第17話:ホームルームの幕開け
あずきの笑顔を守ると決意し高揚していた僕だったが、帰りのホームルームが近づく毎に胸の鼓動は緊張の動悸へと変わり、高揚感は過呼吸へと繋がる絶望感に変わっていった。
「あ、あの、しぐれ、くん」
ぐったりとした僕に話しかけるか細い声。
その声の正体が隣の席のモブ子さんだとわかった僕は、力ない声で返事を返した。
「うん? どうしたのモブ子さん」
「あ、え、えと。なんか元気ないから、どうしたのかなーって……」
モブ子さんは両手をもじもじとしながら、たどたどしく言葉を紡ぐ。
相変わらず長い前髪に顔は隠れているけど、その手は細くてとても綺麗だった。
僕は一瞬その手を見つめるが、すぐに意識を取り戻して返事を返した。
「あ、うん。大丈夫だよ。心配ないから」
「あぅ……そ、そっか」
モブ子さんは僕が笑顔で返事を返すと何故かその顔を俯かせながら言葉を落とす。
何か耳が赤い気がするけど、気のせいだろうか。
「おい信。お前大丈夫か? てか、生きてるか?」
猛は前の席に座る僕の肩をトントンと叩くと、心配そうに僕の表情を見つめる。
二人の様子を見る限り、どうやら僕は相当酷い顔をしてるらしい。
うん、ていうか原因の一端は君にあるんだけどね?
「ははは、まぁ大丈夫さ。ホームルームが始まってしまえば、嫌でも地獄に叩きつけられるわけだし……」
僕は力なく笑いながら、手に持っていたボールペンのノックを意味も無く繰り返す。
猛は額に大粒の汗を流しながら、引きつった表情で言葉を返した。
「いや、お前超ギリギリじゃねーか! かろうじて精神を繋ぎとめてるのが丸わかりだよ!?」
猛は右手で僕の肩を掴み、ゆさゆさと前後に揺する。
僕はなんとか正気を取り戻すため何か楽しいことを考えようとするが、どうしても悪いイメージしか浮かんでこない。
まあ男嫌いで有名な桜崎さんが絡んでくるというだけで、どう考えてもハッピーエンドは想像できないのだけど。
「はあ。お前が俺の作戦をどう思ってるかは知らんがそう心配すんな。少なくとも、クラスの男子からは羨ましがられると思うぜ?」
「ええっ!? ほ、ほんと!?」
猛の言葉に希望を見出し、一瞬にして笑顔になる僕。
よかった。少なくとも人から羨ましがられるくらいの作戦なのか。そうか。
「ああ、よかった。猛のことだから、どうせろくでもないことを考えてるんだと思って絶望感に苛まされていたよ」
「お前は俺を何だと思ってんの!? 絶望配達人!?」
猛は思いのほかショックを受けたようで、怒りとも絶望とも取れる複雑な表情で僕を見つめる。
いや、これは僕が悪いな。勝手なイメージを持ってたみたいだ。
「ははは、ごめんごめん。悪かったよ。でも猛だって、“覚悟を決めろ”とか紛らわしいこと言ってただろ?」
そう、あの一言が無ければ僕だって猛を信用できたし、絶望したり変な覚悟を決めたりすることもなかったさ。
僕はすっかり肩の力を抜き、リラックスした状態で猛へと言葉を紡ぐ。
ああ、よかった。助かったんだな僕は。
「いや、まあ覚悟は必要なんだけどな?」
「―――へっ?」
なんだろう。何か今、不吉な言葉が聞こえた気がする。
気のせいだろうか。うん、気のせいであれ。
『うーっしジャリ共ぉ、席つけー。ちゃちゃっと終わらしてさっさと帰るぞー』
チャイムの音色と共に薄汚れた白衣を靡かせ、今日も先生は平常運転だ。
年中あれだけやる気が無いというのは、ある意味凄いことじゃないだろうか。日々生成されているはずのエネルギーは、一体どこで使われているのか疑問で仕方ない。
もっとも担任の先生があれだけやる気がないおかげで、このクラスは結束できていたのかもしれないけど。
いやしかし、いよいよ始まるな。運命のホームルームが。
ようやく猛の言っていた“作戦”の全貌が明かされるわけだ。
「でも、それでも僕は猛を信じる! 信じてるからね猛! ろくでもない作戦じゃないって!」
僕は頭だけを後ろに向け、背後の猛へと小さな声で言葉を送る。
猛はそんな僕の言葉を受けると、親指をぐっと立てて爽やかに微笑んだ。
「まっかしとけって! ろくでもない作戦なんか、俺が立てるわけねーだろ!? 親友のお前に、苦汁は舐めさせらんねーってな!」
「た、猛……!」
なんてことだ、僕の涙腺が崩壊しそうだなんて。
感動したよ猛。そしてありがとう。
『えー今日は……あ、そうそう。“桜川祭”(おうせんさい)の実行委員の選出をするんだった。男女一名ずつだから、やりたい奴は手ぇ上げろー』
先生は気だるそうに教室を見回し、唐突に桜川祭の実行委員を募る。
ああ、そっか。もう桜川祭の準備を始める時期なんだな。さっき猛と話したばかりなのに忘れてたよ。
しかしまあ、うちのクラスは皆やたらと元気だからすぐに立候補者が出てくるだろう。
「……あ、あれ?」
静まり返る教室に、僕は少なからず動揺する。
おかしい。みんなこういう時は我先にと手を上げて、実行委員の座を賭けてやたらと熱いじゃんけん大会になるというのに。
今日はみんなお腹でも痛いのかな?
