挿話 衝撃の嵐
私の名前は岩瀬忠震。幕府より800石の俸禄をいただく旗本、岩瀬家の者です。
その値からお分かりいただける通り、私は決して大身ではございません。私よりも大身の旗本は、それこそ大勢いらっしゃるものです。
血筋を辿れば仙台藩伊達家の祖、政宗公に遡ることはできますが、男系とはいえ傍系も傍系の私など、さして誇れることでもないでしょう。
重要なのは血筋ではなく、ましてや家格でもありません。本人の資質、能力。それこそ、時代が移り変わっても重要なものと、私は思います。
ですから、私がまだ若かりし頃、昌平坂学問所の門を叩いたのは当然の流れだったかもしれません。
寛政(18世紀末)の折に開かれたこの学問所は、幕府が直轄する教学機関。ここで優秀な成績を収めたものは、幕府上層部の覚えもめでたく、禄の少ない家であっても活躍する場を与えられる可能性があるのです。
私はここで勉学に励み、三年に一度の学問吟味(国家試験のようなもの)でも好成績を収めました。結果、私は時のご老中、阿部様のお目にかかることができたのです。
最初の十年ほどは様々な役職をこなしました。甲斐の国に送られた時はすわ左遷かとも思いましたが、甲府勤番というわけではなく、昌平坂学問所の分校とも言うべき徽典館の学頭と聞いて安堵したことを覚えています。
そして一年ほど前、私は母校とも言うべき昌平坂学問所の教授となり、充実した日々を過ごしておりました。さらなる栄達の夢を胸中に秘めながら。
そんな折、急きょ阿部様からお呼び出しをいただいたのはつい昨日のことです。
今を時めく老中首座様直々のお呼び出しはまさに青天の霹靂で、随分と驚きました。しかし、かの方から与えられた命は、もっと驚くものでした。
井伊殿下屋敷前に出現した、不可思議な洞窟。そこへ赴き、そこの主に会ってこいと言うのですから、驚くなと言うほうが無理でしょう。
そこから私は、今の幕府が置かれている状況をおおよそ教えていただきました。そして、やはり衝撃を受けたのです。
アメリカなる国が、武力を持って我が国を不当に扱わんとしていることは知っていました。
しかし、それに追い打ちをかけるかのように、不可思議な術を使う子供が現れて、やはり脅しのような扱いを受けていたとは。しかも、江戸城の奥近く、ご老中たちの御用部屋まで入り込まれていたとは。
私は憤然としましたが、けれども話を聞くと、その子供……クインと名乗った少年は、一部を除けば幕府にとって益のほうが多い話を持ちかけていたと知り、さらに驚きました。
と同時に、阿部様と同じく理解に苦しむとも思いました。誰にも気づかれることなく、また誰も寄せ付けぬほどの力量を持ちながら、何故そこまで譲歩をするのか。その真意がわからず、私は阿部様と共に首をかしげました。
そして阿部様はその事実を私に知らせた上で、相手の事情や思惑を探るべしと密命を下されました。
重責を感じるものでしたが、それ以上に私は、私ほどの者がこのような大きなことを任せていただけることに心地よい緊張感を得ていたことも事実です。私は、勇んで是と答えました。
名目上、そのだんじょんなる場所は幕命により立ち入りを禁じてあります。ですので、入るのは日が暮れてからとの了解を得て、私は一度自宅へ戻ります。
そして準備を整えて赴いただんじょんは……私の想像を絶する場所でございました。
阿部様から概要を聞いているだけで、私は既に生涯忘れ得ぬほどの衝撃を受けていたのですが、それで終わりではなかったのです。そこから先の出来事は、まさに衝撃の嵐とも言うべき、とてつもない経験の連続でした。
まず、だんじょんなる空間の特異性。江戸の地下に続いているであろうはずのその場所は、まったく水気を感じませんでした。
江戸は、元々沼地が多かった場所。また、その多くは干拓によって得られた新しい都市。そんな場所を掘り下げたら、普通は水が大量に湧き出てくるはずだと思うのですが……だんじょんの中は、驚くほど湿気がありませんでした。
しかも、明るい。外は夜にもかかわらず、真昼の屋内程度の光量が延々と続く光景は、不可思議以外の何物でもありません。
そんなだんじょんは非常に複雑に入り組んでおり、地図を作りながらでなければとても奥までは行けそうにないものでした。あちらへ行き、こちらへ行きと動きながらも、その多くは行き止まりであったりして、辟易したものです。
そしてそこに徘徊する、奇妙な生き物たちにも。
出てくるのは、姿かたちそのものは人間に近いですが、背丈は私の腰くらいまでしかない醜悪な見た目の子鬼らしきもの。また、だんじょんの上部を飛び回る、大きなコウモリたち。とても尋常なる場所ではないでしょう。
