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今日は何回目かのマナーの勉強だった。
アロルドは僕が女性への挨拶の仕方を繰り返し練習しているとき、こう言った。
「将来は坊ちゃんも上層階級のレディのお相手をすることになるかもしれないのですから、真面目にやらなければなりませんよ」
僕は何も答えなかった。
自分の血のいやしさはよく知っていた。
勉強が終わると、僕は毎回恒例の探検をして、昼食の後は図書室に行った。全部で五段ある物語の本の棚を上の棚から、並んでいる本は左から読んでいったけど、今では三段目までいっていた。
本棚に寄りかかる姿勢で床に座って本を読んでいると、誰かが図書室に入ってくる音がした。僕は音のした方を見たけど、扉は本棚の向こう側だったから誰が入ってきたのかまでは見えなかった。だから赤ちゃんみたいにハイハイして、そっと入口の方を見てみた。
その人は、僕の知らない人だった。結構おばあちゃんだ。腰が曲がっていて、鼻がりんごみたいに赤くて丸い。暗い色の服を着ていたから、魔女みたいだと思った。
おばあちゃんが入ってくると、ふわっと気付け薬のラベンダーの匂いがした。きっと瓶をどこかに持ってるんだ。
僕は自分から姿を見せることにした。立ち上がって服のホコリをはらい、本を戻して、本棚の後ろから顔を出した。
「こんにちは」
おばあちゃんはちょっとびっくりした後、すぐににっこり笑った。
「あらあらあら、可愛い坊やだわね。……私はスペンサー家のテレーゼよ。このお屋敷のご主人の、昔からの知り合いなの」
レディに先に言われてしまった。アロルドがいたら怒られていたかも。僕は一生懸命アロルドに教えてもらったことを思い出しながら、訛りに気をつけて挨拶をした。すると、テレーゼはほほほと笑った。
「あなた、アロルドに英語を教えてもらっているわね」
「……えっ?」
どうしてアロルドを知っているんだろう。
「ふふ、ごめんなさい。アロルドはね、私の屋敷からこのお屋敷にあげたバトラーなのよ。彼は『m』の発音にちょっと特徴があるから、彼から発音を直されてる子ってすぐにわかるわ」
なんだかすごく恥ずかしい。僕がもじもじしていると、テレーゼは僕の頭を撫でてくれた。
「坊や、あなたは勉強熱心なのね。あなたがどの階級の出身でもいいわ。もう私は現役じゃないですからね。ただの寂しい年老いた未亡人よ」
それから僕たちは色々おしゃべりをした。テレーゼは僕と話せるのが楽しくてたまらないんだって言った。僕は、自分の立場を他の人に言っていいかわからなかったから、正直にそう言うと、テレーゼはうんうんとうなずいて、自分のことだけ話してくれた。
テレーゼはおやかたさまのお父さんの知り合いで、小さな頃のおやかたさまともよく遊んだらしい。今日は久しぶりにおやかたさまに会いに来たけれど、おやかたさまは急な用事が入って留守にしていたから、とりあえずアロルドに会って、お屋敷を見て回ったらそのまま帰るつもりだったんだって。
「アロルドにはもう会ったの?」
「いいえ、まだよ。でも私がうろうろしていればいつか来てくれると思っているから」
「帰ってお仕事しなくていいの?」
おやかたさまはいつもお仕事をしている。テレーゼも多分身分の高い人だから、お仕事があると思って聞くと、テレーゼは首を振った。
「いいのよ、さっきも言ったように、私はもう現役じゃないから。……ああ、現役の意味がよくわからなかったのね。ごめんなさいね。――そうね、私はもうお仕事はしていないの。統治は親不孝で大して賢くない息子たちに継がせたのよ」
テレーゼはちょっと顔をしかめて言った。声色が鉄みたいに冷たくて、僕は彼女が謙遜してそう言ったのではないんだと気づいた。
「おやふこう……?」
「親に恩返しする気がないってことよ。私のことなんて早く死ねばいいとしか思ってないんだわ。めったに私の家には来ないし、女遊びしてばかり。私が死ぬまでに孫の顔を見たいと思っていたけど、あの様子じゃあどんな女の子も振り向いてはくれないわね」
