怪物の花嫁
濃い青の陽気の下、なだらかな斜面の連なる丘がずーっと視界の果てまで続いている。
風はゆるやかに青草の匂いを辺りに運んでいる。
右手の一方までは緑の丘が連なった風景が広がっているけれど、もう左手の方にはこんもりとした森があった。
男は丘を越えて、その森で木の実やら丸々したウサギやらそういうものを採って暮らしていた。
男の隣人などは「森には怪物がいるから」と言って、丘のもっと右手にある海まで魚を取りに行っていた。多分男以外の村人全員が。
男は別に森が怖いと思ったこともないし、夜にわざわざ出かけることもないし、いのししや、自分の身体より大きな獲物を仕留めようなど考えたことなんかなかったから、怪物に会うこともないし捕まることもないと思っていた。
海の漁場は村人が占領していたし、身寄りのない男にとっては森のほうが暮らしていくにはちょうど良かったのだった。
男はウサギやウズラを仕留めるのに小さな罠を森のそこらじゅうに仕掛けておいて、毎日なにかかかっているか見ては、何もかかっていなければ木の実を採って帰った。
一人で森に毎日出かけて行くし、変わった男だと思われていたから、お嫁さんの来手もなかった。
男の方も貧乏だし、住んでいる家も掘建て小屋の様で財産もないから、お嫁さんが来なくてもしようがないと思っていた。
ゆるやかな風が吹く穏やかな陽気の日に、いつものように男は森に出かけていった。
もうすぐしたら森の色はさまざまに色褪せてきて落ちた黄金色の木の葉の下から美味しいきのこが顔を出すだろう。森の果物を干して、冬の間食べて行けるだけの食べ物を集めておこうなどと考えながら、男が仕掛けた罠を一つ一つ見回っていっていると、茂みのなかから「キーキー」甲高い声が聞こえてきた。
あんなに高い悲鳴はウサギでもウズラでもないなぁと男は首をかしげながら近寄ってみると、男の仕掛けた罠に、小さな小さなおじいさんがかかっていた。
小人は金や銀の細工物を身体につけていて、小人だけれど、大変なお金持ちに見えた。小人は毛むくじゃらで目は真っ赤で乱杭歯の牙が口からはみ出している。耳はちぎれた様にぼろぼろでそれでいてとてつもなく大きく、小人をすっぽりと覆えるほどだった。
男はすっかり驚いてしまって声も出せずに小人を見下ろしていた。
男に気づいた小人が大声を上げた。
「罠をはずせよ! この馬鹿やろう!」
男はどうしたらいいのかわからなくてただぼんやりと立っていた。
小人は男が何も言わずに立っているのを見て、慌てて、「わかった! すまなかった。わしだって自分の立場くらいわきまえてるさ。なぁ、もう一晩中、この忌々しい罠に引っかかったまんまで腹だって空いてるし、何より用事の途中だったんだ。なんでも、願い事を聞いてやるから、この罠を外してくれないか」と叫んだ。
小人が罠を外してもらいたいということがわかって、男はほっとした。急いで罠を外してやると、小人は自分の身なりをせわしく整えて、「助かった助かった。願い事を聞いてやるからなんでもいいな」と男に言った。
急に願い事を言えと言われても何にも思い浮かばなかった。食べ物は足りているし、住む所にも困ってない。強いて言うなら、お嫁さんがまだいないということだった。
「じゃあ、お嫁さんをください」
男は恥ずかしげに小人に願い事を言うと、小人は、「わかったわかった、花嫁だな」とつむじ風の様に森の茂みのなかに消えて行った。
まるでつむじ風のような声が小人の走り去った茂みから聞こえてきた。
「わしの末娘はべっぴんだぞ! いき遅れてたから助かったわい!」
男は唖然と茂みを見つめていたが、自分にもお嫁さんが来るのだと考えると、次第にジーンと感動して、その日は何も採らずに家に帰った。
家の木戸がコトッと鳴るたびに、男は期待して飛び上がった。けれど、待っても待ってもお嫁さんは来なかった。男は小さな板をくりぬいて作った窓から月を眺めながら、もしかするとお嫁さんは恥ずかしくってこっそり来るのかもしれないと思い、もそもそとわらの布団のなかにもぐりこんで、その夜は眠って待つ事にした。
ガチガチゴトゴト
鳥が鳴くより前に大きな音で男はびっくりして目が覚めた。
慌てて布団から飛び出してみると、かまどに大きな鍋をくべている影がある。夜明け前なのでとても大きな影だというくらいしかわからなかった。男は泥棒だと思いこんで大声で叫ぼうと思った。
