第6話:忍者と姉とリアス式海岸
「きゃわいいいいい! なんだいこの子は!? 萌えの最終兵器かい!?」
「ほわっ!? な、なんでござる!? 敵襲でござるか!?」
きな子姉ちゃんは一瞬にしてあずきとの距離を詰め、その身体を思い切り抱きしめる。
なんだかわからないが、ともかくツボにはまったらしい。
確かにちっこくて可愛いけど、土下座の事実はどうでもいいんだろうか。
まあともかく、今後はあんなことしないようあずきには言っておかないとな。
「やっばい、ちょお可愛い。抱きしめてもよいですかい!?」
「いやいや、もうとっくに抱きしめてるよ姉ちゃん」
恍惚の表情であずきを抱きしめ、柔らかそうなほっぺに頬ずりしているきな子姉ちゃん。
どうしよう。これは簡単に離してくれそうにないぞ。
「ふぁ、あったかい。あったかくて眠くなるでござるよ信どのぉー」
「こっちはこっちで駄目っぽいな! 起きてあずき!」
あずきは先ほどまでの興奮状態と打って変わって、きな子姉ちゃんの腕の中でとろんと中空を見つめている。
確かにきな子姉ちゃんの高い体温は、不思議と人を落ち着かせる効果がある。
人格がファンタスティックに破綻してる姉ちゃんだが、あの暖かな雰囲気と体温は一種の特技と言って良いだろう。
「とにかく姉ちゃん、離してあげてよ。あずきはまだ目を覚ましたばっかりなんだから」
「ええー? ちぇー。後で死ぬほどハグするかんね!」
「なんか凄い予告ぶっこんできたなこの人」
僕は頭に大粒の汗を流しながら、素っ頓狂なことを言い出しているきな子姉ちゃんへと言葉を返す。
やがて姉ちゃんは納得してくれたのか、あずきの身体を開放した。
そうして布団の上に戻されたあずきへ、僕は再び言葉を続ける。
「それでさあずき、ドリンクのおかわりはどうする?」
あずきの手の中にコップは握られているが、その中には氷しか残っていない。
おかわりを入れるなら早くしないと、いずれ氷も溶けてしまうだろう。あずきが望むなら、おかわりを入れてあげたい。
「おを!? そ、そうだったでござる!」
あずきはまるでうたた寝から覚めたように顔を上げると、僕に向かって言葉を返しつつコップを上に突き出した。
「よし。じゃあ僕が入れるよ」
あずきの横にあったボトルを手に取り、あずきの持っているコップにドリンクを注いでいく。
キンキンに冷えたドリンクはコップの底を叩き、ボトルの口はコポコポと小気味よい音を立てた。
「おっとっと……ふへ、かたじけないでござる、信どの」
あずきはへにゃっと幸せそうに笑いながら僕を見上げ、感謝の言葉を伝える。
僕はつられるように微笑みながら、小さく頷いた。
「んっぐ、んっぐ。んー♪」
あずきは冷たいドリンクを小さな口一杯に含むと、嬉しそうに足をぱたぱたと動かした。
「ていうか。かっ、かっ、可愛い。撫でてもよいですかい!?」
きな子姉ちゃんは両目を輝かせながら、両手をわきわきとして僕へと質問する。
その姿を見た僕は大粒の汗を流しながらも、横目であずきの様子を見ながら返事を返した。
「あ、ああ、軽く撫でるくらいなら別にいいんじゃない? 飲むのを邪魔しなければ」
きな子姉ちゃんはキラキラとした瞳で僕を見つめ、あずきを撫でる許可を得る。
別に僕に断ることじゃないと思うけど、まああずきも撫でられたくらいで怒りはしないだろう。
もっとも今はドリンクに夢中で、それどころじゃないだろうけど。
「ううっ。ありがてぇ、ありがてぇ……」
きな子姉ちゃんは目尻に涙を浮かべてあずきを後ろから抱きしめると、その頭をゆっくりと撫でる。
あずきはよほどドリンクが美味しいのか、その事にも気付かず、喉を鳴らし続けた。
そうしてしばらくしてもあずきを離そうとしないきな子姉ちゃんを見た僕は、さすがに離すよう言葉を発した。
「てかきな子姉ちゃん、そろそろ解放してあげたら? さすがに暑いでしょ」
きな子姉ちゃんはずっとあずきを抱き、愛で続けている。
せっかく涼しい部屋に来れたのに、これじゃあずきが全然休まらないじゃないか。
「えー、いいじゃん。だってこの子ちょーかわゆいもの!!」
姉ちゃんは口の形を3にしながら、ぶーぶーと文句を垂れる。
その様子にちょっと意思が揺らぎそうになるけど、ダメだ。ここは心を鬼にしないと。
