第82話:夜
廊下の軋む音が、煩い。高い女の声と聴き慣れた嫌な声が耳の中にまで入り込んでくる。
私は両膝を抱きしめるようにしてベッドの上に座り、ただただ思考が動き出さないように中空を見つめた。
『ね~。ほんとに買ってくれるの?』
『買ってやるって言ってんだろ? 俺を信じろよ』
「…………」
軽薄な男の、世界で一番嫌いな男の声が聞こえる。
私の中にあの男と同じ血が流れているというだけで、頭がクラクラする。
吐き気をこらえていると、他の男たちの声も響いてきた。
『おーっす。遊びにきたぜ』
『お、かわいいねー』
『おめーら手ぇ出すなよ』
『それはわかんねーなー』
『あははっ、やだぁ~』
「…………」
楽しそうな女の声。この声がそう遠くない将来、聞きたくもない不協和音に変わっていく。
その未来がわかっているから、私は奥歯を噛みしめて両耳を手で塞いだ。
「おい、酒切れたぞ。買っとけって言っただろうが」
「……ごめん、なさい」
勝手に開けられる部屋のドア。鍵なんてものが許されるはずもなく、私はいつも唐突に呼び出され、働かされる。
廊下に歩み出すと、奥の部屋から男たちの声が聞こえてきた。
『お、かわいいねー! こっちきてお酌してよ!』
『俺も俺も!』
『キモイっつーの! ぎゃははははは!』
「…………」
体中の皮膚が剝がされていくような悪寒。明日には、いや、数十分後にはあの亡者のような男たちの手が私に触れるかもしれない。
そうではないと信じたい。でも、いつそうなるかもわからない。
吐き気がお腹の底から沸き起こり、私は思わず片手で口を抑えた。
「さっさと買って来いよグズ。しばらく家にいっから、全力で働けよ」
「……はい」
父親という肩書を持った、世界で一番嫌いな男。その男の言葉に従って、私は今日も働き続ける。
滅多に家に帰ってこなかったあの男が家に帰るようになってから、まだ数日しか経っていない。しかし私には、永遠とも思える地獄のような時間がずっと続いている。
玄関から一歩外に出ると少しだけ冷たい空気が体の中に入り込み、やっと私はつかの間の安息を得た。
『おい、もう寝たか?』
『時間かかったな~。酒弱ぇよ』
『悪い悪い。馬鹿娘が弱い酒買ってきやがってよ』
『まあいいや、お楽しみタイムといこうぜ』
『おれいっちばーん』
『はあ? 死ねよ。俺に決まってんだろが』
「……っ」
おつかいを終えて帰ってきた私を待つ、最も嫌悪するこの時間。
楽しそうに笑っていたあの女の声も、しばらくすれば悲鳴に変わり、聞きたくもない踊る声に変わっていくのだろう。
私は時雨君に取ってもらったぬいぐるみを強く強く抱きしめると、頬から流れる小さな滴をその大きな頭にしみ込ませた。
「―――しぐれ、くん」
彼に会いたい。声が聴きたい。傍にいてほしい。
この地獄はもう嫌だ。こんな場所はもう嫌だ。声を出して叫びたい。なにもかも投げ出して逃げてしまいたい。
しかし、それはできない。そんなことをしたら本当に、どうなってしまうかわからない。もしかしたら一番大好きなあの人たちに、迷惑をかけてしまうかもしれない。
でも、それでも―――この気持ちは止められない。この想いを口にすることだけは、止められない。
「あいたいよ、しぐれくん」
私はぬいぐるみを強く抱きしめて、あふれ出る涙を必死に止める。
潤んだ視界の中で聞こえてくる、女の声。男の怒号。
それら全てを切り捨てたくて、私はもう一度両手で耳を覆った。