そのとき、ちょうど窓からうっすらと朝日の明るい光が差し込んできて、大きな影がくっきりと見えてきた。毛むくじゃらでとてつもなく耳が大きくて目は真っ赤で鋭い乱杭歯が、男の目にしっかりと見えた。
男は大声で叫んでわら布団のなかに潜り込んだ。潜り込んだまま、これが夢だったらなぁと思いながら眠ってしまった。
シチューのとてもいい匂いがわら布団の方まで漂ってきて、男は目が覚めた。だんだんわらのなかにまでシチューの濃い肉汁と野菜の美味しい煮込んだ匂いが染み渡ってきた。けれど、わらの隙間から見える怪物の姿は消えることはなかった。怪物はせっせと働いている。動きは不器用だけれども、シチューの匂いからして料理はおいしそうだし、散らかったままの小屋が片付けられて、空きっぱなしだった穴に板が取りつけられている。お嫁さんは怪物のままだったが、太陽は傾きかけてきて窓から赤い夕焼けが射しこんできている。男はだんだん空腹に耐えられなくなってきた。
怪物はシチューだけでなく、かまどの隅の石のオーブンで木苺のケーキも焼いていたとみえて、その甘酸っぱい匂いも漂い始めてきた。
男はこのまま出ていっていいものかしらとちょっとだけ考えた。怪物だけれど、一応自分のお嫁さんなので、もそもそとわら布団から出るとシチュー椀を並べた食卓についた。
怪物は男が時々腰掛ける小さな踏み台にちんまりと腰掛けている。男はそれを見てお嫁さんの大きさにあう腰掛を作らないといけないなぁ・・・と思った。
男は怪物のお嫁さんに名前を聞いてみたが、怪物は怖い顔でじっと男を見ているだけで何にも言わなかった。小人の話もしたけれど、お嫁さんはやっぱり何も言わなかった。けれど、首や頭や目に見える部分にくまなくつけている黄金の飾りや宝石を見て、やっぱり小人の末娘さんなのかなぁ、と男は思うのだった。
会話も次第に途切れて、男が困っていると、お嫁さんはハーブのお茶を出してくれた。
シチューもケーキもお茶もすこぶるおいしかった。
男は相変わらず森に木の実やウサギなんかを採りに行く。あれ以来罠に小人は引っかからなくなった。たまに森に行って茂みががさりと動いたら、男はあの小人かもしれないと思って、小さな声で「あなたの娘さんは元気ですよ〜」と声をかけるのだった。
村では変わり者の男の家にお嫁さんが来た話題で持ちきりだった。
それが、どこかの国のお姫様のように美しい娘なのだ。男の家の前を通りすぎた村人がとてもいい匂いがするので窓から覗いてみると、金や銀の首飾りなんかをした美しい娘さんが男のために料理をしたり、掃除をしたりしていたのだった。それを見た村人は慌てて村中に言いふらした。
村人はこぞって男の家に来て男のお嫁さんを見物して行った。
男は最初のうちは小屋に群がる村人に挨拶していたけれど、ずーっと見られているお嫁さんが気の毒になってきて追い払うようになった。けれども怪物のお嫁さんはそんなことちっとも気にしてない様だった。
男が村に用事で買い物をしに来たとき、知らない男から、「お前の家にいるあの娘はどこの娘だ?」と訊ねられた。
「それがわからないんですが、森で会った小人の娘さんだと思います」と本当のことを話した。
「この嘘吐きめ! どこかの高貴な方の娘さんをお前がたぶらかしてさらってきたんだろう!」
さんざんどやされた挙句、男はこの村から一番近いお城の牢屋に入れられてしまった。
男は暗くてジメッとしたわらの上に座って、怪物のお嫁さんが自分が帰ってこないのを心配してないかしら……お嫁さんは何か困ってないかしら……と考えていた。
しばらくすると、牢屋の扉が開いて一人の高貴な男が入ってきた。
「男、あの娘さんはどこの誰の娘さんでもないらしい。そこで話があるのだが、ここにひと袋の金貨がある。あの娘さんを手放してくれたら、お前にこの金貨を与えよう」
「お嫁さんは元気なんですか?」男はずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「娘さんは可哀想に口が利けない。綺麗な服を与えて美しい庭で遊んで頂いている。いずれはこの城の主が結婚を申し込む手筈になっているのだ」