「あずきもさっきまで倒れてたんだから、安静にさせてあげないとダメだよ。てかこんなとこ刹那姉ちゃんに見られたら、軽く見積もっても死刑じゃない?」
「そこまでの重罪!? せっちゃん恐ろし!」
きな子姉ちゃんは一瞬にしてあずきから離れ、布団の横で正座状態で座る。
さすが刹那姉ちゃん。この場にいなくてもきな子姉ちゃんを操れるとは。
「おふ、もうちょっとで寝るところでござった」
あずきはきな子姉ちゃんから開放されるとびくっと肩をいからせ、両手を使ってぐしぐしと目を擦る。
それにしても、見れば見るほどわからないな。一体あずきは何歳なんだろう。
少なくとも同じ歳ってことはないよね。
「まあ、寝ちゃってもいいんじゃない? まだ病み上がりだし」
ついさっきまでアスファルトの上で倒れてたんだから、しばらくは安静にしていたほうがいい。
人を介抱した経験なんてないけど、それくらいは僕にもわかる。
「いやいや、もう大丈夫。この通り、元気もりもりでござるよ!!」
あずきは両拳を上に上げ、ついでにマフラーもまるで両手のようにガッツポーズを取りながら、元気っぷりをアピールする。
確かに元気そうだけど……うーん、ダメだ。僕ではいまいち判断できない。
「さっきから騒がしいわね……あんたたち何やってんの?」
「あ、刹那姉ちゃん」
刹那姉ちゃんは黒く輝く髪を靡かせながら、相変わらず颯爽とリビングへと入ってくる。
足は長いし、歩き方もなんかカッコイイ。
最近は女の子からもラブレターを貰ってるって噂だけど、あながち嘘じゃなさそうだ。
「おおっ!? か、カッコイイ! どこぞの姫君でござるか!?」
あずきは突然布団の上から飛び出すと刹那姉ちゃんの前で膝まずき、まるで主君に仕える忍のようだ。
いや、案外本物の忍なのかもしれないな。そうでないことを祈るばかりだけど。
「ひゃう!? あ、ああ。あんた、起きたんだ。えーっと……具合は?」
刹那姉ちゃんは一瞬後ろに倒れそうになりながらも、かろうじて平静を装い、胸の下で腕を組む。
しかし僕ときな子姉ちゃんは、刹那姉ちゃんの一瞬の動揺を見逃さずに二人で声を潜めた。
『今せっちゃん、“ひゃう!?”だって。可愛いー♪』
『だよね、言ってたよね。刹那姉ちゃんも動揺することがあるんだなぁ』
僕ときな子姉ちゃんは頭を付き合わせ、秘密の会話を続ける。
よく見ると刹那姉ちゃんの耳はまだ少し赤く、僕たちの考察は間違っていないようだ。
「あんたたち、うるさい。蹴り上げて内臓ぶちまけるわよ」
「「こわっ!?」」
鋭い眼光の刹那姉ちゃんに気押され、僕ときな子姉ちゃんは互いに抱き合いながらガタガタと震える。
いかん、調子に乗りすぎた。この家で2番目に怒らせてはいけない人を怒らせるところだった。
「はぁ。それで、あんたもう具合はいいの? 確かに見たところ元気そうだけど」
刹那姉ちゃんは僕らを見て頭を抱えながらも横目であずきを見つめ、言葉を紡ぐ。
あずきは再びガッツポーズをとってみせると、元気の良い声を響かせた。
「もちろん大丈夫でござるよ姫! もう元気バリバリでござる!」
あずきは歯を見せて笑いながら、刹那姉ちゃんへと返事を返す。
刹那姉ちゃんは一瞬困ったように笑うと、小さく胸を撫で下ろした。
「姫ってのは意味不明だけど……どうやらほんとに平気そうね。何か飲み物は飲んだの?」
「おお! “すぽおつどりんく”を飲んだでござるよ! 甘くて飲みやすくて、めっちゃうまかったでござる!」
あずきはガッツポーズのまま、瞳を輝かせて言葉を返す。
刹那姉ちゃんは小さく微笑み、あずきの頭を軽く撫でた。
「……そう、ならいいわ。お腹は空いてない?」
「「…………」」
僕ときな子姉ちゃんはぽかんと口を開け、穏やかに微笑んでいる刹那姉ちゃんの顔をまるで幻でも見るかのように見つめる。
普段からクールで滅多に笑わない刹那姉ちゃんが、ぎこちないながらも微笑んでいる……だと。
時雨家十大事件の一つに入るぞこれは。
「何よ、あんたたち。何か文句あんの?」
刹那姉ちゃんは子犬がちびりそうな眼光でこちらを睨みつけ、背後に重いオーラを漂わせる。
僕ときな子姉ちゃんは息を合わせる必要もなく、同時に言葉を返した。
「「いえ! 滅相もありません! せっちゃん大佐は実にキュートであります!」」
