第65話:茜色の光の中で
茜色に染まった海の向こうに、太陽がゆっくりと沈んでいく。
浜辺から少し上がった場所にある高台のベンチで、僕は隣で穏やかに眠っているモブ子さんを時折横目で確認していた。
『モブ子さん、驚かせちゃって悪いことしたなぁ。事前に説明くらいはしておくべきだった』
自身の準備の悪さ、思慮の足りなさを後悔しつつ、僕は横目でモブ子さんを見守る。
桜崎さんやみんなは今モブ子さんのために車を準備しようと、近くのレンタカー屋さんまで走ってくれている。
バスの本数は少ないし、旅館に帰るにしても足は必要だろう。
とはいえモブ子さんひとり置いていくわけにもいかないので、僕がボディガードに選ばれたというわけだ。
『……ん、ちょっと風強い、な!?』
ふと気づくとモブ子さんの前髪が微かに動き、その瞳の端が少しだけ見えかかっている。
僕はごくりと喉の奥を鳴らすと、自身の両目を見開いた。
『そういえば、モブ子さんの目って一度も見たことないな……』
いつも黒い前髪に阻まれてしまって、モブ子さんの目をまじまじと見たことはない。
しかし今は風のいたずらで、モブ子さんの瞳が見えかかっている。
あとほんの少し、指先で前髪をズラしたら……
『い、いや。こんなときに何考えてんだ僕は。今はモブ子さんを守ることに集中しなくちゃ』
とはいえ僕の中には今、抑えようのない感情が渦巻いている。
もしかしたらこれは、千載一遇のチャンスかもしれない。
普段なら女の子に触れるなんてとてもできないけど、前髪をちょっとズラすくらいなら、もしかしたら―――
僕は息を止めて、ゆっくりと指先をモブ子さんの前髪へと伸ばしていく。
そしてそんな指先がモブ子さんの髪に触れようかという刹那、むくりとモブ子さんは起き上がった。
「うっおお!? びっくりした!」
「ひぅっ!?」
「あ、えと、ごめん。僕のほうこそ驚かせちゃったね……」
動揺した様子のモブ子さんを見た僕は、小さく頭を下げながら謝罪の言葉を口にする。
うう……つい手を伸ばしてしまった。馬鹿か僕は。そんなの驚くに決まってるじゃないか。
「あ、えっと、だいじょぶだよ。ちょっと驚いただけだから……」
モブ子さんは自身の胸元に握った片手を当てながら、小さく微笑んでみせる。
いつもと変わらないモブ子さんの笑顔を見た僕は同じように小さく胸を撫で下ろして返事を返した。
「でも、気が付いてくれてよかった。みんなも心配してたよ」
「うう、ごめんね気絶なんてしちゃって。ついびっくりして……」
「はははっ、いやいや。あれを見てびっくりしない方がどうかしてるよ」
そう。むしろ事前に知らせていなかった僕の方にこそ非はある。
モブ子さんが謝ることなんて何一つないんだ。
「でも、知らなかった。しぐれくんの家って格闘技の道場やってたんだね」
「ん、まあね。きな子姉さんはたまにテレビとかにも出てるんだけど、観たことなかった?」
「あっ、ごめんなさい。私あんまりテレビは見てなくて……そっか、それで知らなかったのかな」
「うーんまあ、僕にとっては一人の姉さんだからなぁ。有名人って言われても正直ピンとこないけど」
「ふふっ、そっか。そういうものかもしれないね」
モブ子さんはその黒くて綺麗な髪を海風に流しながら、いつものように柔らかに微笑む。
そんないつも通りの笑顔にほっとした僕は、にこやかに笑いながら言葉を続けた。
「それより、大丈夫? 気分が悪いとかないかな」
「あ、うん。もうだいじょぶだよ。いっぱい寝たら元気になっちゃったかも」
モブ子さんは寝起きで少しテンションが高いのか、ぐっと両手を握りこんでガッツポーズをしてみせる。
普段見られないモブ子さんの姿を見た僕がぽかんと口を開けていると、やがてモブ子さんは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「うぅ。なんか、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ!? えっと、その、モブ子さんがガッツポーズって、ちょっと意外だっただけだし」
