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第20話:桜崎さんの謎

「やめっ……離してよ! 触らないで!」

「あっ、ご、ごめん……」


 階段の踊り場まで桜崎さんを連れてきた僕は、掴まれた腕を動かす桜崎さんの声に反応して掴んでいた腕を離す。

 桜崎さんは先ほどよりも鋭い眼光で僕を睨み付けて言葉を続けた。


「さいっあく……! 触られたとこ、消毒しなきゃいけないじゃない!」

「うごあああ……っ」


 よ、予想はしてたけど相変わらずきついな。

 まさか腕を掴んだだけで衛生上の心配をされるとは思わなかった。どんだけ不潔なんだ僕は。


「あ、いやいやそうじゃなくて! 桜崎さん、大事な話があるんだ!」


 僕は勢い余って数歩桜崎さんへと近づきながら、慌てて言葉を紡ぐ。

 今が正念場だ。どうにかして桜崎さんを説得しなければ。


「ひゃうっ!?」


 ……ん? ひゃう?

 なんだろ、桜崎さん。今なんか変な声出さなかった?


「き、急に近づかないでよ! ていうか、キモい! 話があるなら、えっと……そこから動かないで、さっさと言えば!?」

「あ、うん……」


 桜崎さんはいつのまにか顔を青くしながら、相変わらず僕に罵声をぶつけてくる。

 しかしその表情に先ほどまでの余裕は無く、どこか焦っているような雰囲気すら感じられた。

 いや、今それはいい。とにかく僕の言葉を伝えなくては。


「えっ……と、その―――」


 心臓の音がけたたましく鳴り響き、僕の胸を一定のリズムで叩き続ける。

 失敗するなよ、時雨信。今ここで彼女を説得できなきゃ、彼女自身の内申に響いてあずきもクラスに溶け込めない。

 だから今、本気になるべき時なんだ。


「なっ、何よ。そんな真剣な顔しちゃって。ば、ばか、みたい……」

「???」


 桜崎さんは周りの様子をしきりに気にしながら、さらに僕から数歩後ろへと後ずさる。

 人の気配一つしない階段の踊り場は静寂そのもので、まるで学園には僕と桜崎さんしかいないような錯覚すら覚えた。

 いや、今それはいい。桜崎さんと物理的な距離は離れてしまったけど、その位置でも僕の声は届くはずだ。

 桜崎さんが何を思っていようと、僕は僕の気持ちをぶつけなければ。


「桜崎さん。僕と、僕と……っ!」


 両手を強く握りしめ、でも視線は逸らさずに桜崎さんを真っ直ぐに見つめる。

 桜崎さんは視線を泳がせ、せわしない様子で僕から目線を外し続けていた。


「なっ、なに、よ。言っとくけど、こんなところで私に何かしたら、人を―――」

「お願いします、桜崎さん! 僕と一緒に、土曜日の買出しに行ってください!」


 僕は腹の底から声を出し、全身全霊をもって深々と頭を下げる。

 普段見ることのない廊下の床のタイルが、一瞬で僕の視界に写った。


「そうよ。買出しを…………えっ?」

「えっ?」


 意外な反応に思わず頭を上げ、桜崎さんを見つめる。

 桜崎さんはぽかんと口を開けながら、真っ直ぐに僕を見つめていた。


「あ、え、な、なんて?」

「ええっ!?」


 そんな、まさかの“聞こえてない”!? 僕今、結構大きな声出さなかったっけ!?

