運転(1)
タクシーに乗って自宅に帰ることになれてらっしゃる方は自分の家の近くに何が目印になるのかをわかられておられます。
でも、そういう方が多いわけではありません。特に夜タクシーを走らせている私はお客様がうまく説明できないことをくみ取らないといけないのです。
今回乗せたサラリーマンの方も家の近くに何が目印になるのかわかられていない方でした。
まず、いつも使われている電車の最寄駅を聞きます。
でも、線路沿いには走れません。線路の上も当たり前ですが走ることはできません。なので、大通りを走りながら近づいたら見知った場所があるかを聞かないといけないのです。
けれど、あまり遠いとその間に眠ってしまわれるお客様もおられます。
話しかけた方がいい場合もあれば、一人でそっとしてほしいお客様もおられます。
このお客様もどちらかというと一人でそっとしてほしいのではないかという雰囲気を持たれていました。
私は車を走らせました。
「車内の温度は大丈夫でしょうか?」
確認しないといけないことはあります。この季節まだ外は肌寒いですが、お酒を飲まれている方の中には暑いと言われる方もおられます。
お客様を目的地にお届けする仕事ですが、もちろん縁あって私の車に乗っていただけたのです。快適とはいかないかもしれませんが不快な思いをさせてはいけない。私はそう思っています。
お客様は「大丈夫だ」と言ってくれました。
それと、その話しぶりからこの人はお酒に酔われてはいますが、まだしっかりされているので大丈夫だということがわかりました。
駅も富士見台が最寄駅ということでしたので、そこまで時間がかからずにいけそうです。今日は木曜日ですし、そこまで道も混んでないでしょう。
私は大通りを走っていました。するとお客様が中村橋駅付近を過ぎたら話しかけてきました。後一駅で最寄駅の富士見台ですから見慣れた場所ができたのでしょう。
「この先の道をおしえていただけると助かります」
そう言ったのですがお客様は乗り出して周りを見られています。するとこう言われました。
「この先を左に曲がってほしい。もう少し行ったら小さい公園があるはずだからその近くで降ろして欲しい」
そう言われたので私は左に曲がりました。住宅街です。この辺りは一方通行が多いので注意をしないといけないです。
普段から車に乗られている方は一方通行がわかりますが、電車通勤で車を普段乗られていない方だと歩いているのと同じ感覚で道を言われてしまうことがあります。
車ではいけないことをわかってもらえたらいいのですが、お酒というものは怖いものです。その勢いで怒りだす人もいます。
そのため、注意をして車を走らせていました。するとお客様がさらにこう言ってきたのです。
「この先を右に曲がってください」
そう言われた時に思ったのです。この先にある公園は一度近くを走ったことがあるので偶然にも知っていました。地図にものっていないのでは思うくらい本当に小さな公園です。
でも、今の道をまっすぐ行ってもその公園にはいけます。でも、この先を右に曲がると細い路地です。
お客様の目的地はその路地なのかもしれません。私は右に曲がりました。
本当に細い路地です。車が1台ギリギリ通れるかどうかという道です。
目の前の民家の自転車なのでしょうか。このままいくと巻き込んでしまいそうです。仕方がない。
「お客様、すみません。ちょっと前にある自転車をどけないとすすめないのでいったん止まりますね」
私はお客様の承諾を取って、車からおりて自転車を移動させました。その先にも同じような自転車があったので走って動かしてきました。車に戻るとお客様は周りをすごく見渡しています。
「お客様、そろそろ目的地ですか?」
暗くなるとこういう路地はわかりにくいのかもしれません。もしかしたら引っ越してきたばかりであまり周囲に詳しくないのかもしれません。でも、お客様はこう言われたのです。
「いや、公園を通り越えた向こう側だからまだ先です」
そう言われて私は後ろを振り返りました。まだ路地は入ったばかりです。バックをして戻ったほうが多分早く目的地に着けるでしょう。確認したほうがいいのかもしれない。私はおせっかいかもしれないですが、そう思いました。思ったらすぐに声に出してしまいます。
「お客様。もしよかったらでかまわないのですが、後学のために教えてほしいです。公園まででしたら先ほど走っていた道の方が広いですし近道です。こちらの道は細く、遠回りです。もし、よかったら引き返しますがいかがいたしましょうか?」
お客様が指定した道なので問題はないのかもしれません。でも、私はお客様をお届けすることでお金を頂戴しています。
遠回りになることがわかっていて、それで多くお客様からお金をいただくわけにはいかないのです。お客様はしばらくしてから話してくれました。
「この道。久しぶりに来たんだ。この道は俺の初恋の人と、歩いた道なんだ。だから通りたかった。もう、通れなくなるかも、いや、しばらく通れなくなる道だから」
私はそれを聞いてこう返答しかできませんでした。
「では、できるだけゆっくり走りますね」
まるで歩いているのではと思うくらいの速度で私は車を走らせました。お客様が何も言われなかったので、その速度で公園近くまで走らせました。公園につくとお客様から「ここでいい、ありがとう」と言われました。
「いえいえ、差し出がましいマネをしてしまいました。では、お気をつけてお帰りくださいませ」
私がその時見たお客様の表情はものすごい笑顔でした。お客様が言う。
「俺ね、転勤するんですよ。でも、なんかうまくいかないことばかりだと思っていました。でも、そうでもないんだなってちょっと思えました。では」
そう言って降りて行ったお客様はまるで柔らかな風が吹いているかのようでした。
さて、次はどういうお客様がこのタクシーに乗っていただけるのでしょうか。
私は車をまた池袋に向けて走らせました。私は車を走らせるくらいしか能のない人間ですからね。