第9話 感傷・・・椿
「椿、大丈夫か?」
低く、優しい声で覚醒していく。
どうやら自分は眠っていたらしい。
ここはどこだろうと思い、薄暗い部屋でぼんやりと目を開け霞む視線をさまよわせると、心配そうな顔をした光がベッドの脇に腰掛けて椿を見下ろしていた。身体を起こしかけたのだが、それをやんわりと押し止められてしまった。大きな手がおでこに乗せられて、椿はそのほんやりとした冷たさが快くて、ゆっくりと目を閉じた。
「熱は…ないようだけど、疲れたんだろう。ゆっくりすればいい」
「あきらさん…どうして、私…」
「エレベーターに乗るなり意識を失ってね。慌てて部屋に運んで、それから今まで眠ってた。と言っても、時間にして二、三時間かな」
小百合をはっきりと拒絶した後、倒れ込まないように光の肩口にもたれかかった。椿の顔色を見て取った光も倒れないようにと腰を抱いたのだが、エレベーターに乗り込むなり椿は意識を失った。そこから椿の記憶はない。
相当緊張していたのだろうと思うとよくあの人いきれのするパーティーを乗り切れたなと思う。
もしもパーティー中に倒れでもしたら、椿の醜態を晒すことになり光に恥をかかすことになる。それこそ、小百合の様に。それだけは絶対に避けたくて、気分が悪くなってもずっと我慢していたのだ。しかし、隣にいた光には見抜かれていて、そっと助け舟を出されたりもしていた。周りからは有難い事に、新婚夫婦のじゃれあいだと好意的に受け止められ、体調の変化を嗅ぎ取るものはいなかったらしい。
ふぅと息をつくと、立ち上がった光が何か食べないとなと言ったが、食欲はない。
パーティーで出された食事にもほんの少ししか手を付けられなかった。もったいないと思いつつ、残す事に罪悪感を感じていたのも事実だ。これがごくごく内輪のものだったら、包んで持って帰りたかったなと所帯じみた事を考えて少し笑った。
「椿、何か食べないと。果物だったら食べられるか?」
「食欲ないです…ごめんなさい…」
「そうか…でも一応頼むだけは頼もう。お腹が空くかもしれないから」
光の心遣いがたまらなく嬉しい。パーティー中もさりげない心遣いと、しっかりとしたエスコートは椿にとって公の場では初めての事だったが、恥ずかしがらずに享受しなさいと優しく言ってくれたのは、他でもない光だ。そんな光がルームサービスを頼んでいるのを微笑みながら、改めて自分がいる部屋を見渡した。インペリアル・スイートの部屋を取ってくれたのは単純に椿の身体を心配しての事だとわかっているが、そもそも光は椿を甘やかしたいらしい。何もこんな広い部屋じゃなくてもいいのにと思う反面、こんな贅沢もいいかもしれないと思っている自分に驚いた。
とは言っても、光は甘やかしすぎだ。ドレスもそうだし、ダイヤも指輪も、全部が高級品で正直椿は気後れしてしまっている。それでも光は妻を甘やかすのが夫の特権だと言わんばかりに聞き入れてくれない。そんな光に呆れつつも、愛おしいと思っている自分がいるのも事実だ。
ルームサービスが運ばれてくると、たくさんの果物が盛られた豪華なクリスタルの器を抱えながら、光が椿の寝ているベッドサイドに来たが、流石にその量は多すぎた。全部は食べられないと言うと、二人がかりで食べるかと呆れたように果物を眺める光に笑った。
身体を起こし、バスローブの上からガウンを羽織る。厚手のガウンの手触りがすごくいい。そんな事を思っていると、イチゴを持った光が既にスタンバイしていた。
恥ずかしいと思いつつも、光が手ずから食べさせてくれるイチゴは、大きくて物凄く甘い。あまおうだな…と思わず笑みがこぼれた。もぐもぐと食べているといきなり光が吹き出した。何事かと光の顔を見ると、何やらツボに入ったのか身体を曲げて笑っている。自分を見て、苦しそうにくつくつと笑い続けながら、たまに小動物みたいだ…と言ってまた笑う光にムッとしながら、器にあるマンゴーを食べる。瑞々しくとても甘い。幸せな気分で食べていると、ようやく笑いが収まったのか、涙を拭いながら椿が食べようとしていたメロンをパクッと食べた。
「あー!ズルいですよ!食べたかったのに!」
「私はメロンが好きだからね。他のは全部食べていいけど、メロンは私のものだ」
「何ですか、それ。横暴ですよ、おーぼー」
「はいはい、わかったわかった。椿、口開けて」
「あーん」
てっきりメロンを食べさせてくれるとばかり思っていたのに、椿の口に飛び込んだのはメロンではなく、光の舌だった。がっちりと後頭部を押さえ込まれていたので、逃げる事が出来ずに、自由に動く光の唇と舌に翻弄される。
椿はほんのりメロンの味がしたように感じたのだが、それが味覚としてなのか単なる錯覚なのかわからなかった。
ようやく唇が離されると、息苦しさから息切れを起こしていた椿を愛しむかのように、光は額に唇を落とし、しっかりと椿を抱き寄せた。未だにドキドキとしている椿をぎゅっと包み込むように抱き締めている光は、椿の肩口に顔を埋めるようにして静かに呟いた。
「情けないな、椿の元婚約者を見て嫉妬している自分がいるよ」
「ど…どうして?」