テレーゼは人が変わったみたいに怖くなってぶつぶつ言った後、どう答えればいいかわからなくて黙っている僕を見て、慌てた様子で本を探し始めた。
「さあさ、坊や、おばあちゃんと一緒にこれを読みましょう」
テレーゼが見つけたのは、赤い表紙の大きな本だった。難しくてまだ僕には読めなかった本だ。
「これなあに」
「神話集よ。そうね、これはギリシアの神話だわ。神様がたくさん出てきて、戦争をしたり、恋をしたりするのよ」
僕は神様の話をあんまり読みたいなとは思わなかったけど、おばあちゃんが読みたそうだったから、読みたいふりをすることにした。テレーゼは「息子たちとは大違いだわ」と喜んで、本を図書室のソファに持っていくと、僕を隣に座らせて、本を開いた。
「そうねえ、ゼウスやヘラのお話は坊やも知っているでしょうし、アロルドが教えるでしょうから……あんまり知られていないお話にしましょうね」
ぜうすの話もへらの話も知らなかったけど、やっぱり僕はテレーゼに逆らわないで大人しくしていた。本はホコリっぽい匂いがした。
「ヘルメス、ディオニュソス……エウリュアレ……ああ、そうだわ、ピュグマリオンにしましょう」
「ピュグマリオン?」
「ええ、彫刻家の名前。アロルドの趣味は彫刻だから、きっと坊やもいくつか彼の作品を見せられてるんじゃないかしらと思って」
あたりだ。僕がうなずくと、テレーゼはまた上品に笑った。
「好きが高じて、アロルドの息子さんは彫刻家になっちゃったくらいですからね」
テレーゼが読んでくれたピュグマリオンのお話は、こういう筋書きだった。
ピュグマリオンは女の人にたくさん裏切られて、女の人が信じられなくなってしまう。でもやっぱり女の人のことが好きだった彼は、その寂しさを埋めるために自分で美しい女の人の像を作り、ガラテアと名付けたその像に恋をしてしまう。ピュグマリオンはガラテアが人間になるように願った。すると女神がそのお願いを聞き届けてくれて、ピュグマリオンは無事に人間になったガラテアと結ばれた……。
テレーゼはお話を読み終わった後、こう言った。
「ピュグマリオンが願ったのは像が人間になることじゃなくて、像とそっくりの女の子と恋をさせてくださいっていうことだった、っていう話もあるけど……私は像が人間になるように願ったっていうお話の方が好きだわね。だってそうでしょう。同じ顔をしていたら誰でも好きになるなんて、そんなの愛じゃないわ」
難しいお話だった。でも僕は、テレーゼをがっかりさせたくなくて、一生懸命考えてから、自分の考えを言った。
「僕も、像が人間になるってお話の方が好き。もし、僕がピュグマリオンだったら、ガラテアが人間になった後も閉じ込めておけるから」
テレーゼはゆっくりと瞬きをして、穏やかな口調で聞いた。
「どうして、閉じ込めておきたいの?」
「そうしないと、いつかいなくなっちゃうかもしれない。人間になったばかりのガラテアは、きっと人間の世界のことがよくわかっていないから、僕がいないと生きていけないでしょ? ずっとそのままでいいよ。外のことなんか知らなくていい」
こっちはすらすら答えられた。僕が話し終えるまで、テレーゼはずっと僕の話を聞いていた。
「坊やは優しいわね。それにとっても頭がいいわ」
彼女の手がまた僕の頭をゆっくりと撫でた。骨に皮がへばりついたような手は、ふにふにしていたけどちょっと冷たかった。
「ああ、坊やが私の孫だったらよかったのに……。そうしたら、私、神のもとへ召されるときまで、満ち足りた時間が送れるのに……」
「僕、よかったら遊びに行くよ」
「……まあ、それはなんていい考えなのかしら。坊やは本当に頭がいいのね。アロルドに話をしておくから、今度私のお屋敷にいらっしゃい。美味しいお紅茶とお菓子をたくさん用意してあげましょうね」
僕はテレーゼに向かって両手を広げた。テレーゼは嬉しそうに僕を抱きしめてくれた。ラベンダーの香りでちょっと頭がくらっとした。