大通り
不運という言葉ですませていいものではない。何かをなくしたということは何かを手にしたことでもあるという考えがあるらしいが、少なくとも私にはなくしたものは多くあれど、手にしたものは何一つないだろう。
だが、私が無くしたものなんかたかが知れている。そう思っていたら電車が人身事故で運転していないことを駅で知った。
駅員は振替輸送を進めている。だが、これから行く場所はどうしてもこの電車でないといけない場所なのだ。
仕方がない。私は駅を背に歩き出した。目的地に行くには振替輸送で近くまで行きバスに乗るという方法もある。だが、それだと困ることがあるのだ。
仕方がない。タクシーで移動をするか。タクシーなら大丈夫だろう。私はそう思って振輸送を行っている駅に向かって歩いて行った。
大勢の人が歩いている。道など知らなくても問題はない。
商店街がある。そういえば、こちら側に来ることは最近ではなかったことを思い出した。少し前までは、こちら側にも来ることがあったのだが避けていたのだ。
私はそう思い返していた。あの頃を。
学生時代に合宿で免許を取りに行こうという話しになった。皆大学生。しかも男ばかりだ。話していたのは車があればナンパができるということだった。
大学に行って気が付いたことがある。男女比がまずただしくないのだ。校内を見ると確実に男子ばかりがいる。それは学部のせいなのかもしれない。
文系なら女子もいるだろう。そういう思いがあったのだ。だが、文学部とかは女性がまだいるが、経済学部となると女性もそこまで多くない。
しかも、その数少ない女性に男子が群がっているのだ。よく見るとそこまでかわいくない女子にも男子が群がっている。
その様子を見て、別に男子だけでもいいじゃないか。というあきらめに似た思いをもって集まったのが、今私がいる集まりだ。
教室の後ろに固まり、どうでもいいことで盛り上がるのだ。その中で、合宿で免許を取ろうと話しになった。
金額を見て、まずバイトをしないといけないことを知った。何をすると言う話しになり、短期バイトを眺めることとなった。
大学に入りまだ4月も中旬の頃だ。話した中ではまあまあ楽しい面子だ。部活やサークルに入りたいヤツは一人もいなかった。簡単に言うとあぶれていたのだ。
授業も適当に受けていたし、どこにも属していないからどの授業が単位を取りやすいとか言う情報もない。
唯一クラスを固定されている外国語の授業とゼミだけがバラバラだったが、後は気が付くとそこまで人気でない授業を皆がとっていた。
満席でない、抽選にもならない授業を選んだのだ。その結果集まったのがこの男子5名の集まりだ。
毎回出欠を取る授業を受けながら一番後ろに陣取っている。授業は誰も聞いていない。理由は後ろに座ったら教授の声が聞こえないのだ。しかも大教室。黒板の文字も見えない。一度オペラグラスを持ってきて覗いていたら文字は見えたけれどめんどくさくてあきらめた。
まあ、そのオペラグラスは別の用途で使うのだが。そう、大学で居たのだ。一人だけとびっきりタイプの女の子が。いつもその子を中心に大勢の男子が取り囲んでいる。
名前も知っている。
「野間 幸恵」
別にストーカー行為をしたわけじゃない。そう、この面子は別々になっているが自分が取っている外国語の授業で一緒なのだ。
そのおかげで名前を知っている。それに会話をすることもある。授業でだが。慣れなない第二外国語。どうしてかドイツ語を選んでしまった。
「グーテン モルゲン」(おはよう)
「アウフ ヴィーダーゼーエン」(さようなら)
そう、十分な会話だ。
「ゼーエン ヴィア ウンス ヴィーダー」(また、会いましょう)
約束だってしている。そう、授業に行けば彼女に会えるのだ。合宿免許に行くのなら付き合うが平日は学校に行きたい。野間さんと話したいからだ。
彼女は少し明るい髪をした女性。髪は短くまるでマッシュルームみたいだ。口紅が赤くめだっている。それは肌が白いからかもしれない。
小さな体でいつも誰かと話すときに体を大きく動かして、精一杯物を伝えようと頑張っている。元気いっぱいなのだ。
背も小さく、体も細い。一体その体にどれだけのエネルギーを秘めているのだろう。そういうしぐさをついオペラグラスでおいかけてしまう。
「おい、直友」
呼ばれながら肩をたたかれた。
「うん?なに?」
オペラグラスをノートの上に置く。もちろんノートは書いている。そうでないとオペラグラスを使っている理由にならない。黒板、自分の間にちゃんと野間さんがいるのだ。大体同じ場所に座っているからこそ成り立つ構図だ。
「だから、合宿免許だよ。お前も取りに行くだろう」
「ああ、でも、平日は避けたいよね」
うん、せっかく話す仲間ができたんだ。合宿免許には付き合いたい。でも、他の日はともかくドイツ語の授業は休みたくない。水曜日の1コマ目という結構つらい時間帯だけれど、寝坊することなく、しかも少し早めに教室に入るようにしている。
当てられても大丈夫なように、予習だってしている。
