転勤
辞令
「佐久本 実を、平成○年○月1日付をもって 大分営業所 営業部 課長に命じる」
事前に異動の話しは聞いていたが、まさか東京から九州、しかも大分に転勤になると思っていなかった。だが、周りはこう言うのだ。
「佐久本、すごいな。お前の歳で課長になるって今までなかったんだぞ」
「俺らの同期の中だとお前はすごいやつだと思っていたがもう課長か」
本当にうらやましいと思っているのだろうか。
確かに俺は社会人になってからがむしゃらに仕事をしてきた。他の誰かが休んでいても俺だけは働いていた。それには理由があるのだ。
就職活動をして、知ったことがある。いや、思ったことかもしれない。それは学生時代と同じままではいられないということだ。
そのため、付き合っていた彼女と意見がどんどん合わなくなって言ったのだ。
彼女、加奈子は2歳下だった。彼女は俺が就職活動をして社会を知っていき、焦る中、加奈子は遊んでいた。俺の中では社会を見知ったその事をちょっとだけ得意げになっていたのだ。学生でもない、社会人でもない。境界線に立てるのだ。でも、実際はそんなにゆとりはなかった。
だから色んなことを見落としていた。
苦しんで内定を取った。承諾書を送付した後に企業の人事担当からは資格取得の勉強を言われたのだ。
「就職してからも研修がありますが、事前に勉強をしておくと楽ですよ」
俺は負けず嫌いだ。高校までは陸上をやっていた。短距離だった。隣にいるやつを抜けばいい。でも、いつも1番にはなれなかった。だから悔しかった。
大学に行ってからは陸上をしていない。走ってもいない。もっとスマートなことをしたいと思っていたのだが、気が付いたらスキーをゆるくするサークルに入っていた。
そのサークルで加奈子と出会ったのだ。
加奈子は一見おとなしそうに見えるのだ。髪も長く、でもまっすぐと言うわけではなく少しだけ癖があるのだ。ゆるくパーマをあてているのかと思ったらそうではないらしい。
顔自体はそこまでかわいいという感じではなかったのだが、笑顔がすごくかわいいと思ってしまう。加奈子自身は口が大きいことを気にしていたが、その少し大きめの口を開けて笑う姿をかわいいと思ったのだ。
だから、できるだけ一緒にいるようにしていた。サークル内には他に人気の子もいたが、俺はその子はかわいいけれど、かわいいだけだと思っていた。
かわいいことを知っていて、ちやほやされるのが当たり前と思っている子だったのだ。だから俺にはライバルはそういなかった。
ライバルがいない子を選んだわけじゃない。加奈子の笑顔が良かったのだ。その笑顔を俺にだけ向けてほしい。そう思ったのだ。
いや、そういうセリフを加奈子に言った記憶もある。まあ、色んな偶然も重なって俺は加奈子と付き合うようになったのだ。
俺も加奈子も実家だったので待ち合わせをして出かける。待ち合わせは池袋。俺が西武池袋線で、加奈子が東上線だ。
いつも加奈子を見送ってから俺は帰っていた。けれど、就職活動をしはじめてから俺は加奈子が言うには変わったらしい。いや、実際に変わって行ったのだ。自覚はある。
いままでふわふわした気持ちでいたのだ。サークルで遊んで、金が足りない時にだけバイトをしていた。それでいいと思っていたのだ。授業は適当に出て、誰かからノートのコピーをもらい、先輩から単位の取りやすい授業を聞いてそれを受講する。
だが、就職活動をしてはじめて「自己分析」というものを知った。
俺って一体どういう人間なんだろう。そうやって自分を見つめ直すことなんてなかったのだ。焦った。
頑張ったことなんて聞かれても何もないのだ。ただ、適当に遊んで、バイトをしていた。だが、就職ガイダンスで周りの話しを聞くと、「インターンシップ」という聞いたことない単語を知った。なんでも企業が行っている学生向けのカリキュラムがあるらしい。学生だけれど、社会人とまじって作業をして業務や業界を知るらしい。
また、バイト先でイベントを企画したとか、学校行事の取りまとめだとか。周りにいるやつらは得意げに話しているのだ。
俺は焦った。何かしなきゃいけない。だから俺はその何かを短時間で作りあげるために必死だった。
もちろん、そうなると加奈子と過ごす時間は少なくなる。