男は考えた。自分にしかお嫁さんは怪物に見えないらしい。他の人は太陽よりも月よりも美しいと誉めそやして挙句にはこんな大金まで積んでお嫁さんを欲しいと言っている。
自分はただ小人を助けて思いつきでお嫁さんが欲しいと言っただけだ。
それに自分は貧乏で、お嫁さんに贅沢なことをひとつもさせて上げられない。
本当に嫁に欲しいと思っているお金持ちの所へ嫁いだ方が、お嫁さんは幸せかもしれないなと思い、男は金の袋を受け取って牢屋から出してもらった。
小屋に帰ってみると、部屋のなかは綺麗に片付いていて、作り置きのパンと硬いチーズが置いてあった。わらの布団はどこからかもって来たやわらかな布の布団に変わっていて、ツギだらけでぼろぼろだった服は繕ってあって前よりも丈夫になっていた。
お嫁さんがいなくなった小屋は殺風景で、広く感じられて、男はなんだかさびしいなと思った。
怪物だったけど、いいお嫁さんだったなぁ……と男はしみじみと思った。
小さな踏み台はちょっと重みできしんでいた。男はもう少し丈夫で大きな踏み台を作ろうと思って、森へ太い木切れを拾いに行った。
幾日か過ぎて、真夜中にガタンゴトンと大きな音がして、誰かに小屋の扉がこじ開けられた。男はびっくりしたけれど、月夜に浮かんだ影が怪物のお嫁さんの影だったので、なぜだかほっとした。
「やぁ、元気だったかい? 忘れ物を取りにきたのかい? お前の椅子を直したんだけど、良かったら持っていくかい」
けれど、お嫁さんはその大きな踏み台に腰掛けたきり何も言わなかった。
お嫁さんが急に帰ってきて、男は大変うれしかったが、真夜中だったしお嫁さんも疲れているかもしれない。訳を聞くなら明日の朝聞こうと思って眠ってしまった。
カタカタコトコト
物音に目を覚まして、寝ぼけ眼の男は朝焼けににじむお嫁さんの後ろ姿を見た。
「あれ、お城には帰らなかったのかい? もしかして本当に帰ってきたのかい?」
怪物のお嫁さんは朝の光を浴びて、びっくりするくらいきれいな笑顔でこう答えた。
「もうどこにもいきませんよ」
なぜ怪物のお嫁さんがとってもきれいに見えたのか、男は不思議に思ったけれど、まだ朝も早いしお嫁さんも忙しいみたいだからと、またやわらかな布団にもぐりこんでぐっすりと眠り込んだ。
ところでお城に連れて行かれた怪物の花嫁は、城主に与えられた服を着せられた。
けれど、怪物の花嫁が身につけている宝石や黄金に目がくらんだ城主の母親が、召使に言いつけて着替えさせるときにそれらを全て取り上げてしまったのだ。
ところが、体からその飾りを外したとたん、怪物の花嫁の美しい姿はあっという間に恐ろしい怪物の姿に変わってしまった。召使は慌てて逃げ出した。
城主の母親は召使の持ってきた宝石と黄金を手に取り、ニマニマしながら身につけてその姿を鏡に映した。城主の母親は鏡の映った自分の姿を見て絶叫し、泡を吹いて失神してしまった。何を見たかなんて、とても恐ろしくて誰にも話せなかったのだけど……
首に巻かれた黄金や頭に載せられた宝石は、それぞれ蛇や虫に姿を変えて部屋を出て行った。
宝石や黄金を取り上げられた怪物の花嫁だったが、そんなことなどまったく気にせず、美しい庭に蛇やねずみやムカデを招き入れ、美しいやわらかな花が咲いているとむしゃむしゃと食べてしまった。時折歌ったりするけれど蛙のような声で一晩じゅう歌いつづけた。食べたがるものはこうもりやらミミズばかりで、料理人はレシピを聞いただけで逃げ出した。
お城で一番賢い年寄りが言うには、あの宝石や黄金の飾りを身につけると、たちまち美しい姿に変身するのだそうだ。だから、宝石も飾りも外した娘は世にも恐ろしい姿に戻ってしまったのだ。
けれどさすがの年寄りも、城主の母親がこっそりとやったことまでは知らなかったようだ。
結局、怪物の花嫁は三日も経たないうちにお城から追い出されてしまったのだった。
男が目を覚ますと、大きな毛むくじゃらのお嫁さんが食卓にパンとチーズと木の実のクッキーを並べていた。
男は椅子に腰掛けて、「朝起きたら、お嫁さんがとってもきれいな人に見えたんだよ」と話して聞かせた。
怪物のお嫁さんは今度は大きく作りなおした踏み台に腰掛けて、男が美味しそうにパンを食べるのをなんだかうれしそうに眺めているのだった。
男には、いつでも怪物のお嫁さんの本当の姿だけが見えているのだった。