【プロローグ】須貝 導星(すがい とうせい)
『これはマズイな……どうしたものか』
"管理者"は困惑していた。
この世界を監視し、次に異世界転生させる候補者を選定し続け、ようやくその適性ありと一人の青年を見出だした矢先の出来事だった。
その青年、須貝導星は自ら命を断とうとしていた。
異世界転生者の条件は、「自身の選択・努力とは無関係に不幸な人生を背負わされ、それでもなお悪事に手を染めず懸命に生きている者」が選ばれる。
だが、自ら命を断ってしまってはその資格は失ってしまうのだ。
今の世の中、不幸な人間など探せば幾らでも見つかるかもしれない。
だが"管理者"はこの青年に半ば感情移入しているところがあった。
『どうかこの青年に異世界で幸福に生きて欲しい』
些かルール違反ではあったが、"管理者"は僅かばかり介入する事にした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
須貝導星の人生
1998年生まれのB型。
父、母、8つ下の妹の4人家族。
父親の幸生は料理人で、ちょうど導星が生まれた頃に小さいながらも自分のレストランをオープンさせたが、特別優秀なシェフというわけでもなく、また経営の素質もなく、店はすぐに潰れた。
その後は借金返済のために雇われで飲食店で働く事となるが、人付き合いが下手で長続きせず、幾つもの店を転々とするのであった。
仕事だけは真面目にこなす父親であったが、上手くできない人付き合い、思い通りにいかない人生に苛立ち、酒を飲んでは家族に暴力を振るうようになっていった。
母親の美沙はあまり自己主張しない女性であった。
そのため何を考えているのか読めない部分もあったが、それでも特に不満も言わず、黙々と働き続けていた。
おそらくはそうする事が一番子供たちのためになると思っていたのかもしれない。
導星は中学生になる少し前くらいからアルバイトを始めた。
新聞配達、工事現場、老人ホーム。
導星は働いている時が一番気が楽だった。
学校では貧しい事を理由にイジメの対象となり、家では父親が酔って暴れる。
できるだけ家に帰らない理由を作る事が、未成熟な自分の身も心も守る事になると思っていた。
導星は中学校を卒業したら進学はしないつもりでいたが、母親が「絶対に高校だけは行くべきだ」と言い、渋々進学した。
とは言え高校でも特に楽しい出来事もなく、事務作業のように3年が経過した。
そして高校の卒業式の日、事件は起きた。
保護者の出席しない卒業式を終えて帰宅すると、家には母親と妹の蘭花の荷物が無く、自分宛の置き手紙が残っていた。
その手紙の内容は短く、
『高校卒業おめでとう。これで貴方はこの先、一人でも生きていけると思います。どうかこれからは自分の幸せのために生きてください』
たったそれだけであった。
この一件以来、父親はさらに酒に溺れるようになった。
それまでは朝になればまともな状態に戻り真面目に仕事に出かけていたのだが、それすらできなくなった。
起きている時は常に酒を飲み、限界がくれば眠り、また目を覚ませば酒を飲む。
おかげで眠っている割合が増えたため暴力を振るわれる事は減少したが、労働力としては全く使い物にならない状態であった。
その結果、須貝家の収入は高校を卒業したばかりの導星のもののみになってしまったのである。
こんな状況に陥ってなお導星が父親を見捨てなかったのは、幼かった頃、今よりはまともで、不器用でありながらも懸命に働いて家族を養っていた姿を覚えていた事と、母親が突然出て行ってしまった精神的ショックを理解できるからであった。
導星自身、その時のショックは深く、未だに立ち直れているとは言い難いが、ただがむしゃらに働く事によって忘れようとしていたにすぎない。
だからこんな状態になってしまったとは言え、ただ一人残った父親を見捨てる事ができなかったのである。
高校を卒業して約2年。
導星はメインの仕事を老人ホームの介護スタッフにし、シフトの合間に臨時のアルバイトを入れたりしていた。
時給の良い仕事は他にもあったが、それでもこの老人ホームの仕事を辞められなかったのは人手不足というのもあったが、一番の理由はここの入居者、三木権六の存在ゆえであった。