しかもそんな連中が、なぜか私を襲いません。阿部様からは、臨戦態勢だったものだけが攻撃されたらしいということは聞き及んでおり、それでも武器は手放せぬと覚悟をして赴いたのですが、ここまで来ると逆に不気味です。
そんなことを考えながら、歩いている私のもとに、女性が現れました。その姿に、私は目を丸くしたものです。
金髪碧眼は、我が国では絶対にありえないもの。そしてその顔立ちも我が国のものとは異なっておりましたが、その容姿は整っており、多くの男は外見の多少の差異は気にしないでしょう。
「ようこそ、お客様。わたくしめは当ダンジョンでメイド……ああ、女中と奥の警護を任されておりますティルガナと申します。以後、お見知りおきを」
しかし、彼女の言葉に私は驚きました。彼女が、流ちょうな日本語を話したのですから。
アメリカがやってきた際の顛末は、おおよそ聞き及んでおります。しかしかの国の使者たちは、当然日本語を話せず、また我々も英語を話せなかったため、わざわざオランダ語を介して話をしたという話でした。
それが、このだんじょんの人間はしっかりと日本語を話している。それがどれほど驚愕に値することか……!
が、私の驚きはそれにとどまりません。
「主様のご命令により、貴方をお迎えに上がりました」
その言葉に、私はさらに驚きました。
つまり、このだんじょんの主……クインという人物は、私の来訪を知っているということが知れたのですから。
だんじょんに入ってから、そこまで長い時間は経っていないはずです。にもかかわらず、一体どこで私が進入したことに気が付いたのでしょうか?
もしや、私はまったく気が付きませんでしたが、そういったことを知らせる何かがあるのでしょうか?
私は驚愕と共に、背筋が冷えるのを感じました。
「……わかりました。それでは、お手数ですが案内をお願いしましょう」
その感情を隠して、そう言うことのできた自分を褒めてやりたいものです。
そうして私は、ティルガナと名乗った女性の案内で、だんじょんを進みました。しばし歩いて連れられたのは、下りの階段。
だんじょんは一階層だけでなく、さらに下に続いているのかと目を疑いましたが、その先は目どころか私の感覚全てを疑う場所でした。
森が、川が……何より、空が、月があったのです。地下であるはずなのに、確かに天空が私の頭上に存在していたのです。
私は絶句しました。まさしく、言葉を失うとはこのことを言うのでしょう。それ意外に言葉がありません。
「こ……ッ、これは……これは、私は幻を見ているのか……」
そんなつぶやきにも似た言葉が出たのは、その不可思議な空間をしばらく進んでからでした。
しかしそれは、ティルガナ殿の耳に届いていたのでしょう。彼女は、歩きながらぽつりと口を開きました。
「幻ではありませんよ。これは全て、わたくしどもの主、クイン様がお作りになられた現実です。これが」
そしてそこで言葉を切った彼女は、顔を私に向けて笑いました。
にこり、と。花のある笑み……そのすぐ裏側に、信仰にも似た信頼と尊敬が込められた笑い方をして。
「わたくしどもの主のお力です」
そう、言いました。
華やかながらどこか壮絶なその姿に、私は再度言葉を失いました。そして、それから私は黙って彼女の後ろを歩くことしかできませんでした。
次に私が口を開くことができたのは、館へたどり着いた時です。
「こ、これは……! まさか城……!?」
その館は、驚くほど我が国の城に似ていました。漆喰と思われる美しい白が覆う、錐にも似た姿。それは、江戸城や姫路城といった名城に近しい、けれどもどこか異国の情緒を漂わせた壮麗なものだったのです。
それを囲む城壁もまた、我が国のそれに近く。石垣は石ではなく別の何かのようでしたし、甍の類は見当たりませんが、それでも。
確かにその姿は、見知った、そして親しみのある姿だったのです。
「さあお客様、こちらでございます」
「あ、ああ……すいません、つい見とれてしまいました。失礼いたします……!?」
もはや、場所が変わるたびに驚くのはお約束と言ってしまってよいでしょう。
館の中……それは、私が知るものとはかけ離れたものでした。
ギヤマン(ガラスのこと)、もしくは水晶と思われる床、壁、柱、天井で包まれたそこ。その中心には、虚空に浮かぶ不可思議な結晶。それが発する玄妙な光が周囲の物質に当たり、乱反射した輝きがほのかに満ちていたのです。
この部屋を作り上げるのに、一体どれほどの技術、労力、そして財源が必要になると言うのか!
