運転(3)
~運転(3)~
8月に入りました。まだまだ暑い日が続きます。夜働いていると暑くないのでうらやましいと言われますが、昼間の暑い時間を眠ろうとするのです。エアコンがないと眠れないですが、エアコンをつけたまま寝るのは乾燥してつらいです。
夏はすごく疲れやすいです。けれど、私なんかよりお客様の方がお疲れになられています。ですから、この時期は車内の温度にすごく気を遣います。
また、タクシーに乗られてから喉が渇いたと言われるお客様もたまにおられます。そのため、予備のペットボトルを常備するようにしています。
お酒を飲まれている方をお運びするときにはこういうちょっとした配慮も大切です。
熱中症は昼間になるものだと思われがちですが、夜にだってなることはあります。お酒は水分でもありますが、利尿作用もあるのです。
と、いいましても私もそこまで詳しいわけではありません。自らも脱水症状にならないように気を付けないといけない。例え今が夜の2時だとしても熱中症になる時はなってしまうのです。
そういう時期なのです。そう思っていましたら目の前でスーツ姿の男性が二人立っておられます。次のお客様はあの方になりそうです。よい縁になりますように。
私はゆっくり車を止めて扉をあけました。
先に体の大きな人が入られ、次にスーツを着ていますがすごく華奢な男性が入って来られました。
「成増の方まで行ってくれ」
お客様が行先を言われましたので確認をします。
「川越街道をまっすぐでよろしいでしょうか?」
ルートを確認しておかないとトラブルになることだってあります。お客様には何か特別な事情があってとある道を走りたい方もおられれば、走らないでほしい道がある方もおられます。
そういうお客様もおられることを私は最近学んだのです。
「それでいい」
お客様がそう言われました。お客様の中には「それ以外の道があるのか?」と言われる方もおられます。でも、先入観を持って仕事をするのは怖いことです。
お客様を目的地までお運びする。運転手にできることは少ないのです。できるだけ嫌な思いをしないように、できることはすべてする。そのできることが少なくてもです。後確認することが一つありました。
「車内の温度は大丈夫でしょうか?」
8月の上旬。かなり暑いです。お酒を飲まれているため体が火照っている方もおられます。若干温度は低めに設定しているけれど、こればかりはお客様に確認して少しでも快適とまではいかなくても、不快な思いをしてもらわないように気を付けないといけません。
「ああ、もっと温度下げてくれ。暑すぎる」
そう言われましたので私は風を強めに設定を変えようとしました。すると先ほどの身体の大きな方ではなく小さな方がこう言ってきたのです。
「おい、今俺は寒いから温度を上げてくれと言おうとしたんだ。温度上げてくれ」
これは困りました。お客様の意見が分かれてしまいました。車内の温度を別々に変えることはできません。そう思っていたらお客様同士で話し合いが始まりました。
「おい、次は僕の番だろう、譲れよ」
「おいおい、一日のはじまりは俺の番だろう、譲れ」
話しの趣旨は私にはわかりません。何の順番なのかわかりませんが、険悪になりつつあるのでどうにかしないといけないと思いました。
「すみません。差し出がましいことを言いますがよろしいでしょうか?」
私はとりあえず口火を切りました。お二人は話しを止めたので、私はそのまま話すことに決めました。
「お一人様は暑いから温度を下げてくださいと言われました。それで、もう一方様は寒いから温度を上げてくださいと言われました。その中、お二人の中間が今の温度だと思います。不快かもしれませんが、しばらくこの温度で我慢してください」
そう言いました。すると、二人はしばらく黙っていたかと思ったら二人とも笑い出しました。
「そうだよ、そうすればいいんだ」
「そうだな、別にどっちかしないといけないって理由はないんだ」
それから二人ともさっきまでの険悪な雰囲気がなくなりました。私はよかったと思いました。すると後ろから話し声が聞こえてきました。
「なら、あれもどっちも選ばないというのが一番なんじゃないのか」
「そうだな。どっちを選んでもつらいだけだものな」
そう言って二人は笑い合っています。タクシーに乗り込まれた時はどちらかというととがった空気がありましたので、私の苦し紛れの言葉が何かを変えたのだと思いました。そう思っていたら体の大きな方がこう話してきた。
「運転手さん、ありがとう。助かったよ。ちょっとだけ話しを聞いてくれ」
話したいお客様をお止めする理由なんてありません。聞くとその内容はこういうものでした。
二人と仲が良い女性が居た。二人ともその女性を好いていたとのことでした。
そして、今日意を決し告白をしたら、返ってきた返事が二人の予想を上回るものだったと。
その内容は実はその女性はバツイチで、子供がいるとのこと。今子供は両親がめんどうをみているがやはり自分でめんどうをみるように言われている。
だから、どちらかと付き合って、どちらかに子供を引き取ってもらいたい。その女性はまだ自由でいたいとのこと。
そこで、このお客様はどっちの順番だと押し付け合っていたとのことでした。そこで、どっちの選択も取らないと言う話しを今決めたということでした。
話し終わった時には成増についていて、お二人の家の近くでした。
「お忘れ物ないようご確認ください。ゆっくりでかまいませんので準備ができましたらお降りください」
そう言って降りた二人はその体格差からなのかものすごく仲の良い夫婦に見えてしまいました。
ちょうどお二人とも隣同士にお住まいでしたし。その時体の小さい方が大きい方に向かってこう言っておられました。
「お前が変なことを言うから運転手さんが困っていただろう」
「おいおい、どちらかというとお前が『俺が子供の面倒をみる』と言い出したのがあの飲み会がおかしい方向に行ったのだろう。なんでそっちを選ぶんだ」
「だって、あの時俺の順番だっただろう。なら選ぶのはそっちだ」
「意味不明だわ」
いつまでも話しを聞いていたかったですが、私は頭を下げて車を動かしました。