十六節 精霊の泉
精霊の泉は、正に〝聖域〟と呼ぶに相応しい場所だった。
がっちりとした岩壁に囲まれたこの空間には、チャックから感じる様な神々しく神聖な雰囲気が漂い、今まで僕等が過ごしてきた世界とはまるで別物の様に感じられた。
泉に関しては、我が家がすっぽり入る程の広さだった。その向こう側には精霊を催したかの様な、胸に手を添えた女性の石像が堂々と立っていた。その高さは、見たところだと大体四、五メートルぐらい。圧倒的な存在感を醸し出していた。
しかしあの石像、何故か既視感の様な物を感じる。誰かに似ている様な……。〝大精霊ヴェルシャール〟の事だろうか……?
僕はふと足元を見る。青々と茂る草の緑色が美しかった。それに何故だろうか、靴の上からの筈なのに温もりを感じる。聖域ってだけで、こんなにも感触が違う物なのだろうか。
泉の近くまで行き、その水に触れた。信じられないぐらい綺麗に透き通った泉の水は、感触までもが普通の水とまるで違った。言葉には表せないが、やはり〝精霊の泉〟と呼ぶに値する物だった。
「あ、そうだ」
僕はここである事に気付く。この場所に来た一つ目の理由を忘れる所だった。
僕は魔力を解放すると、そのまま僕に仕えてくれている精霊達を全員現界させた。彼等の身体には、昨日の戦いで負った傷が、まだ少しばかり残っていた。
現界させた途端、後方で響君の感嘆の声が聞こえた気がするが、敢えてここでは触れないでおこう。確かに、響君に魔力の発動を見せるのは初めてだった気がするけど。
「さ、傷を癒しておいで。……と言っても、何をすれば良いのか解らんから、後は任せるけど」
正にその通りだった。
精霊の泉に来た所で、ここからどうすれば良いのかなんて全く解らない。流石に泉の水を浴びるだけで傷が癒えるなんて、そんな都合の良い事がある訳ないし。あとは彼等に任せよう。
精霊達は僕の言葉に頷くと、次々と泉の方へと飛んでいった。
そのまま泉に飛び込んだ。
………飛び込んだ?
「………は?」
突然目の前に広がった温泉浴場の様な光景に、開いた口が塞がらなかった。目はもう真ん丸だった。
……ここって神聖な場所じゃなかったっけ? もっと改まるもんだと思ったけど、これで大丈夫なのだろうか。
しかし、驚くのはまだ早かった。
泉に飛び込んだ精霊の姿をよく見ると、なんと傷がみるみる修復されていた。いつしか彼等の身体には傷跡すら残っていなかった。
………まじか、都合の良い事が本当に起きてしまった。まさか浴びるだけで、ほぼ一瞬で傷が癒えてしまうなんて。凄いな、精霊の泉。
「マスターが今驚かれている現象は、泉水の効果の極一部に過ぎません。あの水は、どんな不老不死の病であっても、飲むだけで治す事が可能です」
「あ、チャック」
チャックが後ろから声を掛けてきた。どうやら僕の驚愕を察したようだった。
「……凄いな、精霊の泉は。万能過ぎるだろ」
「故に、古くから多くの人から狙われていた物でもあります。ここを訪れるには、〝精霊〟の魔力者の力が必要ですので、誰も入る事が出来ていませんが……」
そう言うと、彼は微笑んだ。
相変わらず、感情が読み取りにくい表情だったが、何故かその微笑みから、少しばかりその人間達を小馬鹿にするかの様な感情を感じた。コイツ、見かけによらず随分中身が黒いんだな……。
僕はただ苦笑いするしかなかった。
闇深きチャックは軽く咳払いをする。
「……さて、では我々の目的も済ませましょうか」
そう言われた僕は後ろを振り向き、入口付近でずっと立ちっぱだった二人に手招きをする。
いや、前言撤回。いつの間にか入口は消えていた。目の前の景色につい見惚れてしまっていたというのもあるが、いつの間に消えていたんだろうか。想像以上にセキュリティが厳重のようだ。
二人が来た所で、チャックは僕の方を見た。
「では、マスター。今から魔力を解放して頂けますか?」
「え、また? まぁ、良いけど……」
チャックの指示通り、僕は渋々魔力を解放する。流石の僕でも連続で魔力を解放するのは体力が削れる。
「……こんな感じで良い?」
「はい、ではそのまま、泉の水に触れてみて下さい」
泉の水に……触れる?
