどんどん近づいてきて、ソファに座って本を読んでいる私の両肩を突然つかんだ。
「わっ、えっ、あ、ま、マリオン?」
私はびっくりして、本を落とした。マリオンは私の肩をきつくつかんで、アロルドの足音よりも小さな声でささやいた。
「……ごめんねキャンディ、寂しい思いをさせたね……」
寂しかったのはあなたのほうなんじゃないの、なんて聞きたくなるくらい、マリオンの声は沈んでいた。
でも、私はマリオンが一番望む答えをするお人形だから、ぷりぷり怒ってこう言った。
「そうよマリオン、キャンディったら、退屈で退屈でしようがなかったのよ! はやくキャンディのところに来てくれればよかったのに!」
「すまないね、あの野郎の臭いをキャンディに移すわけにはいかなかったんだ」
マリオンの声は今まで聞いたことがないくらい低かった。私はこわごわ聞いた。
「あの野郎って……?」
「マールバラ公さ。あいつは詐欺師だ。あの色狂いのゲス野郎、糞溜めの中に蹴り落してやる」
クリスマスに、マリオンが行っていたパーティを開いた人だ。それにしても、マリオンがこんなにたくさん汚い言葉を知ってて、しかもそれを他人に向かって言うのを、私は初めて聞いた。
「…………『あなたは男なんだから、これくらいどうってことないでしょう? 一対一で話をしようと言っているだけだ。男同士なのに何を遠慮しているんです?』なんて抜かしやがった。糞野郎、どぶを飲んで育ったような臭いがした。あの気違いめ……!」
私もどぶを飲んで育ったけど、それは言わないでおいた。
マリオンは私の肩をつかんだまま、うつむいてしゃべり続ける。声が震えている。
「ああそうさ、わたしだって気違いだ。とっくの昔に知っていたさ、わたしはおかしいんだ。普通じゃないんだ。女が男を演じているのがまず相当に頭がイッてるんだ。ああ、わたしだって好きでこうしてるんじゃない。わたしが……わたしが男に生まれなかったのが悪いんだ。わたしが――男として生まれていれば」
マリオンは苦しそうだった。でも涙は出ていなかった。
「お父様、お父様ごめんなさい……人形が好きでごめんなさい……女に生まれてごめんなさい……」
それから突然顔を上げると、冷たい目つきで私を見た。笑っても泣いてもいない。
こんなに苦しんでるのに。
「キャンディ、わたしのことを気違いだと思うかい? 一度君を失ってもなお、君に会いたいと願ったわたしを笑うかい? こんな……こんな道化を繰り返すわたしを、わたしを愚かだと思うかい?」
私はマリオンが話し始めたときから用意しておいた答えをなぞった。
「あらマリオン、それをキャンディに聞くの? あなたの一番のお友達で、あなたのことを一番よくわかってるキャンディに?」
マリオンがキャンディに望んでいることはよく知ってるのよ。もうあなたのキャンディになって、九つの月が過ぎたのだから。
「キャンデイはマリオンのことが大好きよ。あなたは気違いなんかじゃない。私はあなたを笑わない。私はあなたを愚かだと思わない。私の大好きなお友達」
マリオンの手を肩からゆっくり外して、私は立ち上がるとチェストの方へ歩いて行った。中から布袋を取り出して、マリオンに差し出す。
「ねえマリオン、見て。あなたがね、クリスマスに私のところへ来てくれなかったから、渡しそびれちゃったプレゼントがあるのよ」
マリオンは表情を変えないままプレゼントを受け取った。中から出てきたのは、石を彫り上げて作られた天使だった。
「天使さんよ。私が作ったの。あなたにあげる」
マリオンが天使をじっと見て、それから私の頭を撫でてくれた。
「……ありがとう。わたしの一番の友達。わたしのリトルレディ。……ありがとう」
私はどこかマリオンの声を遠くに感じていた。人間じゃない何かが人間のふりをしているような感じがする。ぼうっと部屋の中を見渡していると、鳥かごの形をしたミュージック・ボックスが目にとまった。ブルーの小鳥のおもちゃがこちらをじっと見ている。
今まで気づかなかったけど、あの鳥、マリオンに似てるのね。
「…………すまない。君は優しい。本当に優しい。わたしにずっと付き合ってくれている」
マリオンの手が頭から下に滑って、私のほっぺたをつるんと撫でた。
「すまない、本当にすまない――」
マリオンの手が私の首を滑っていく。
そんなに謝らなくていいのよ。普通の、ただの、お金持ちのお楽しみじゃない。
私はマリオンに向かって微笑んであげた。マリオンの顔はぱりぱりに乾いて、石膏でできた彫刻みたいだった。
「すまない、…………ル」
マリオンのひび割れた唇から、魔法を解く一言が漏れる。その言葉を最後に、マリオンはベッドに倒れて、今にも途切れそうな弱弱しい寝息を立て始めた。
マリオンの横顔は固まっているみたいだった。息の音が聞こえなければ、彼女こそ人形のようだった。
私はおっかなびっくり彼女を見つめていた。きっと顔は青ざめていたと思う。
マリオン自らが魔法を解いたのは初めてだったの。あまりにもそれが禁断の行為だったから、私は何か自分がへまをしたのかと思ったくらいだわ。
さっきマリオンはこう言った。
「……すまない、カーライル……」
って。