絶句する私の前には、道を開けたティルガナ殿。そしてその先で、やはり我が国の人間とは異なる顔立ちの少年が、純白の狼と並んで待ち構えていました。
これにも驚いたものですが……しかし、ここで礼を失するわけにはいきません。私は理性を奮い立たせ、挨拶を述べます。
「……お初にお目にかかります。私、老中阿部主計頭様の命で参りました岩瀬忠震と申します。クイン様とお見受けしますが、よろしいでしょうか?」
「うん、ボクがクインさ。ようこそボクのダンジョンへ、歓迎するよ」
「恐悦至極に存じます」
応じるクイン殿の言葉は、市井の少年のような気安さがありました。
けれども、それを無礼と思う気力はありませんでした。そうするだけの能力が彼にはあり、また彼我の差はあまりにも隔絶しすぎていると、ここまでの決して長くはない道中で私は悟ってしまっていたのです。
それから、私はクイン殿に部屋へ通され、二人きりで会話をすることになりました。
話の内容は、阿部様より承った問いをして、クイン殿の真意を探るもの。また、私自身も感じていた疑問や推測などを正すため、いくつも問いをしました。
それでもやはり、衝撃的な事実ばかりが飛び出てきましたが……それでもなんとか、記録を取りながら進めることが了承されていたこともあってか、こなすことができました。
そうして、私は一つの結論に達しました。
たとえアメリカやイギリスと言った、欧州の国と敵対することになったとしても……クイン殿と結ぶべきだ、と。
クイン殿にはまだ隠していることはまだありそうでしたし、我が国一国に絞って拠点を作ろうとするその姿勢には、完全に納得したわけではありません。
けれども、そうした細かい疑問点をいっそ無視してでも、早急に彼と結ぶべきだと思ったのです。それだけの力が、彼にはあると。
そして私は、最後にクイン殿に問いました。この国は、どのような国になるべきか、と。
それに対する回答は、私とおおむね同じ意見……いえ、私よりもさらに進んだところを見据えたものでした。
挙国一致、その考え方は私もおぼろげながら浮かんでいましたが、権力の分散や憲法の制定、教育制度の拡充、身分の撤廃などは、とても思いついておりません。
我が国よりも数段上の文明からやってきた人間の言葉ですから、それは当然と言えば当然なのですが……。
それでも、これほどの短時間であれだけ多岐に渡る内容を迷うことなく口にしたのですから、クイン殿はその幼げな見た目からは想像もつかないほどの知識と、頭脳、そして力を持っているのでしょう。
彼を我が国の人材にできないことが、いっそ残念でなりませんでした。
そして、そんな彼の話を聞き、私は決意しました。
徳川家の……幕府の安危ももちろん重要な問題ではありますが、国家の大難に比べればいかにも軽い。
重要なのは社稷……すなわち国家であり、我々が今すべきことは、何より日本という国のためにこの身を捧げること。そのために、この貧士が何かできるのであれば、全力でそれをこなしてみせるのだ、と。
そんな決意を胸に、私は丁重にクイン殿の元を後にしました。行きと同じくティルガナ殿に見送られ、外に出た私の頭上には……十五夜を少しばかり過ぎた月が佇んでおりました。
「ふう……とんでもない経験の連続でしたね……」
夜も更けた江戸の町並みを、自宅に向けて歩きながら、ひとりごちます。
「……まず、私のすべきことは阿部様の説得でしょうか。明日から忙しくなりますね……」
月を見上げながら、私はつぶやき、そして思います。
この日本の行く先が明るいものであれ、と。願わくば、あの仲秋の名月がその導とならんことを……。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
かよちゃん視点だと思った? 残念、忠震君でした!
主人公視点とは異なる彼の視点ですが、彼もやはり相応に驚いていましたよ、という。彼があれだけ立ち回れたのは、主人公と同じく【アロマセラピー】の効果が表れていたからでしょうね。