教室に入って目が合って「おはよう」と声をかける。授業で話し合う相手になれるように席も近くに座るようにしている。
「フュア ディッヒ トゥ イッヒ ドッホ アレス」(君のためならなんでもするよ)
そんな言葉も先に調べていたりもする。
「イッヒ シュテー アオフ ディッヒ」(好きだ)
いつか言えたらいいなと思っている言葉だって予習済み。ただ、文字がまだまだだ。でもいいんだ。こう言うのは声に出して伝えたいから読み方さえ覚えていればいいんだ。
そのため、私の教科書は大抵カタカナをふってある。読み方を調べてはカタカナを書いていく。おかげで、文字だけを見たって意味がわからない。
でも、授業でなら会話はできる。聞きなれない単語ばかりだけれど、それで想いを伝えるなんてものすごくかっこいいと思っていた。
だから、いつか言えたらいいなという思いで覚えたのだ。もちろん、それ以外の言葉も覚えている。そこに野間さんがいるからだ。なんとなくとったドイツ語だけれど、興味がわいてきたのだ。
「ならさ、ゴールデンウィークにいかないか?」
「そうだな、5月1日、2日休めばちょうどいいかもな」
カレンダーを見る。大丈夫。水曜日は赤い色を示している。
「いいね」
「んでも、結構お金かかるけど、みんな大丈夫か?」
大問題だ。だが他の奴が言う。
「車あるとやっぱりモテるだろうな」
そう言われて、授業終わった後に車でドライブに行くことを想像した。
助手席に野間さんがいる。それだけでなんだかドキドキしそうだ。車ってあの空間がいいのだ。あの空間に二人っきりでいる。夢だ。いや、実現したい。夢は見るものじゃない、叶えるものだって誰かが言ったらしい。ならば叶えるか。
「じゃあ、バイトだな」
そこからバイトラッシュだった。短期バイトに登録をした。建設現場でのバイトもしたし、冷凍倉庫での仕分け作業もした。
ちゃんとみんな目標額までお金をためてきたのだ。まあ、ちょっとだけ母さんにお願いをして前借もしてしまったけれど、それはバイト代が手渡しじゃなく振込で間に合わなかったからだ。
ゴールデンウィークが終わったら返すことができる。そして免許も取れた。
だが、当たり前だけれど、免許が獲れたからと言って目の前に車が現れるわけでもない。それにうちは車がないのだ。
都心に住んでいるから車はいらないでしょうと父親も母親も言っていた。それにめったにつかわないからレンタカーでいいと言うのだ。
さすがにレンタカーではカッコがつかない。だからバイトをつづけたのだ。ありがたいことにゴールデンウィーク前に行っていたバイト先にまたバイトに行きたいと言うと承諾をもらえた。もちろん、つらかった冷凍倉庫の仕分けや建設現場の荷物運びとかは避けたが。もう少しだけ楽で地味で給料はちょっとだけわるいし、即日渡しじゃない所になるけれど選んだのだ。
だって、次は別に即日でなくてもいいのだから。
だが、バイトでどれだけくたくたでも水曜日の朝は学校に行った。
「グーテン モルゲン」
いつもと同じように声をかける。そこにマッシュルームカットの女の子がいた。野間さんだ。いつもより早い。
「おはよう、荒田くん」
名前を呼ばれた。うれしかった。透き通る声。少し高いその声はものすごくかわいらしい。それだけで幸せだと思っていたらこう言われた。
「荒田くんってさ、確か人文学の授業取っていたよね?」
そう言われてドキっとした。いつもオペラグラスでこっそり野間さんを見ている授業だからだ。
「うん、取っているよ。確か野間さんも取っているよね」
そう、あの授業はいつも野間さんの周りに人がいっぱいいるのだ。男性ばかり。女性は野間さんしかいない。確か男性が7人くらいいるのだ。しかも結構イケイケな感じの。野間さんが言う。
「なんかあの授業って毎年テストの内容同じなんだって。いつも一緒に居るメンバーの一人が教えてくれたんだ。それで、コピーもらったからよかったらいるかなって」
「いいの?だったら欲しいな。でも、ただでもらったら悪いからお礼させてよ」
そうだ。ここでご飯とか誘えばいいんだ。なんか今日は朝からついている。そう思った。でも、返って来たセリフは想像と違った。
「いいよ、べつに。私ももらったものだから。お礼だったら私じゃなく七尾がいいかな?」
七尾?誰だそれ。しっぽが七つあるのか?いや、そんな生き物知らない。九尾だったらわかるけれど、あれって狐だよな。二つしっぽを狩られたのだろうか。
「七尾って誰?」
多分人なんだろうと思った。ひょっとしたら知らない女の子なのかもしれない。そう思ったら野間さんはこう言ってきた。
「あの人文学の授業でちょっと髪がながくてヘアバンドで止めている人。あれが七尾よ」
言われてすぐわかった。あの男性7人組の中で一番ちゃらそうなのだ。髪の毛が茶色で伸ばしている。ヘアバンドで止めている。
こっちのグループでは、あれはナルシストだろうってことでナルくんって呼んでいるんだよね。あのナルくんが七尾か。って、七尾って苗字なのか?それとも名前なのか。
名前だとしたらどんな関係なのだ。彼氏なのか?彼氏?
