口裂け女3
夜はいつの日もやって来る。夜の定義はともかく、例外というのはまずないもので、この日も空は次第に暗い藍色に染まりつつあった。
その日も彼はいつも通り、待ち伏せを決め込んでいた。初めて彼が彼女と遭遇した時間帯に、同じように学生服を着込んだ彼は、まったく同じ住宅街にいた。唯一異なる所といえば、その日の彼は眼鏡をしている点のみだった。
そんな彼の背後から、静かに人影が彼の元へ向かっていた。その人影は、彼の背後に立つと
「あの…」
遠慮がちな声でそう話しかけた。それは女の子の声だった。彼が振り返ると、そこには中学生位の少女がいた。黒髪のお下げを左右で2つしており、セーラー服を着ている。大きな眼がより幼さを加速させている顔立ちだ。
「はい」
彼がそう返事をし、彼の視線がオリスを捕らえていた。釣り眼から注がれる視線は、セーラー服の少女を少し縮みあがらせていた。それは恐怖ではなく、もちろん別の感情から。
(帰りたい…)
オリスはそう思い、枯野に言われた一部始終を思い出していた。
枯野の考えはこうだった。男子高校生がオリスに惚れた点というのは全て外見に起因している。一方でその外見というのはオリス自身のものではなく、「口裂け女」の外見である。特殊な装置とメイクでオリスは変装し、オリスは口裂け女の活動を行っていた。よってオリス自身が彼女そのものの姿として現れ、地元中学生のふりをして学校の文化祭の仮装だっただの適当な嘘を並べて、男子高校生自身の中にある幻想を砕けばいいというものが、枯野の出した一次対策の内容だった。必要とあれば「口裂け女」を再現してみせるというところまで考えていた。目の前で中学生が口裂け女となっても、目の前に異世界の住人がいるとは普通考えない。特殊メイクと考えるのが普通だろう、と彼女は踏んで行動するところまで考えていた。
以上のような枯野の提案から、オリスはこの高校生に事情を説明しなければならないのだったが
「えっと、その…」
一向に口はうまく動いていない。目の前の高校生から少し視線を逸らし、口をもごつかせ、顔を赤らめている。
その姿は恋する中学生そのものだった。
「口裂け女の件なんだけど…」
「あぁ!」
ようやく話を切り出した彼女に対し、彼は勢いよく反応した。
しかし次に出た言葉は
「君も逢ったんだ、あの人に」
というもので
「え」
オリスの望む方向性とは全く異なるものだった。そして、ただでさえ丸い眼がさらに丸くなるオリスである。
「この辺に出てた口裂け女でしょ?僕だけしか目撃者いないと思ってたんだけど、あぁ、やっぱり他にもいたんだ」
「い、いえ、そのね」
このような返しをしてくるという可能性は、オリスも予想だにしていなかった。それは彼女自身が『口裂け女』であるという自覚からであろうか。
話を望む方向へ持っていこうとするが
「え、君は他の場所で見たの?」
「いやそうじゃなくて…」
肝心なところで口は動かず、舌は空回りを続けるのだった。
一方、少し離れた角から、彼らの様子を伺っている者がいた。髪が長く身長がそれなりにある女性、すなわち枯野である。
(相変わらず雰囲気に弱い女だな…)
目の前繰り広げられる光景を見て、そう彼女は思った。彼女の顔つきには苦々しさが現れた渋いものとなっている。
そもそも何故彼女がここにいるのか。それはオリスが一人で彼の元に行くのは怖いと言い出したがためであり、枯野は強制的についていくこととなったのだった。年齢的にそれなりに経験は重ねているはずのオリスにも関わらず、妙なところで初心で少女である。枯野自身も言いだしっぺとしてそれなりに責任を感じていたのか、結局彼女の頼みをさらに引き受ける結果となっていた。
オリスが醸し出す停滞した雰囲気にイラつきがついついたまってきていた。さっさと帰りたい、煙草が吸いたいなどという些細なことも彼女の心を焦がしていた。
仕方なしに、帰ってこいという指示を枯野は出す。
「あ」
それに気づいたオリスが声を出す。
同時に彼女は枯野の方に駆け出すものの
「うぉ!」