「ごめんな。ちょっと就職活動のために時間あんまり取れないんだ」
そういうセリフを吐いた。確かに言った。
内定が取れて、加奈子に連絡したら「よかったね」と言ってくれたが、その声は暗かった。
そう、もう加奈子の中に俺と言う人間は残っていなかった。
後で聞くとサークルにいる他のやつと付き合っていたのだ。別れ話はなかった。ただ、そういう事実だけが目の前にあって、その事実を受け入れるしかなかった。
そこまで参加にしばりのあるサークルでもない。気が付いたら俺だけがいなくなることでうまくまとまった。
その時に俺の中で何かが壊れた。壊れた後に待っていたのが内定式だった。
内定式で同期を初めて見た。
「一緒に頑張りましょう!」
そのセリフを聞きながら、こいつらは全員ライバルで出し抜いてやると思った。
色んな言い訳を自分にした。いや、それは言い訳じゃない。言い聞かせたのだ。自分に。
それは悔しかったのか、さみしかったのかわからなかったけれど、心地よかった。
それに何をしたって事実はもう変わらないし、去って行った加奈子は戻ってこない。だから、俺はがむしゃらに勉強をしたし、仕事もしていた。
転機が訪れたのは社会人になって2年目だ。
俺は総合職で、営業だった。本社は丸の内にあるが、俺が配属されたのは池袋営業所だ。
池袋営業所にはすごい先輩が居た。
営業成績表彰が毎年あるのだが、毎年名前があがる人がいるのだ。
「桜宮隆弘」
歳は6つ離れているが、桜宮さんは、朝は誰よりも早く会社にいるし、夜も一番遅い。
会社に住んでいるのではと噂が立つくらいだが、いつも身だしなみはしっかりしているし、スーツもネクタイも高そうなものを身に着けている。
しかも噂ではものすごい美人の奥さんがいると聞いている。確かに机にある家族の写真はものすごく幸せそうだ。桜宮さんに聞いたらこう帰って来た。
「平日はわがままを言って仕事に専念させてもらっているけれど、休日は家族サービスだからね。それが否決さ」
そのさわやかな笑顔がまぶしかった。負けたくないと思いながら仕事をしていたけれど、勝てない相手がいるということを初めて知ったのだ。
けれど、同期にだけは勝ちたい。そういう思いで頑張っていたのだ。
そんな時社会人2年目を迎える時に新しく新人が池袋営業所に配属になったのだ。
彼女を見た時にびっくりした。誰かを思い出したからだ。自分の初恋の相手。
「さおりさん」
子供の時、出会った人。ものすごくきれいな人だ。まっすぐの黒髪におっとりとした表情。いつも小型犬を連れて散歩をしていたのだ。公園で遊んでいた俺はその姿に一目ぼれをして話しかけたのだ。
あれは小学生の時だったのだろうか。さおりさんは小学生の俺にもちゃんと話しをしてくれた。それから俺は公園で遊んでいてもさおりさんを見かけたら走って挨拶をしたのだ。
散歩でつれてきている小型犬、ミニチュアダックスフンドを撫でまわしていた。
実はそこまで犬は好きじゃなかったのだ。一度吠えられてから好きになれなかった。でも、このミニチュアダックスフンドがいないとさおりさんに話しかける理由がない。
「犬が好きなのね?」
「はい!好きです。大好きです」
俺はそうやって顔を真っ赤にして告白をしていた。でもさおりさんはいつも俺を見て笑っていた。
公園から帰る時に何度も一緒に歩いて行った。その場所は結構細い路地を通る。その先にさおりさんの家があるんだ。
「ねえ、君の名前はなんていうの?」
「俺、実っていうんだ?お姉さんは?この犬は?」
正直犬のことなんてどうでもよかったのだけれど、犬について聞かないと一緒に居られないと思っていた。
「私はさおりっていうの。この子はチョコよ。ほら、色が茶色いでしょ。だからチョコ。そう名付けたの」
そう笑うさおりさんの顔はものすごくかわいかった。周りからからかわれたけれど俺は気にしなかった。
だって、同い年のやつにはわからなくていいんだ。これは俺だけ『想い』だから。
でも、ある日を境にさおりさんと出会えなくなった。俺は何日も公園でさおりさんを待っていた。
引っ越したのか、あのチョコが死んでしまったのかそれすらわからなかった。苗字を聞いて入れば家を調べることもできたのに俺はいつもさおりさんがあの路地を曲がるところで別れていたのだ。