「仲いいんだね」
気が付いたら声に出ていた。野間さんが言う。
「う~ん、どうだろう。人文学の授業で一緒だけれど、それだけだよ。それに大勢いるから誰と仲いいとかじゃないし。まあ、みんな七尾って呼んでいるから私もそう呼んでいるの。実際その七尾が苗字なのか名前なのか私も知らないし」
なんか少し安心した。というか、そんなものなのか。あのナルくん。というか次うちらのメンバーでこの話し言ったらナルくんからナナくんになるだろうな。
いや、それだとわかられるから、セブンだってなるかもしれない。
セブン、セブン、セブンって言うだろうな。想像がつく。
「そうなんだ。でも、私は七尾さん、だっけ、知らないし。いきなり知らない人からお礼言われても怖いだろうしね。こっちも知らない人にいきなりお礼言うのもなんだから。だから、今度何かでお礼させてよ」
そう言ったら野間さんにこう言われて。
「じゃあ、あのオペラグラス貸してよ。実はずっと気になってたんだ。だって、荒田くんあの人文学の授業でオペラグラスつかってノート取っているでしょう。あれ、面白くって。でも、確かにあの先生、黒板に書く字が小さいんだよね。つかいたくなる気持ちわかる。一度私もあれやってみたかったの」
びっくりした。意外と見られているものなんだ。そんなに奇抜なのか?オペラグラスでノートを取るのは。
まあ、確かに誰も見たことはない。というか教室の後ろの方にいるやつでノートを取っているヤツがそうそういない。
他にも後ろで固まっているメンバーはいるけれど、誰もノートをとっていない。あれはテストの時どうするのだろう。いつも不思議だった。
「いいの?そんなので。だったらいつでも貸すよ」
そう言ってカバンから取り出した。実は誰にも触らせたことがない。
このオペラグラスはちょっとだけ高いのだ。といっても、自分で買ったものじゃない。おじいちゃんが昔使っていたものだ。
専用の茶色い皮の袋にいれている。そこから取り出した。銀色のフォルムに金色で文字が書かれてある。
でも、かすれて文字は判別できない。英語なのか何かなのだろう。年期が入っているのがわかる。
「これ、高そうだね。なんか持つの勇気がいる」
野間さんが言う。
「高いと思う。おじいちゃんの形見なんだ。それ。子供のころからそれが欲しくってずっとねだっていたんだ。ちょうど去年かな。じいちゃんが死んで。それでもらったんだ。だからずっと大事にしている」
その大事なオペラグラスで、僕にとってもっとも大事な野間さんを眺めているのだ。そして、今そのオペラグラスを野間さんが手に取っている。オペラグラスで私を覗き込んでくる。
「うわ~なんかすごい」
「いや、もっと遠くを見なきゃわからないと思うよ。ドイツ語の後って何か授業ある?よかったらどこか大教室にこっそり忍び込んでみるとか」
実はこの後私は授業がある。そして、野間さんは少し空き時間があるのを僕は知っているのだ。
伊達に野間さん調査隊の隊長をしているわけじゃない。ってか、そんなのがあるのかどうかも知らないけれど。野間さんが言う。
「いいの?荒田くんは授業は?」
「実はあるけど、大教室だからこっそり忍び込んでもばれないよ」
それは本当だ。なんか心理学概論というものだったのだが、面白いかと思って取った一般教養がそれほど面白くないのだ。これが眠すぎて後ろの方の席は死屍累々なのだ。野間さんが言う。
「じゃあ、ちょっと寄ってみようかな」
そんなこんなで私は野間さんと次の授業も一緒になることになった。そう、その行動は実はしばらく続くのだ。
6月。梅雨前線がよくわからない動きをしはじめた。雨が降るのか降らないのかわからない日々が続く。
梅雨入り宣言がされないのだ。異常気象なのかもしれない。けれど、そんな中私は中古車だけれど車を手に入れたのだ。
日産のマーチだ。10万円を切っていたのでかなり安い。しかもこれでナビ付なのだ。色はシルバーだけれど、別にいいと思った。だってピンクとか言われたら勇気がいるけれどシルバーなら見た目もいいと思った。
別に車で学校にくる必要性はまったくないのだが、実は構内に結構駐車場があるし、なぜか学校の近くにあるパチンコ屋にも駐車場がある。
