第25話:挨拶の威力
「ううっ。つ、つらい……」
僕は自らの腹部を手で摩りながら、真っ青な顔で朝の爽やかな廊下を歩いていく。
そんな僕の脳裏には、あの日の桜崎さんの言葉が何度も繰り返されていた。
『はぁ? あんたのホームセンター歴なんて聞いてないんだけど。ていうか話しかけないでくれる?』
『行くなら早く行ってよ。あんたと一緒にいるだけでも気持ち悪いんだから』
『……おっそ。本当役に立たないわね。もう私がさっさと話つけてくるから、馬鹿はその辺で立ってて』
「くっ。つらすぎて意識が……いかんいかん」
僕は一瞬意識を手放しそうになってしまった自分を戒めるため、軽く頬を叩く。
まさか精神的ダメージに耐えられず失神しかけるとは、おそるべし桜崎さんの毒。
しかし今は、そんなことを言ってる場合じゃない。
状況はまさに―――最悪だった。
『あ、早苗どのぉ! 次の授業、体育だったでござるかな!?』
『えっ……と、そうだと思うよ。じゃあ私、用事あるからまたね』
『あいっ。わかったでござる。時間を取ってごめんでござるよ!』
目の前の現状がうちのクラスの……いや、あずきのクラス内の立ち位置を全て物語っている。
あずきから女子へ質問を投げかけた場合大抵の女子は一応答えてくれるが、そそくさとどこかに行ってしまう。
あずきも気丈に振舞ってはいるが、さすがにもう気付いても良い頃だろう。
自分が女子の中で浮いているというその事実に。
「ぐぅっ。ほ、本気でお腹が痛くなってきた……」
目の前のあずきの問題もあるし、これから向かう教室にはあの桜崎さんもいる。
自分から望んでこの問題に向き合った手前、逃げるわけにはいかない。いかないが、僕自身それほどキャパシティの大きな人間じゃない。
となれば、身体に不調だって出てくる。情けない話だけど、腹の一つくらい痛くなるのも当然か。
「ええっ!? 信どの、ぽんぽん痛いでござるか!? えっと、えっと……白湯飲むでござるか!?」
あずきは心配そうに僕を見上げてわたわたと鞄の中をまさぐると、自分の水筒に入れてきた白湯を僕に手渡そうとする。
僕は出来るだけやんわりとその申し出を断ると、あずきへと笑顔を向けた。
「ありがと、あずき。僕なら大丈夫だよ」
確かに辛いけど、まあ大丈夫だろう。……多分。
あずきの問題は簡単には解決しそうにないけど、桜崎さんとは毎日のように会話しているわけだし少しは僕に慣れてきてくれているはずだ。
「もっとも会話というより、一方的な罵倒がほとんどだけどね。ははは、は……」
「???」
乾いた笑みを浮かべながら廊下を歩く僕を、あずきは不思議そうに見上げて首をかしげる。
いや、しかしまあ本当にちょっとはマシになってるんじゃないか?
いくら僕のことが嫌いだとしてもこれだけ関わりを持ってるわけだし。うん。今日はもしかしたら、罵倒されないかもしれないぞ。
「うん……よし、そうだよね。期待してもいいよな……!」
僕はいつのまにか顔を上げてどこか覚悟を決めたような、爽やかな表情で廊下を歩く。
そう、そうさ。この間の買い物だって、無駄じゃない。あれだけ話かけたんだ。桜崎さんもきっと、朝の挨拶くらいしてくれるはずだ。
「よし、よし……行くぞ! しゃおらっ!」
僕は教室のドアの前まで来ると、気合を入れるため自らの頬を両手で強く叩く。
やっぱり気合を入れるなら、これが一番だな。
「??? しゃ、しゃおら! でござる!」
「あずき。あずきは別にやらなくていいんだよ?」
あずきは僕と同じような掛け声を出しながら、その小さな頬を強く叩く。
元々赤かったほっぺがさらに赤くなり、少しだけぷっくりと膨らんだ。
「そ、そうなのでござるか。拙者、てっきり教室に入るときの新しい礼儀なのかと思ったでござる」
あずきは両目を見開いて驚き、ぽかんと口を開けて僕を見上げる。
なるほど、これは僕が悪いな。
「ごめんねあずき。教室は土俵じゃないんだし、礼儀とかは特に無いよ。強いて言えば、元気良く挨拶しましょうってことくらいかな」
僕は膝を曲げてあずきと目線を合わせ、出来るだけ柔らかく言葉を紡ぐ。
確かにいきなりあんなことされれば、誰でも驚くよな……ちょっと気合が空回りしてしまったらしい。
「うい、わかったでござる。拙者、元気に挨拶するでござるよ!」
「ん、僕も一緒にね! よーし、なんかさらに元気出てきた!」
あずきの太陽のような笑顔を見ていると、悩んだり恐れたりしていたことが馬鹿らしくなってきた。
そうさ、桜崎さんだってきっと挨拶くらい返してくれる。その期待を胸に今は、目の前のドアを開けばいいんだ。
「じゃ、行くよあずき。せーの!」
「「おはよーございます!(でござる!)」」
「……うわ、来たんだ。朝からあんたの顔見るとか、今日一日気分悪くなりそう」
「ぐっはああああ!」
「信どのぉぉぉぉぉ!?」
僕は膝からその場に崩れ落ち、汚物を見るような目を僕に向ける桜崎さんを光無い瞳で見つめる。
はは、なんてこった。もう立つことすらままならないよ。まさかドアの前にいるとは思わなかった。
「……きも。何そのオーバーリアクション。もしかして面白いとでも思ってるの?」
「ぐっふぅ!?」
やばい、胃液が全部逆流するかと思った。
てか、挨拶どころじゃないよ桜崎さん。ある意味どんな挨拶よりも目は覚めるけれども。このままじゃ僕が永遠の眠りにつきそうだ。
「…………」
桜崎さんは無言のまま地面に転がる僕を見下し、そのまま廊下へと歩みを進める。
ああなるほど、外に用事があったのか。そりゃドアの前に立っているはずだよね。
「ちょ、ちょっと、ちょっとまってほしいでござる、桜崎どの!」
「なっ。あ、あずき!?」
あずきは廊下に出ようとする桜崎さんの前に立ち、わたわたと両手を動かす。
その意外すぎる行動に僕は一瞬思考力を失った。