こんな感じ、だろうか?
僕はその場にしゃがみ、水の表面に両手の五本の指の先を添える。
すると、驚く事に――。
僕が指を添えた所を中心に白い光の波紋が広がっていったかと思うと、泉全体が白い光を発し始めた。水に浸かっていた精霊達は、その光に驚いたのか、次々と泉から上がっていく。
目の前に広がる光景は、更に風情を増していた。
まるでテーマパークとかで見るようなイルミネーションだった。神秘的な白い光が泉の周りを包み込み、光の粒子の様な物が宙を舞っている様に見えた。
泉水はまるで鏡の様に、周りに広がる美しい空間を映し出していた。一連の流れを見て立ち上がった僕は、思わず息を呑む。
更に言えば、泉から物凄い量の魔力反応を感じた。これは凄い。魔力覚醒状態の雷鬼から感じた魔力を差し置く程の強力な反応だった。
「これが泉の本来の姿です。〝精霊〟の魔力と共鳴した事で封印が解け、本来の力を解放したのです」
「こ、これは……凄い……」
これが、精霊の泉の本来の姿……。
その光景は、今まで見てきた景色の中で最も美しく、心を奪われる物だった。
「さて、では皆さん」
思わず目の前の光景に釘付けになっていた僕達三人は、チャックの言葉によって呼び戻された。
「今からこの泉水を飲んで頂きます。この水を飲む事で皆さんの魔力が活性化され、より強力な物となります。味は普通の水と同様ですので、御安心を」
成る程、これが昨日チャックが話していた〝魔力の強化〟の方法か。回復出来る上に魔力の強化まで出来る……。どんだけ万能なんだ、この水は。
「……うーん。そうと言われてもなぁ……」
すると隣の日野子が口を開いた。
「普通の水と同じ、って言われても、得体の知れない物である事には変わりないからなぁ……。シルク、毒味お願いね」
「………へ? 僕でしょうか?」
突然、僕に依頼を押し付けてきた。
確かに気持ちは分からなくはないが、だからと言って僕に押し付けられても……。いきなり過ぎて、敬語になってしまったじゃないか。
てか僕も嫌だよ? 日野子と同意見で。水は綺麗だけど、変な味がするかもだし。流石にそんな物を口にするのはちょっと抵抗が――。
「シルク君……」
「響君?」
すると突然、響君が僕の右肩に手を置いてきた。
もしや、この状況から僕を助けてくれるのだろうか。なんて優しい少年なんだ、君は!
「………頑張れ」
「…………………………………」
そうか、そうかつまり君はそういう奴だったんだな。期待してた僕が馬鹿みたいだぜ。
「……はぁ、別に毒は盛ってませんし、御覧の通り綺麗な水ですので問題無いですよ……。そこまで警戒しなくても……」
「……分かったよ」
やれやれ、やむを得んな。
チャックが嘘を吐く訳ないし、これ以上駄々を捏ねても時間の無駄だ。それに僕は〝精霊〟の魔力者だからここは潔く責任を取らなければな。
僕は再びその場にしゃがむと、両手で水を掬い、それを口に含んだ。
……うん、味は悪くない。むしろ美味しい湧き水の様だった。
何の問題も無いと判断した僕は、それを飲み込む。
「………………?」
「……ん? どうしたの、シルク?」
「……何だろう、この変な感じは……」
――本当に何なんだろうか、この感じは。
水を飲んだ瞬間、身体の奥底が温まるような感覚に陥り、その後自分の体内に眠る魔力が疼き始めた様な気がした。疼く、という表現が正しいかどうか迷う所だが、少なくとも心臓の鼓動の様な物を感じたのは確かだ。
それに、何だか身体が少しばかり軽くなった気がする。力も漲ってくる様に感じるし……。更に言えば、体内に流れる魔力が、今までよりもはっきり分かるようになっていた。
――これが。
これが魔力の活性化というヤツなのか?
「どうやら無事に成功したみたいですね」
「す、凄ぇ魔力反応だ……。今までのお前とは比にならねぇぐらいの……」
「す、凄いよシルク……!」
周りからの声援を受ける僕は、未だに今の状況を理解するのに苦労し、混乱していたのだった。