はじまり
時刻は午後三時を回った頃だったろうか。正確な時間はわからないが、事が起こってからもう数十分はソレから逃げていた。
逃げても逃げても翼を広げて追いかけてくるソレの姿は人間とは異質の存在だ。
息を切らしながらも必死に走るのは班堂拓真、十六歳。高校に入ってからこれまで運動といえば体育の授業の時間でしか行ってこなかった拓真にとって過去最高になるであろう距離だった。
何度まいてみても後ろを見ればまだ追いかけてきている。こちらは足。あちらは翼。当然と言ってしまえば当然なのだが。
「くっそ、こんなことなら家出るんじゃなかった」
一瞬の移動距離が違う翼と足では徐々に距離が縮んでいくだけだ。
「逃がしません! 観念してください!」
誰が観念するものかと全力疾走するものの、やはり距離は縮まらない。それどころか勢い余ったまま足を絡ませてしまった拓真は河川の斜面を転倒するように転がり落ちてしまう。
「痛ってー、くそ、早く警察に電話しないと」
ポケットに入れておいた携帯を取り出すも、こんな時に限って電池節約の為に電源を落としていた。慌てて電源ボタンを長押し。しかし――。
バチンッと電気が弾けたような音が拓真の耳に入った時には既に操作中だった携帯は煙を上げてお亡くなりになっていた。普段ゲームとサーフィン用くらいにしか使っていなかったとはいえ買って三カ月で無残に散るとはこれ如何に。
絶叫するように死骸となった自分の携帯を前に涙ぐむ拓真は直後前方に人の気配を感じた。顔を上げるとそこには白い翼を広げた銀髪ウェーブの少女が指をバチバチと鳴らせながらこちらを見ている。その姿は例えるなら狩人だ。
「嘘ん!?」
「ふふふん♪ どうですか? これが法術ってやつです。天使を甘く見ないでください」
一歩、また一歩と足を延ばしてくる天使。
「こここ、この野郎、何ドヤ顔してやがる。お前の訳わからんもののせいで携帯が逝っちまったじゃねーか。この携帯どーしてくれんだ。買ってまだ3カ月しか経ってねーんだぞ」
「わ、ワタシは悪くありません。アナタが約束破って逃げるから実力行使しただけじゃないですか。それに今のは人体に影響の無いよう力を制御して機械だけを狙っただけです。何も問題無いはずです」
「大ありだっつのクソガキ。俺の携帯はゼロ円携帯みたいなやっすい玩具とは違うんだよ。六万だぞ六万。それだけじゃねぇ、アプリだなんだいっぱい入ってたんだ」
「そ、そんなことワタシは知りません。先ほども言いましたが、それはアナタが逃げたから仕方なく行っただけで」
「ふざけんな! くだらねーこと言ってねーで弁償しろ! おら弁償しろ」
拓真の勢いに押され困ったような声を上げながら一歩、また一歩と後退する天使。
「……まぁでも、そこまで嫌がるなら無理に携帯を弁償しろとは言わねーよ? だけど」見た目十歳ちょい。人間なら小学校低学年くらいの少女の体を舐め回すように視姦し、
「代わりに服全部脱いでもらおうか」
とんでもないことを口にした。
「えええええええ!? そ、それは困ります!」
「困りますじゃあないんだよクソガキ。困ってんのは俺だっつの。それに安心しろ、俺はロリコンじゃねーからお前の体に興味なんて無い。だ・け・どぉ、お前の下着やらなんやらを店で売り捌きゃぁ六万なんざあっという間に戻せるからよぉ。後ブロマイドも欲しいからさぁ、写真撮らせてくれればいい。もちろん服着用時と非着用時をな」
「そ、しょんなぁ……」
相手に発言権など持たせず一方的に攻め立てる。
たとえ子供だろうとそんなことは拓真にとっては関係の無いこと。戦う以上そこに歳の差性別の違いなど考慮するべきではない。全力で叩き潰すのが彼の流儀だ。
大人げないと言いたければ言うがいい。拓真はまだ十六歳。世間一般的には大人と子供の境でどちらともとれる。
だから拓真は悪くない。何故ならこう言う時こそ都合の良い子供側の存在になれるからだ。子供が子供を虐めようと、ましてや裸を見たところで合法。捕まる要素すら無い。まさしく真の勝ち組高校生。これでリアルが充実してれば文句無しだ。
「さあ、どうすんだよぉ、あぁん? セシルちゃんよぉ」
追い詰められる天使、セシル。
追い詰める人間、班堂拓真。
立場は一気に変わり、狩る者と狩られる者の立場が逆転した瞬間だった。
とまあ、こんな出来事が起こってしまった訳なのだが、そんな事態になったことを説明するには時間を遡らなくてはならない。そうあれは、拓真が天使から逃げ始めたさらに少し前、遡ること一時間くらい前のコンビニでのことだった。しかしせっかくなので今日、この日の始まりから追って話していこうと思う。