そのため、自慢したい思いもあったからなのか車で学校に行くことが増えた。
ちょっとの移動でも車を使ってしまう。癖になってしまったのだ。けれど、それが自分にとって過ちだったのかもしれない。
あの日も車で学校に行っていた。空の雲がどんどん変わっていき、黒々としてきたのだ。それからゲリラ豪雨のように雨が降り出した。
すぐに止むと思っていたら雨足は弱まったが、雨が止むことはなかった。その時ふと廊下で野間さんと出会ったのだ。
その日はまったくのノーマークの金曜日だった。金曜日の野間さんのスケジュールを把握していなかったのだ。
調査不足だ。失態だ。そう思っていたら野間さんがこう言ってきた。
「雨だね。傘持ってきていたと思ったら忘れたみたいで」
学校から駅までは結構歩く。傘がないとかなり濡れるだろう。
「まだまだ降りそうだね。この後何か予定あるの?」
空を見る限り晴れそうには見えない。携帯で天気予報を確認するとまだしばらくは雨らしい。
「用というか、家に帰らないといけないの。お母さんに用事言われちゃって。まあ、絶対ってわけじゃないんだけれど。うちの実家は店をしていて、ちょっと店番をお願いされていたの。でも、この雨だから困っていて。しかも、生協も傘売り切れらしいの」
困った顔をしていた。
「なら、一緒に帰る?車だし。近くまで送っていくよ」
「いいの?」
「いいよ。前にもらったあのテストのコピーすっごい助かったし」
もらったものは小テストのコピーまであったのだ。皆大助かりだったし、すっごい感謝されたのだ。
「あれ、私ももらい物だよ。でも、迷惑じゃなかったら乗せて行ってくれたらうれしいな」
これが夢でなければいいのに。私はそう思った。
「じゃあ、車取ってくるから、え~と、校門近くに屋根あるじゃない。あのあたりで待っていて。あそこなら濡れないと思うし」
気が付いたら走っていた。
助手席に野間さんが乗る。それだけでうきうきしていた。なんて会話しよう。そうだ。あのセリフをこっそり言ってみようかな。
「イッヒ シュテー アオフ ディッヒ」(好きだ)
授業で習っていないからきょとんとするかもしれない。でもいいのだ。伝わらなくたって。
何度も何度も「イッヒ シュテー アオフ ディッヒ」と心の中でつぶやいた。鼻歌だって歌っていたかもしれない。雨に感謝したい気持ちだ。
傘をさして駐車場を歩く。シルバーのマーチが待っている。助手席側を開けて汚れていないか確認する。ゴミを取り除き確認する。大丈夫。匂いも気になり鼻をくんくんさせた。変なにおいもしない。
これなら大丈夫。
運転席に座り、深呼吸をする。何か曲をかけたほうがいいだろうか。それともラジオがいいだろうか。結局悩んだ末ラジオにした。
野間さんの曲の趣味がわからないからだ。曲はJ❘POPを入れている。偏りがないようにしているのだが、統一感はない。流行の曲だけを入れているからだ。
変な人と思われるより真面目なニュースが流れているラジオにした。いつも聞いたことがない局だ。フリスクを取り出して口臭チェックもする。
大丈夫。私はアクセルを踏んでゆっくり校門前に向かった。
野間さんが助手席に入りやすいようにぐるっと回ってすぐ近くに止めた。毎日車に乗っているから運転もうまくなったものだ。
扉を開けて野間さんが助手席に座る。
「ごめん、待ったよね?」
あせって準備したけれど時間がわからなかった。野間さんは「ううん」と言った。ちょっと俯いているその表情がすごくかわいかった。
「どこまでいけばいい?」
そう聞いて野間さんは「駅まででいいよ」って言ってきたけれど少しでも長く居たかったから送ると言い張った。すると野間さんはこう言ってきた。
「じゃあ、石神井公園までお願い」
そう、私はこの時に選択を間違えたのだ。
あれから1か月半か。
私は振替輸送で地下鉄を使い練馬駅まで来ていた。ここからタクシーに乗る。少しだけ歩いてみた。通りを見る。まだ、思うことが多い。練馬駅付近で止まって客を降ろしたタクシーを捕まえた。
ちょうど中に入り込んでいる。このタクシーなら大丈夫。乗り込んでお願いを言う。
多分、怪訝な顔をされるかもしれない。でも、ちょっとぐらいいいだろう。お客なんだから。