こうして僕ときな子姉ちゃんで同時に発せられた言葉。
その言葉を聞いた刹那姉ちゃんは口元を強く結んで頬を赤く染めると、げんこつを僕達の頭に落とした。
「まったく。変な時間取らせないで。ただでさえこれから夕飯の支度があるのに……」
胸の下で腕を組んだ刹那姉ちゃんは不機嫌そうにため息を落とす。
僕ときな子姉ちゃんの頭頂部には、漫画のようなたんこぶが膨らんでいた。
『ほら信ちゃん! やっぱキュートよりプリティーの方がよかったんだよ! せっちゃんアダルトだし!』
『ア、アダルト…………ごくり』
「ううっ、頭痛くなってきた……」
刹那姉ちゃんはめげない様子の僕ときな子姉ちゃんを見て一瞬ふらつくと、眩暈を抑えるようにこめかみに触れる。
ごめんよ刹那姉ちゃん。しかしこれも、家族の団欒ってやつなんだよ。きっと、多分、もしかしたら。
「あだると? 信どの、“あだると”ってなんでござるか?」
あずきは純粋な瞳で僕を見つめ、首をかしげながら質問を投げかける。
うぐっ……痛い。この純粋な視線が痛い。
ここは男として、紳士かつエレガントに答えねば。
「ふむ、アダルトってのはね、川原に落ちてる濡れた本が―――」
「やめなさい信。殴るわよ」
「いっでぇ……もう殴ってるよ姉ちゃん」
気付けば僕の頭には、本日2発目の特大拳骨。
そのうち頭の形が変わるんじゃなかろうか。そもそも僕ときな子姉ちゃん以外が受けたら意識不明になる気がする。
「で、えっと……ああ、そういえばまだ名前を聞いてなかった。私は刹那。こっちの寝癖がついてるのがきな子ね。あんたの名前は?」
刹那姉ちゃんはゆっくりとした口調で、あずきの名を訊ねる。
あずきは両手をぎゅっと握り、元気よく返事を返した。
「刹那どのに、きな子どのでござるな! 拙者の名はあずき! 望月あずきでござる!」
あずきは満面の笑みを浮かべながら、大きな声で自己紹介。
もしもここが幼稚園なら先生に褒められていたことだろう。僕が先生なら撫で回しちゃうけどね。
「餅月あずき……ずいぶん美味しそうな名前ね」
「姉ちゃん! それ多分字が違う!」
いや、名前だけでも十分美味そうではあるんだけども。
餅月じゃなくて望月ね。餅だとマジでおしるこみたいになっちゃうから。
「う……ともかく! あずき、今日はうちで夕飯食べなさい。少なくとも夜まで外には出ない方がいいわ」
刹那姉ちゃんは恥ずかしそうに頬を赤く染めながら、あずきへと提案する。
夜まで出ない方がいい、か。確かにそれはそうかもしれない。
外はまだ暑いし、また倒れでもしたら大変だ。
ついでに、謎の多いあずきについてもう少し何かわかるかもしれない。
「おおっ!? ま、まことでござるか刹那どの! 助けてもらった上に夕飯まで……不詳望月あずき、忍びとして時雨家に仕えさせて頂くでござる!」
あずきは刹那姉ちゃんに跪き、ハキハキとした口調で永久就職を決める。
人の一生ってこんな簡単に決まるものだったのか。
「いや、別に忍者は必要ないから。いらない」
「がーん!」
おお、一瞬で不採用だ。そりゃそうだけど。
現代社会の忍者って、企業スパイとかそれくらいじゃないのか? 実際いるか知らないけど。
「あ、それであずきは何が食べたいの? 刹那姉ちゃん料理うまいから、大抵のものは作ってくれるよ」
僕はあずきの使っていたボトルとコップを持つと、台所で片付けながら質問を投げかける。
久しぶりの客人だ。今晩のメニューくらいあずきに選ばせてあげるべきだろう。
もっとも買い物行けてないから、冷蔵庫の中身は期待できないけど。
「む、食べたいもの……でござるか。野草や花は食べ飽きたでござるから、その……できればお米を頂けると嬉しいでござる」
あずきは俯きながらもじもじと指先を合わせ、顔色を窺うようにして言葉を返す。
僕は持っていたボトルを取り落とし、口元に手を当てて涙をこらえた。
「ふ、不憫! この子不憫すぎる!」
野草て、花て! これまでどんだけろくなもん食ってこなかったんだ。
いや、だからこそ体が小さいんだろうか……よそう、本気で泣きそうだ。
「信、今日はハンバーグにするわよ。合いびき肉はある?」
刹那姉ちゃんはあずきの言葉を聞くと、腕を組みながら僕に向かって質問する。
