第42話:桜川祭二日目
「ふぁ……まだ少し眠いなぁ」
朝焼けの教室前廊下を、僕は盛大にあくびしながら歩いていく。
結局あの後家に帰って美味しい夕飯が食べれたまではよかったけど……刹那姉ちゃんも次の日は朝が早いし、土下座で汚れた制服は結局自分で洗うはめになった。
まあ何故か怒られなかったからよかったけど、夜中まで制服を洗っていたせいで実に眠い。
「お、信どのは口が大きいでござるなぁ。拙者はそんなにおっきな口できないでござるよ」
あずきは太陽のように笑いながら僕の真似をして「あ~」とその口をいっぱいに開いて見せるが、確かに僕よりは明らかに小さい。
今更だけど同じ年っていうのが信じられなくなるな。
「おっ! 信おはよう! 昨日あれからどうだった!? もうチューまでしたんか!? ん!?」
「おはよう猛。朝っぱらから意味不明なんだけど、初めから説明してくれるかな」
「???」
いつも通り元気一杯に挨拶してくる猛に返答しながら、僕は再びがっくりと肩を落とす。
猛はキョトンとしながら「なんでわからないの?」って顔してるけど本当に意味がわからないよ。
「なーに言ってんだよ信。桜崎嬢とちょっとは会話できたんだろ? ちゃんと仲良くなったんだろうなぁ?」
猛は僕の肩に腕を回し、ニヤニヤとした笑顔で言葉を紡ぐ。
ああ、そうか。猛には伝えとかなきゃいけないよね。
「猛。実は昨日桜崎さんとあずきが和解(?)したんだ。だからもう心配ないよ」
「ダニィ!? それマジかYO! 信、お前どんだけ桜崎嬢を調教……もとい手なずけたんだ? けがらわしっ!」
「いきなりその言い草!? いや、僕は何もしてないよ! 二人が仲直りしてくれたんだ」
猛の言い草はあんまりだが、なんにせよ二人が仲良しになってくれたことは本当に嬉しい。昨日だって制服を手洗いしながらアンパン戦士のマーチを口ずさんでしまったほどだ。
「ええー? ほんとにぃ? 肉沸き肉踊る肉欲の宴を肉肉しく開催したんだろ? ん? ママ全部知ってるんだからね? ああ悔しい!」
「僕を攻めるかママキャラになるか悔しがるか肉を連呼するかどれかにしてくれ! ていうか僕は何もやってないってば!」
「きぃぃぃ! 一人で大人の階段上っちゃってさ! なにさ、この奇人! エロ! エロヌンティウス!」
「エロヌンティウス!?」
猛はハンカチを噛み千切りそうなくらい引き伸ばしながら、全身全霊で悔しさを表現する。
結局何を言いたいのかわからないが、とにかく悔しいという感情は痛いほど伝わってきた。
「おおぅ……信どのは沢山の二つ名を持っているでござるな。今日からはエロヌンティウスどのと呼ばねば」
「うん、呼ばないであずき。後生だから」
律儀にメモをとっているあずきを制止し、僕は努めて冷静に言葉を紡ぐ。
とりあえずそのあだ名だけはやめてほしいな。そもそもエロいことなんて一つもしてないのにその称号は理不尽すぎる。
「で、エロ男爵の信くんはどの程度までいったんだい? Cかい? それともDなのかい?」
「しぃ? で、でぃ?」
「いきなり極端だな君は!? あとあずきも便乗しなくていいから!」
あずきは猛の“C”とか“D”とかの発声に合わせ、頭に疑問符を浮かべながらも両手で“C”とか“D”のポーズをとっている。
その様子を見た僕は少なくともあずきにだけはその意味を伝えられそうにないと思った。
「とにかく、桜崎さんとは何もなかったよ。これは本当だ」
僕はため息を落とし、出来るだけ落ち着いた様子で言葉を続ける。
そんな僕の言葉を聞いた猛は、全身でガッカリ感を演出しながら返事を返してきた。
「ちっ、つまらん。じゃあ今日も桜崎嬢は平常運転か……死ぬなよ、信」
「お、お手柔らかにして頂けると助かる、かな。はは」
僕はこれまでの桜崎さんを思い出し、猛へと引きつった笑みを浮かべる。
いやでも、昨日は大分自分のことも話してくれたし、もうあんな毒の連撃は打ってこないはず……だと、思いたい。
しかし僕の脳裏には、桜崎さんの毒が綺麗に思い出されてきた。
『はぁ? あんたのホームセンター歴なんて聞いてないんだけど。ていうか話しかけないでくれる?』
『行くなら早く行ってよ。あんたと一緒にいるだけでも気持ち悪いんだから』
『おっそ。本当役に立たないわね。もう私がさっさと話つけてくるから、馬鹿はその辺で立ってて』
「うぶっ。は、吐きそうになってきた……」
だ、大丈夫。大丈夫さ、うん。さすがにもうあそこまでは言わないよ。
せめて“このゴミ虫が”とか”爆死しろ”とかその辺だよ多分。
「まっ、考えてたってしゃーねえか。とにかく教室行こうぜ!」
「ん、そうだね。猛の言うとおりだ」
考えたところで何も変わらない。今は前に進むしかないんだ。
「よぉし、桜川祭も二日目だ。今日も一日がんばってこー! おー!」
「おー! でござる!」
猛の元気いっぱいのかけ声に合わせ、あずきも片手を廊下の天井へと突き出す。
この二人は本当、ノリが同じというか……でもこういう時はありがたいな。僕もなんだか元気が出てきたよ。
「ふぅっ……いざ、出陣! おー!」
僕は気合を入れ、教室のドアを勢い良く開く。
この先にどんな毒があろうとも、僕は耐える。耐え切って見せるさ!