 あ、いや、そんなことはいい。聞こえてないならもう一度言わなければ。


「えっと、随分強引に実行委員にして、本当に申し訳ないんだけど……僕と一緒に、買出しに行ってくれないかなって」

「…………」


 桜崎さんは僕の言葉を受けると、再びぽかんと口を開けたまま呆然とその場に立ち尽くす。

 しかし青くなっていた顔色は次第に元の健康な肌色に戻り、僕は小さく息を落とした。

 とにかく、よかった。何がなんだかわからないけど、体調は悪くないみたいだ。


「あ、あんたそれを言うためだけに、こんなところに連れて来たの?」


 桜崎さんは相変わらず唖然とした表情のまま、僕に向かって言葉を紡ぐ。

 何故か質問を返されてしまった。とにかくまあ、答えないとな。


「うん、そうだよ? だって教室で深々と頭なんて下げられたら、桜崎さんも迷惑だと思って」


 そう迷惑だ。この上なく。

 だからわざわざ人気のないところを選んだんだけど……それがどうかしたんだろうか。


「……っ! あああああああああ!」

「おぼぁっ!? な、なんで!?」


 桜崎さんは大声を出しながら、低い位置にあった僕の顎を思い切り上履きの先端で蹴り上げる。

 僕は一瞬世界が反転したのを見届けると、そのまま仰向けにぶっ倒れた。


「さいっあく! 買い出しでも実行委員でも、勝手にすれば!?」

「あっ、ちょ、桜崎さん!?」


 桜崎さんはまるで怪獣のようにずんずんと教室に向かって歩き出し、もはや振り返ることもしない。

 僕はなんとか右手をその方角へと伸ばすが、空しく宙を掴むだけだった。


「勝手にすれば……って。一応やってくれる、ってことなのかな?」


 僕は少し切れてしまった口の中の血をハンカチで拭いながら、桜崎さんの後ろ姿を見送る。

 それにしても桜崎さんは、何故あんなにも怒っていたんだろう。

 いかん、さっぱりわからないぞ。


「おおーい信! お前何やったんだ!? 桜崎嬢、お前の鞄を教室から投げ捨ててんぞ!」

「ええええええっ!?」


 僕は慌てて立ち上がると一瞬にして教室まで移動し、窓に張り付いて外を見つめる。

 すると僕のお気に入りの鞄は校庭の辺りまでぶっ飛び、砂埃まみれになっていた。

 しかもご丁寧に水たまりにまでダイブしている。どんだけわんぱくなんだ僕の鞄は。


「ちょ、桜崎さん! これは何故に!? ホワイ!?」


 僕は瞬時に桜崎さんの方へと顔を向け、当然の疑問をぶつける。

 いや、なんだこれ。一体何がどうなってるんだ。全然頭の整理が追い付かないぞ。


「何よ。どうせ帰るとき校庭通るんだから、拾って帰れば? 教室から校庭まで手ぶらで帰れるでしょ」

「な、なんと……!」


 一体どういう親切心なんだ桜崎さん! 発想がもう世紀末だよ!

 しかもあれランドセルみたいな素材じゃないから、間違いなく洗濯コースじゃん! 明らかに手ぶらで帰れるメリットよりデメリットの方がでかいんですけど!


「おおっ!? な、なるほど、桜崎どのは聡明でござるな! よし、拙者の鞄も……!」

「ちょおお!? ストップ、ストップあずき! 投げちゃらめええ!」


 桜崎さんの後ろの席に座るあずきは、何故かうんうんと納得したように頷くと一瞬の迷いも無く己の鞄を両手に掴む。

 僕は咄嗟にあずきの前に立ちはだかり、両手を広げて窓をガードした。


「あ、チャイム鳴ったわね。じゃ、せいぜい頑張って洗えば?」

「ちょっ、桜崎さん!?」


 桜崎さんはまるで汚物を見るような目で僕を一瞥すると、そのままスタスタと教室を後にする。

 Oh……なんてこった。まさか自分の鞄が空を飛ぶ日が来るとは思ってなかった。


「ううむ、一体なんだってんだ桜崎嬢は。……信、お前本当何やったんだよ?」

「ぼくもなにがわるかったのか、わかりまてん。は、ははは……」


 僕は虚ろな瞳で見慣れた教室の天井を見つめ、これから待っているであろう洗濯地獄に……もとい、刹那姉ちゃんからの怒号に思いを馳せる。

 拳骨一発。いや、二発くらいで済めばいいなぁ。


「うーむ、マジでわからん。あの様子でよく、土曜日の買い出しOKしてくれたよな」

「へぇ、そうなん…………え?」


 僕は猛の言葉の意味がわからず、そのまま数分間フリーズする。

 猛はそんな僕を見ると、さらに言葉を続けた。


「だぁから。桜崎嬢がさっき土曜日の買出しに行くって言い出したんだよ。ただしモブ子さんも一緒ならって条件付きだけどな」

「え、つ、つまり僕と一緒の買出しはオーケーってこと? どゆこと?」


 僕は猛の言葉を受けるが、まったく意味がわからず頭に疑問符を浮かべる。

 混乱した様子の僕を見たモブ子さんは、胸の前に片手を置きながら言葉を紡いだ。


「あ、あのね。桜崎さんが言ってたんだけど、しぐれくんと一緒に買い物行ってもいいって。何故か私も一緒に行くことになったんだけど……なんか、ごめんね」

「ええっ!? い、いや、モブ子さんが謝ることは何もないよ。こっちこそごめん」


 僕はわたわたと手を動かし、モブ子さんへと返事を返す。

 モブ子さんはそんな僕の言葉を受けると、耳を赤くしながら言葉を返してきた。


「ううん、私こそ急に参加することになって……。えっと、どようび、たのしみにしてる……ね」

「??? う、うん。よろしくね」


 モブ子さんはもじもじと両手を合わせ、何故か耳を赤くしてはにかむように笑いながら僕に向かって言葉を紡ぐ。

 そんなモブ子さんの様子に疑問符を浮かべていると、今度は猛が声をかけてきた。


「しっかし謎だな桜崎嬢は。頭のネジがぶっとんでるぜ」

「ははは……それを猛が言うかね」


 僕は乾いた笑いを浮かべながら、今回の件の原因である猛へと言葉を紡ぐ。

 猛は僕の方へ顔を向けると、腕を組みながら不思議そうに首を傾げていた。

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