『わー、なんということだー。“りっこうほしゃ”がいないんじゃ、“すいせん”をつのるしかないなぁー』
「ん、ん!?」
なんだ、先生のあの物凄い棒読みセリフは。
まるで誰かに言わされているようにも見えるぞ。
……待てよ、実行委員は、男女二人。男女ふたり。だん、じょ……
「あああああ!? さ、ささ、さまかぁ!? じゃない、まさか!?」
嫌だ。そんな、僕の杞憂であってくれ。
信じてるぞ猛。信じて―――
「はーい。せんせー。推薦なら、信くんと桜崎さんがいいと思いまーす」
「ばあああああああああ!?」
いや、ちょ、何言ってんのこの人!? 思わず“バカ”って言えなかったじゃん!
僕と桜崎さんて、今までほとんど話したこともないのに実行委員なんて出来るわけないでしょうが!
「ま、まさか猛。作戦っていうのは……」
僕は壊れたからくり人形のように頭だけを猛に向け、回らない呂律で言葉を紡ぐ。
猛はその長いまつげを生かし、ぱっちりと見事なウィンクをして見せ―――
「そっ♪ 二人っきりで桜川祭の準備をすれば、仲良しになれること間違いなしよん♪」
「…………ぴっ」
あれ、なんだこれ。声が出ない。ぴって何だよ、ぴって。
人間て本当に驚くと、思ってもみない声が出るんだなぁ。はは、ははは……
「ちょおおおおおお!? ば、馬鹿!? やっぱりろくでもない作戦じゃないかぁ!」
「はっはっは。そう言うな信よ。これでも大変だったんだぜ? 関係各所への根回しとか」
「その情熱を他に回してくれよ! いくらなんでも無茶でしょうが!」
僕と桜崎さんを実行委員にって、劇薬にも程がある。
普通ほらちょっとずつ一緒の時間を増やすとか、もっと情報を集めるとか、やるべきことはいくらでもあったはずだ。
「まあとにかく、せんせー。“クラス委員”である僕は、桜崎さんと信くんがいいと思いまーす」
「ちょっ!? 何こんなときだけクラス委員であることアピールしてるんだよ! いやらしいよ!」
け、権力だ。これが権力による統治なのか。
そういえばもう一人のクラス委員はモブ子さんだったけど、モブ子さんはこの作戦知ってたのかな?
「……っ!?」
「あ、知らなかったんだ。そりゃそうか」
モブ子さんは自分からぐいぐい来るタイプじゃないけど、猛が無茶なことをしようとしたら止めてくれるはずだ。
そんなモブ子さんのブレーキがなかったということは、猛の単独的犯行なんだろう。
いや待て、今はそれより大事なことがある。僕はまだしも、桜崎さんの反応はどうなんだ? ここからなら、かろうじて顔が見え―――
「…………」
ワアアアアアア!? こ、怖い! ストレートに怖い!
明らかにこっち睨んでるじゃん! 僕あんな桜崎さんの顔初めて見たんですけど!?
僕は桜崎さんの鬼のような形相に戦慄し、ただ震えることしかできなかった。