「―――あ、あれ?」
真っ先に見つめたその先。桜崎さんの席にはその主はおらず、クラスの女子が数人談笑しているだけだ。
僕はすっかり拍子抜けしてしまったが、しかしそのまま安堵のため息を吐いた。
「ふう。まあとりあえず、僕の命は繋がった―――」
「あ……」
「ひゃお!?」
背後から聞こえたか細いその声に驚き、僕は思わず奇声を発する。
い、いかん、クラスメイト及び猛に注目されている。ここは努めて冷静にならなければ。
「あ、ああ、ごめん。ドアの前に立ってたら邪魔だよ、ね……」
振り返った僕の眼に映る、その姿。
桜色の美しい髪は微かな風に揺れ、凛とした立ち姿には気品すら感じられる。
いやなんとなく解説してしまったが、要するに桜崎さんが立っているのだ。
「……っ」
「ひっ!? ど、どうした、の?」
桜崎さんは胸の下で腕を組み、凛とした佇まいのまま思い切り僕を睨みつけている。
これまでの記憶……もとい桜崎さんの毒が走馬灯のように蘇り、僕の中を駆け巡った。
『はぁっ!? また急に近……ってか、キモい! 死ねば!?』
『特にあんた、キモいから息すんのやめてくれる? 酸素が勿体ないんだけど』
『なんだ、起きちゃったんだ。……そのまま起きなきゃよかったのに』
「ぐっ、ぐあぁあ! お、おなかが、おなかが痛いよぅ……!」
僕はキリキリとした痛みを腹部に感じ、その場に崩れかける。
かろうじて踏ん張ってみたものの、正直言ってギリギリだ。
こちらを睨んでいる桜崎さんを見ているだけで、意識を手放したくなってくる。
「……っ」
「ひっ!?」
桜崎さんは奥歯を噛み締め、口を一文字にしたまま僕へと一歩踏み出してその距離を詰める。
僕はその場から逃げ出したい感情を必死に抑え、かろうじてその場に留まった。
「え、えっと桜崎、さん。どうしたの、かな……」
「っ!?」
「きゃいん!」
桜崎さんは僕の言葉を受けるとさらにその瞳を鋭くし、突き刺すような目線で睨みつけてくる。
僕はまるで巨犬に威嚇された子犬のように震え、思わず両目をつぶった。
「あ、の……」
「へっ?」
飛んでくる罵声に供えて腹部に力を入れていた僕の耳に、細く美しい声が届く。
瞑っていた目を開くとそこには、信じられない光景が広がっていた。
桜色の美しいその髪は微かに風に揺れ、恥かしそうに、どこか不安げに立つその姿に僕の中の猛々しい桜崎さんの姿はどこにもない。
この瞬間、僕は確かに聞いたんだ。イメージがまるでガラスのように割れて崩れるその音を。
「し、時雨、くん。お、おは、おは、おは、よ……っ」
桜崎さんは両手をぎゅっと握り締めるとまるで搾り出すように声を出し、か細く消え入りそうな声を僕へと送る。
僕はその声を受けてかろうじて思考を回すと、言葉を返した。
「っ!? は、ひゃい。お、おあよう、ござい、ます……」
「……っ」
目の前の桜崎さんは思い切り僕から視線を外し、奥歯を噛み締めて神妙な顔をしながらも頬を真っ赤に染めてその場に立っている。
少なくとも今僕の意識は一瞬、銀河系まで吹き飛んだ。その事実だけは間違いないだろう。
「あ、えと。う、うんっ。おはよ、時雨くん。今日もいい天気だね」
桜崎さんはどうにか僕の目を見ようとしているのか、しかし恥ずかしそうに俯いており、上目使いで僕を見つめながら言葉を紡ぐ。
意外すぎるその姿と言葉に僕はただぽかんと口を開けていたが、やがて思考を再起動させて返事を返した。
「うっ、うん。そうだね。いい天気だ。今日も一日頑張ろうね」
僕はかろうじて笑顔になり、桜崎さんへと返事を返す。
うん、そうだ。そうだよ。ちょっとイメージは変わったけど、桜崎さんは桜崎さんだ。
普通に接しなければ彼女に対して失礼じゃないか。そうだろう? 僕だって一応男だ。臨機応変に対応してみせるさ。
ごめんなさい嘘です。もういっぱいいっぱいです。
『っ! よしっ……よし、笑顔であいさつ、できた……!』
「???」
桜崎さんは俯いたままガッツポーズを繰り返し、小さな声で言葉を紡ぐ。
僕にはその意味がわからず、ただ頭に疑問符を浮かべていた。
なんだかわからないけど、桜崎さんは凄く嬉しそうだ。まあ桜崎さんが嬉しいならなんでもいいか。
僕はこっそりと深い呼吸を繰り返し、やがて平静を取り戻した。