慣れてない格好だからかつまずいてしまった。鈍くさいことに顔からである。
「大丈夫?」
彼が駆け寄ってオリスを心配する。オリスの鼻は真っ赤に染まり、眼にも涙が浮かんでいた。それでも彼女は
「な”いじょうう”…」
何とか取り繕うとしていた。
彼が苦笑いを浮かべながらも、ふと目の前を見ると、角に人間の影があることに気がついた。
「え、そこに……誰かいるの?」
オリスの駆け出した方向、そこにいる人影。彼がそれに感づいている。
オリスは当然かぶりを振るものの、彼からしてみればその否定の表現はさらに興味を引くものになってしまった。
彼が影に近寄りはじめ、慌ててオリスもその後を追いかける。いつもであれば俊足の彼女が先回りできるものの、今回は赤い鼻に意識がいっていた。
「ちょっ」
枯野もそれを見てさすがに動揺する。しかし時既に遅し。
「あ」
彼にその姿を見られてしまった。
「ど、どうも~…」
とりあえず手を振って誤魔化す枯野。オリスが彼に追いついてくると、彼女はその首を羽交い絞めにして彼から少し遠ざかる。
「何で連れてくるのよ!」
「仕方ないじゃない、勝手について来ちゃったんだから!」
そう語気を強めながら、彼に聞こえない声で。二人はそれぞれ言い合った。
さてこれからどうするか。どういったように彼に説明しようか、と枯野が頭をめぐらしていた。
「ようやく姿を見せてくれたんですね」
しかしその思考は彼の一言で停止する。
「……は?」
枯野はその言葉の意味を図りかねて、妙な声が出る。オリスも言葉の先が何を指しているのかわかっていないようだ。
「あぁ、先日は失礼しました。あの時は僕も取り乱してしまったというか…」
しかし構わず彼は話し続ける。何よりその視線はオリスではなく枯野に向けられていた。
「待て」
枯野がそう彼の言葉を遮った。
「ちょっと待て、な?」
そう言いながらも、彼の姿を見る。照れくさそうな顔。不自然に泳いだ視線。
枯野は嫌な予感を覚えつつも、それが自身の勘違いであるよう彼女自身に言い聞かせた。
そして
「少し前の日に逢った口裂け女を指してみようか?」
そう静かにゆっくりと話しかけた。
彼はその言葉に戸惑いつつもゆっくりと右手で指を指す。彼の人差し指の先は枯野に向かっていた。彼女の嫌な予感が的中した瞬間だった。
「おまっ、違うだろそれ!」
全力で否定の言葉を枯野は叫んだ。羽交い絞めされたオリスを手放しての勢いだ。
「違うだろ、アタシじゃないだろ!明らかに別人だったろ?なぁ、おい!」
いくら否定の言葉を口にしても
「え…、いやでも」
「でもじゃねーよ!」
彼はまったく自身の視認を疑っていなかった。確かに枯野の身長は170cm程度。体格は若干の痩せ型で、髪型は良く似合ったセミロング。ハイヒールだって似合うだろう体格だった。衝撃の出会いのせいか、はたまた暗闇の奇妙な効用か。彼の記憶の中にあった印象はひどく曖昧な像としてしか機能していなかったのだろう。
それからはお互いまったく譲らない光景がそこにあった。「私じゃない」「あなたです」のやり取りが繰り返されたが、話は平行線だった。当たり前のことだった。
困った様子で彼は何度目のことか首をひねった。視界のふちに、借りてきた猫のようにその場に佇んでいたオリスがいることに気がついた。それを確認した彼は
「君はどう思う?」
と、オリスに問いかける。
「ふぇ!?」
突然話が振られたことにオリスは驚いた。すると長く使われていない電球に電気がともったように、突然今回の彼女の『目的』が頭の中に鮮明に蘇ってきていた。
枯野のほうをオリスが見る。枯野は若干嫌気の指した疲れたような顔をしていた。『なんだよ』と言いたげな彼女の顔を見ながら少し考える素振りをすると
「私もこの人じゃないかなって…」
オリスは裏切りの言葉を口にした。
「お前ーーーーーーっ!!」
枯野の悲痛な叫びが夜の住宅街にこだましたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。