いや、追いかけて行こうとしたら、いつも止められたのだ。だからずっと忘れていない。俺の初恋。
そして、目の前にそのさおりさんに似た女の子が立っていた。
「はじめまして、木内真帆といいます。よろしくお願いいたします」
そのまっすぐで黒い髪に白い肌がきれいだ。少し小さい目。細い体。ものすごくさおりさんを思い出した。
俺は恋に落ちた。一目ぼれだった。けれど、部署が違いあまり話しかける機会がない。だからこそ俺は思ったんだ。
1年に1回の営業表彰。掲示板に張り出され、朝礼で表彰されるあの場所に俺の名前を入れる。それで知ってもらおう。俺という人間を。
そこから今まで以上にがむしゃらに仕事をした。同じ営業所からなかなか2名の選出はない。それに上位にいつも入っている桜宮さんもいる。
「頑張っているね、佐久本くん」
桜宮さんからそう声をかけてもらえた。
「はい、目標がありますから」
俺はそう言いながらそっと木内さんを見る。木内さんはなかなか仕事を覚えていないのか誰かがいつもフォローをしている感じだ。
けれど、その愛嬌のある笑顔が、その雰囲気が周りを癒してくれる。そう思っていた。
1年後。3月。
俺は8位に入賞した。ちなみに、その時の1位は桜宮さんだった。俺は朝礼で賞状をもらう時に木内さんを見た。だが、その時に気が付いたのだ。木内さんは俺を見ていないということに。
見ていたのは同期の河原だ。河原は営業成績がそこまでよくない。どうしてだ。どうして木内さんは俺を見てくれない。そう思っていたら営業所長からもう一つ発表があるという。
「実は営業の河原くんと木内さんが結婚することになったのだ」
それ以降の言葉は俺の耳に入らなかった。
どうやら、河原はアポイントがないときは営業所に居て、何度か木内さんとランチをしていたらしい。
仕事がうまくいかない二人だからこそ話しが合ったと言っていた。
俺は知らないうちに敗北していた。そんな時に営業所長から言われたのだ。
「本部から営業の弱い場所のテコ入れで人を異動させたいと言われているのだ。どうかね佐久本くん」
俺は目の前の二人を見たくないからなのか「はい」と答えたのだ。異動する場所を聞いていたのか覚えていない。
ただ、辞令が出た。熊本営業所の課長という入社3年目での初快挙。
でも、そこに喜びはなかった。
送別会を営業所のみんなで開いてくれた。
木内さんはなんと妊娠しているということもあり、出席をしないとのことだった。変わりにという事でハンカチをくれた。柄にミニチュアダックスフンドが書かれていた。
「あ、ミニチュアダックスフンドだ」
「かわいすぎましたか?私好きなんです。昔家で飼っていたらしいので」
そう言われて、さおりさんを思い出した。
「俺も子供の時公園でミニチュアダックスフンドを飼っている人と良く話していたので懐かしいな。ありがとう。大事にするよ」
一瞬泣きそうだった。
だが、泣いたとしてもここにハンカチはある。気が付いたら、一次会でもかなり飲んで、二次会のカラオケにも行ってしまった。気が付くと最終電車を逃してしまった。
カラオケの後、皆が散り散りになり、気が付いたら天下一品でこってりラーメンを食べていた。
うまく行かないものだな。
そう、思いながら少し歩いた。3月と言っても夜は少し肌寒い。どうして俺はうまく恋ができないのだろう。そういう思いを持ちながら通りを目指した。
目の前に赤い「空車」という表示のタクシーが見えた。手を挙げる。
運転手から何かを言われた。機械の音声が鳴る。
「ご乗車ありがとうございます。安全のためシートベルトを着用ください」
そうか、シートベルトがいるのか。仕事でタクシーを使うことは多い。けれど、シートベルトをしたことはなかった。
けれど、今はかなり酔っぱらっている。それに池袋からタクシーで帰ることもなかった。
まあ、いいか。そういう思いでシートベルトを締めた。
「どちらまで行きましょうか?」
すごくおっとり話す運転手だと思った。思わず寝てしまいそうになる。
そう言われて思った。家の近くに目印がわからない。
困ったと思いながらゆっくりとシートに体を埋めていった。