三木老人は導星がこの老人ホームで働き始めた中学生の頃から実の孫のように可愛がっていたのだ。
導星はその育った環境のせいか人に心を開くのが苦手であり、そのためホームの他の老人達からはウケが悪かった。
だが三木老人だけは導星の事を気に入り、導星もまた少しずつ三木老人に心を開いていったのである。
親に尊敬の感情をもてなかった導星にとって、唯一の心を許せる大人であった。
心も体も常に疲労が蓄積している導星の人生の中で、唯一人、安らぎを与えてくれる人物なのだ。
2018年12月20日。
三木老人の命の灯が尽きる日が訪れた。
以前から時折胸の痛みを訴える事があったが、この日の痛みはいつまで待っても鎮まる事はなく、徐々に三木老人の呼吸をか細くしていった。
「はぁ、はぁ、と、導星、ごめんな。どうやら、お迎えが来たみたいだ」
「爺ちゃん、冗談やめてよ。胸が痛むのなんていつもの事だろ?あとちょっと、あとちょっと我慢してたら収まるから」
「ごめんな、はぁ、導星。はぁ、お前のハタチの誕生日、はぁ、祝ってやれなくて」
「そうだよ、誕生日だよ!祝ってくれるって言ってたじゃないか!なあ!!」
三木老人の呼吸が急速に弱まっていく。
口をパクパクと動かし何かを言おうとしているが、漏れるのは息ばかりで声にはならなかった。
そして、その僅かな口の動きも止まり、「ひゅー、ひゅー」と聴こえていた最後の命の証も、やがて聴こえなくなった。
この日、導星は生まれて初めて「愛する者の死」を経験した。
平均的な同世代の若者よりも辛い経験の多い人生であった事は間違いないが、自身が大切に想っている人の死だけは経験が無かった。
三木老人の死後およそ3時間、導星は三木老人の眠るベッドの側で泣き続けた。
大きな声をあげて泣き喚くでもなく、ただ静かに、微動だにせず、ただ涙だけがいつまでも流れ零れて、止める事ができなかった。
その姿を見た職員は導星が必死に我慢しているように見えたらしく、「声を出して泣いてもいいんだぞ」と声をかけたが、導星には「大きな声を出して泣く」という事がわからず、どんな声を出せばこの気持ちが吐き出せるのかも想像ができず、ただ無言で涙を流し続ける事しかできなかったのだった。
ずっと涙を流し続けたせいで喉の乾きを感じ始めた頃、先輩職員から「今日はもう帰りなさい」と指示され、導星は職場をあとにした。
思考が全く働かず、ボーッとした状態で歩いていたら、あっという間に自宅に着いた。
何も考えず玄関を開けると、父親が起きて酒を飲んでいた。
普段なら「今日はツイてない」と思うところだが、今日はそんな事を考える余裕も無かった。
「おい遅ぇぞ!まぁいい、もうすぐ酒が切れそうなんだ。ひとっ走り行って買ってこい」
「………………」
何か返事をする気力もなく、無言で扉を閉めて再び夜道を歩き始めた。
歩き始めた最初の内は「酒を買いに行く」という目的を覚えていたが、数分後には自分が今どこに向かって歩いているのかわからなくなっていた。
そして「わからない」という事を自覚した時、ぴたりと足が止まった。
足が止まると同時に、今まで認識できていなかった周囲の景色が目に入ってきた。
そこは自宅近くの堤防の上だった。
右手側には住宅街が、左手側には川が流れている。
川の水面に月明かりが反射してキラキラと光り、今までこんなものを綺麗だと思った事はなかったが、この時は何故か綺麗だと感じた。
その時突然、ポケットの中のスマホが鳴りはじめ、ハッと我に帰る。
画面を見てみると『12月21日』と表示されていた。
知らない間に日付が変わっていたようだ。
あれ?俺、なんでアラームを設定してたんだっけ?
普段スマホのアラームなんてほとんど使わないのに、なんでだろう。
………ああ、思い出した。今日は俺のハタチの誕生日だった。
爺ちゃんが祝ってくれるって言ってたんだっけ。
アラームを設定していた理由を思い出した導星だったが、同時に何もかもどうでもいいと思えた。
視線の先に映っているのは夜の川。
流れは穏やかで、水深もそれほど深くない川だが、泳ぎがあまり得意ではない自分なら溺れるだろうか?
いや、溺れなくても真冬のこの時季なら凍死するだろうか。
そんな事を考えながら、ゆっくりと川の方へと歩みを進め始めたその時……
『待ちなさい!!』
突然、何者かの声が導星を呼び止めた。