「うぅ……」
僕がわたわたと両手を動かしてフォローすると、さらにモブ子さんは恥ずかしそうに顔を俯かせる。
視線を動かして何か別の話題はないかと探していると、沈んでいく太陽が目に入った。
「あ、そうだ! ほらここ、水平線が見えて凄く綺麗だよ」
僕が慌てた手つきで指さすと、その先ではちょうど太陽が沈みかけていた。
茜色に染まる水平線と砂浜は想像以上の美しさで、指さした僕自身も少しの間言葉を失った。
「わぁ……本当だ。凄く、きれい」
モブ子さんは目の前の景色の美しさに目を奪われると、立ち上がって数歩前へと歩き出す。
高台の手すりを両手で握ったモブ子さんの背中を見つめる僕と、静かに水平線を見つめているモブ子さん。
波の音だけが響くその空間で、モブ子さんのかすんでしまいそうな声が響いた。
「ほんとはね……ちょっとだけ、悲しかった」
「悲しい?」
僕はモブ子さんの言葉の意味がわからず、小さく首を傾げながら質問する。
モブ子さんは僕に背を向けたまま、さらに言葉を続けた。
「うん。私は私が思っている以上にしぐれくんのこと何も知らないんだなぁって、わかったから」
その時のモブ子さんの背中は本当に寂しそうで、今にも風に消されてしまいそうに儚く思えた。
だから僕は必死で頭を回転させて、懸命に言葉を発した。
「えっと、その、僕が話してなかったのも悪かったんだし……気にすることないよ。それに―――」
「それに?」
モブ子さんは頭に疑問符を浮かべながら、僕の言葉の続きを促す。
そんなモブ子さんの言葉を受けた僕は、微笑みながら言葉を続けた。
「それに、知らないってことはこれから“知っていく喜び”があるってことでしょ? それは凄く、素敵なことだと思うから」
「―――っ」
モブ子さんは無言のまま僕に背中を向け、手すりを少しだけ強く握る。
そんなモブ子さんの背中を見守っていると、やがてモブ子さんはゆっくりと声を発した。
「覚えてる、かな。私がしぐれくんと初めてお話しした時も、同じようなことを言ってくれたよね」
「えっ……」
僕は予想していなかったモブ子さんの言葉に驚き、声を失う。
モブ子さんと初めて会ったとき、それは確か―――日直が一緒になった日だったような気がする。
「目立った特技も何もなくて、人付き合いも上手くなくて……そんな私が男の子と日直だってオドオドしてたら、しぐれくんは言ってくれたの」
モブ子さんは僕に背中を向けたまま、さらに言葉を続ける。
僕は一言も発することなく、黙ってモブ子さんの声に集中した。
「“モブ子さんは目立たない子なんかじゃない。僕はずっと知っていたし、これから僕のことも少しずつ知っていってくれれば嬉しいな”って、そう言ってくれたの」
嬉しかったなぁって言葉を続けながら、モブ子さんは茜色に染まった空を見上げる。
僕はそんなモブ子さんの言葉を受けると、小さな声で言葉を続けた。
「その時の気持ちは、今も変わってないよ。僕もモブ子さんのこと、もっと知りたいって思ってるから」
僕はまっすぐにモブ子さんの背中を見つめ、嘘偽りない気持ちを伝える。
モブ子さんはそんな僕の言葉を受けるとぴくっと肩をいからせ、少し震える声で言葉を紡いだ。
「そっか……そっか」
モブ子さんはしばらく水平線を見つめていたかと思うと、沈んでいく太陽を見つめながらゆっくりと僕のほうに体を向ける。
その時強い風が僕たちを包み、僕は思わず目を細めた。
「わぷっ!? モブ子さん、だいじょう―――」
「だいじょぶだよ、しぐれくん。本当にありがとう」
「っ!?」
海風に流されて、モブ子さんの前髪が横に揺れる。
その隙間から確かに見えた、モブ子さんの瞳。
茶色がかったその綺麗な瞳には微かに涙が浮かんでいて、茜色の光を受けて輝く。
茜色の光の中、目を細めて穏やかに微笑むモブ子さんの笑顔を見た僕は―――
その瞬間だけ、呼吸をすることすら忘れていた。




