運転(2)
~運転(2)~
普段は夜タクシーを走らせている私ですが、土日や祝日となるともう少し早い時間から走らせるときがあります。
早い時間からでもタクシーに乗られるお客様は多くおられるのです。
その中でこの日は特別でした。そう西武池袋線で人身事故があったと聞きました。振替輸送をされているとのことですが、カバーできないエリアがあるのも事実です。
それにお客様の中には急ぎの方もおられます。振替の電車も混んでいますし、バスだって混みます。
もちろんタクシーもなかなかつかまらないでしょう。
そう、私はそんな中、池袋でお客様を練馬駅までお届けしました。
その方は着物を着られていました。なんでも練馬に用事があるとのことだったのですが、さすがに振替の電車で押しつぶされては困るでしょう。そのおかげもあり縁があって私のタクシーにご乗車いただけました。
降ろしたらですね、すぐに目の前の若い男性に止められました。ものすごく急いでらっしゃるのかすごい勢いでした。
でも急がれているのであれば大通りから中に入ってきた私のタクシーより他のタクシーの方が良いようにも感じられます。けれど、その方は焦っておられたようなのでお乗せいたしました。
服装も礼服。そしてネクタイも黒というものでしたので不幸があられたのがわかります。それゆえ遅れることもできなかったのでしょう。
急がば回れ。そういう言葉もありますが、今の私にできることはこのお客様をいち早く、目的地にお届けすることだと思いました。
それはタクシーを運転する私の使命でもあります。
「どちらまでいきましょうか?」
そう言うとお客様は鞄から紙を取り出して、そして住所を言われました。石神井公園の方です。ナビに入力するとそのお客様は「一つお願いがある」と言って来られました。
急いでほしいのだと私は思っていました。けれど、そのお客様が言うセリフは違いました。お客様はこう言われたのです。
「できるだけ大通りを通らないで行ってもらいたい」
私は目白通りから富士街道を通って石神井公園付近まで行こうと思っていました。
そのためどこかでUターンをしてから目白通りを走ろうと思っていましたが、それはできなくなりました。もちろん、今入れたナビも同じルートを示しています。
お客様には色々な事情があられます。それを聞くことはルール違反かもしれません。でも、私は気になりました。
明らかにお客様は急がれているのがわかるからです。しきりに時計を気にされていますし、携帯で「遅れます」という連絡を入れられています。
この辺りは一方通行が多いエリアです。そしてそこまで裏道に詳しくない私は早くお客様をお連れすることができません。
そのため、お客様に差し出がましいと思いながら質問をさせていただきました。
「すみません、お急ぎの用ですが、どうして大通りを走らないでとおっしゃるのでしょうか?この辺りは道も入り組んでいます。よければ事情をお話しください」
そう私が話しかけるとその男性はゆっくり話してくれました。
「運転手さん。私はほんの1か月半前までは毎日車を乗っていました。あの時、そう雨が降ったあの日まで。あの日、私が彼女を野間さんに声をかけなければこんなことにならなかったのです」
俯きながらそう話される男性は苦しそうで、でも、誰かに聞いてもらいたい感じもしました。私は注意深く耳を傾けながらできるだけ急いで車を走らせました。男性は続けます。
「あの日、雨が降っていました。会話ははずみ楽しかったのです。だから私は少しだけ、そう少しだけ注意力が落ちていたのだと思います。大通りを走っていました。その時私はついこう言ってしまったのです。『イッヒ シュテー アオフ ディッヒ』と。意味がわかりますか?」
私はその単語がドイツ語だとわかりました。そしてその意味も。でも、ここは知らないと答えるのがいいのだと判断しました。この男性は説明をしたがっているのです。そう思っていたら男性は私の返事を待たずに話し続けました。
「そう、このイッヒ シュテー アオフ ディッヒって意味は好きだという告白です。僕と彼女は第二外国語でドイツ語を選択しました。そこで仲良くなったのです。でも、この言葉は授業で習っていません。野間さんも知らないと思っていたのです。でも、彼女はびっくりした表情をして、その次にカバンからルーズリーフを一枚取り出して何かを書きだしたのです。
私はその彼女の様子を見ていました。でも、その時ナビがこう言ったのです」
『次を右です』
「私は前を向きました。ちょうど信号は右折ができる状態でした。なので私はその奥を見ずに右折をしようとしました。問題はなかったはずです。ですが、トラックが直進してきたのです。気が付いた時には事故になっていました。後でわかったことですが、トラックを運転していた人は居眠り運転だったとのことでした。雨だったこと、前を見ていなかったこと。色んなことが重なりました。でも、私が野間さんをあの時誘わなければ、いや欲を出さなければ、いや、あんな告白をしなければといつも思ってしまいます。そう、思うと私はもう車に乗れなくなりましたし、大通りを走ることが出来なくなったのです。それは自分が運転していなくてもです。バスもタクシーも。ダメなんです。だからすみません。わがままを言います。このまま大通りを走らないように進めてください」
私にはこの男性にかけてあげる言葉はありませんでした。ただ、言えたことは「わかりました」という言葉だけでした。
そう、この男性が来ている服装が礼服だということ。そして、1か月半。49日なのでしょうか。そこに顔を出そうとしている。
私にできることと言えばただできるだけこの細道を間違わずに走り続けるだけなのです。
ようやく目的地に着きそうです。
男性の表情も少し落ち着いてきました。でも、ずっと暗く翳ったままです。男性が言いました。
「今でも彼女が、野間さんが最後に書いてくれたメモを離せません。でも、なんて書いてあるのか怖くて調べられないのです」
そう言って男性が料金を支払う時にそっとメモを見せてくれました。
そこにはきれいに伸ばしてあるけれど、もとはしわがあって、血なのか黒くなっているルーズリーフにこう書かれていました。
「Ja,ich dich auch」
私は本当に差し出がましいと思いながら男性にこう伝えました。
「それは返事ですね。『私もです』という内容が書かれていますよ」
そう言って私はお釣りを渡しました。
「お客さん、私にはできることはあまりないかもしれません。けれど今日一日お客様を乗せていない時は大通りを走らないで起きます。その彼女の追悼のために」
男性は天井を見上げながらこう言ってくださいました。
「その話し、これからこの家族にしてもいいですか?」
「もちろん。では、忘れ物ないようにお降りください」
私はゆっくりと降りるその男性を見ながら頭を下げました。約束通りその日は池袋に戻る時は大通りを通らずに走りました。
私にできることなんて限られていますから。