その瞳には確固たる意志が宿り、絶対に美味しいものを食べさせるんだという決意が伝わってきた。
「えっと……ある! あるよ姉ちゃん! いや、無くても僕が買ってくるから!」
僕は溢れ出る涙をこらえ、大きな声で刹那姉ちゃんに返事を返す。
食べればいい。ハンバーグくらいいくらでも食べればいいよ。
足りなければいくらでも買ってくるさ。それくらい許されるはずだ。これまで野草や花を食べてきた女の子なんだから。
「おっ!? 今日ハンバーグ!? やったぜぇー!!」
きな子姉ちゃんはまるで少年のように飛び上がると、笑顔のままあずきをしっかりと抱きしめる。
どうやらよっぽど嬉しかったみたいだ。僕もハンバーグは好きだから、もちろん嬉しいわけだけど。
「は、はんばーぐ、でござるか。なんだかわからないけど、拙者も嬉しいでござる!」
きな子姉ちゃんとあずきは笑顔で抱き合いながらくるくると回り、お花畑空間を周囲に展開している。
そりゃあずきは、ハンバーグなんて知らないだろうさ。でも今日は腹いっぱい食わせてあげよう。刹那姉ちゃんがね。
「じゃあ料理始めるから、姉さんはあずきを連れてリビングにでも行ってて。あずきは無理せず、気分が悪くなったら布団に入るのよ?」
刹那姉ちゃんは少し強めの口調で、あずきへと言葉を紡ぐ。
なんだかんだ言っても病み上がりだ。やっぱり心配ではある。
「おーいえー。じゃあリビングでまったりテレビでも見よっかー」
「てれび? でござるか。なんだかわからないけど、お供つかまつるでござる!」
あずきはふんすっと鼻息荒くガッツポーズし、きな子姉ちゃんへと返事を返す。
あの子はどこにでもちゃんとついていく子だなぁ。忠義心の熱い忍者になりそうだ。仕える主君がいないのが問題だけども。
「さて、と。じゃあ僕は、部屋の掃除でもしようかな。たまの休みくらい掃除しないとね」
僕はぐぐっと体を伸ばし、そのまま素知らぬ顔で部屋を出ようと歩き出す。
大丈夫、大丈夫だ。このまま行けば誤魔化せる。このまま―――
「信、あんた買い物の途中だったでしょ。とっとと行ってきなさい」
「ノォォォォォォウ!!」
やっぱ覚えてましたかお姉さま! そりゃそうでしょうけども!
また、またあの炎天下の中に放り出されるというのか。
「あんたが買い物行ってくんなきゃ、今晩おかず少なくなっちゃうでしょ。ほら、“もずく”買ってきていいから、さっさと行ってきて」
「もういいよ“もずく”は! 好きだけどライクだよ! ラブじゃないよ!」
「いいから行ってきなさい。行かなきゃあんたの分のハンバーグはなし」
刹那姉ちゃんは小さく息を落としながら、言葉を僕にぶつける。
その言葉を聞いた僕は、地団太を踏みながら頭を抱えた。
「チクショー! 弟の弱みを簡単に握りやがる! 姉ちゃんのバカ! リアス式海岸!」
僕はその場で地団太を踏んで錯乱しながらわけもわからず言葉をぶつける。
しかしやがてその抵抗も無駄だということに気付き、がっくりと肩を落とした。
あの刹那姉ちゃんが行って来いと言ってるんだ。それはつまり、行くしかないってことだろう。
「ううっ。行ってきます、お姉さま」
「はい、行ってらっしゃい。あんたまで熱中症にならないように、ちゃんと帽子被って行きなさいよ」
「へぇーい……」
僕は玄関に置いてあったキャップを被り、意を決して外へと飛び出す。
ヤケクソのように蒸し暑い風と馬鹿みたいに熱い太陽の光が僕を照らす。
もうこのまま搔き消えてしまうんじゃないかというほどの熱波に襲われ、自然とため息が零れた。
『おっアニメやってる! 一緒にみよーぜー!』
『おおおお!? す、すごいでござる! 綺麗な絵がヌルヌル動いてるでござるよ!』
「ああ……家の中は平和だな。いいなぁ……」
一瞬こっそり部屋に戻ってしまおうかという誘惑が、僕の中へと湧き上がる。
しかしその瞬間頭に浮かんだ溢れ出るハンバーグの肉汁が僕の足を止め、スーパーの方角へと引き戻した。
「くそっ。とにかく僕は進むしかない。進むしかないんだ……!」
まるで友軍に見捨てられた兵士のような足取りで、スーパーに向かって歩いていく。
相変わらず日照りの強い午後の住宅街に、一人の男の影が落とされる。
最寄のスーパー“満腹マート”まで、たった一人の戦争は続いていくのだった。