「気付いてなかった?彼はずっと見てたよ、椿の事。よく彼に殴られなかったなと安心しているよ。それ程彼の目から殺気を感じられたからね」
信じられないが、多分光の見間違いではないだろうか。きっとそうだ。楓が椿を気にかけるはずがない。彼は今までのように無関心を貫き通す、絶対に。
椿の考えている事がわかったのが、光はくつくつと笑いながら「不憫だな」と呟いたが、何が不憫なのかわからなかった椿は、何がとは聞き返さなかった。
ドレスはしっかり脱がせてあって、今バスローブの上からガウンを羽織っている状態だが流石に気恥ずかしい。シャワーを浴びたいと申し出ると、光は名残惜しそうに抱きしめる手を外し、軽く頬にキスをしてからバスルームに案内した。
広すぎるバスルームには、いろんなアメニテイが揃えてあり、そして何やらこのインペリアル・スイートには、もう一つシャワーブースが独立してあるらしい。一体一泊いくらするんだろうと、値段の事を気にする辺りはやはり庶民だなと痛感して、シャワーを浴びた。
椿と光はキスはするが、一線を越えてはいない。男の人のことはよくわからないが、キスで満足は出来ないだろう。実際、さっきも抱き締めている時その思いを感じていたのだが、光は一線……椿を抱こうとしない。
暗に身体を気遣ってくれているのはわかるが、やはりそれは悲しいもので、今日こそは抱かれてもいいと覚悟していた。だが、エレベーターの中で意識を失い、さっきまで眠ってたのを思うと、やはり今日も無理かも知れないと思う。
椿はずっと、初めては楓とするものだと思っていた。それが義務でもあったし、椿自身の望みでもあった。しかし、今やそれは有り得ない。椿は楓ではなく、光の妻となった。後悔はしていない。むしろ、これから先が見えている人生の中で、光は文字通り、光となって椿を照らしてくれている。義務とか身体の事だとか、そんな事は気にしないで欲しい。椿は単純に、自らの全部を光に捧げたいと思っている。理由は光を愛しているから。
それ以外、言葉はない。
暖かいシャワーを浴び終え、鏡に自分の姿を写す。
熱気で赤みの戻った頬は、ようやく体調が戻ったようだ。その事にほっとしつつ、有名ブランドのアメニテイを使ってメイクを落として、さっぱりする。今日のメイクは顔色が悪いのを隠す為に、濃いめに塗ったせいで、終盤辺りからはしっかり皮膚呼吸が出来ているのかと疑いたくなったが、そのお陰で体調の変化にも誰も気付かなかったらしい。椿は自嘲しながらバスルームを後にすると、リビングのソファーでクリスタルの器にある果物を少しずつ減らす努力をしている光を見て、盛大に笑った。
その夜は、光に抱きしめられながら眠った。
パーティーから二週間が過ぎ、椿は一族で付き合いのあった女の子と会う約束をしていた。
彼女の名前は、鎧塚蝶子。
橘分家の御三家のうちの一家の一人娘で、現役高校生の彼女は昔から身体が丈夫ではなく、頻繁に入退院を繰り返していた子だ。
そんな蝶子と椿が仲がよくなったきっかけは、実に蝶子の暴言から始まったのである。
一族主催のパーティで楓と一緒に出席していた椿だったが、その時もまた楓に一人残されてぽつんとひとりでいたところに、まだ小学生だった蝶子がとことこと近づいてきて一言言ったのだ。
「ぶす」
と。
名前こそ知っているものの、面識は無かった椿と蝶子はそこで初めて知り合った。
暴言にショックを受けるより早く、何故か蝶子が泣きそうな顔をしているのに気付いて椿はあわてて彼女をフォローした。
後から教えてもらったのだが、身体が弱かった彼女は、常に弟の影に隠れてしまうような子だった。それを自分で嫌と言うほどわかっていたからこそ、口が悪くなった。人の印象に残るためには、例え本心でなくともそう言う嫌なことを言うことで、そうやって人から忘れられないようにしていたらしい。
人から忘れられなくなった代わりに、人から好かれないようになってしまった幼い彼女と椿が友人関係になったのは、周りからすれば不思議に写ったようだ。
それでも、鎧塚の両親も娘が椿と接することで悪化する一方だった口の悪さが改善するのと、一族でも孤立しがちな娘と誰か一緒に居てくれることを歓迎してくれたのである。
午後から橘の御大に会う約束をしているので長い時間は取れないが、結婚の話をしていなかったのを考えると、やはり五月蝿く小言を言われるだろう。
そんな予想が簡単に付いてしまい、思わず送迎してくれる車の中で苦笑を漏らした。
「椿さん、緑川社長と結婚したって本当なの!?」
開口一番に言われたのはやはり予想通りのものだったので、やはり苦笑しながら椿は頷いた。
日本人離れした蝶子の美しい顔が歪む。それを見て思うことがあったのだけれど、結局椿は口を噤んだ。
「…お父様が言ってた話、本当だったんだ…」
「事後報告になっちゃってごめんね?バタバタしてたからすっかり忘れてて…」
「………私、本当にビックリしたんだから。楓様と婚約破棄した時も驚いたけど、今回の事はそれ以上だわ…」
「急だったからね。婚約破棄も結婚も」
「……ねえ、椿さん…本当にそれでよかったの?楓様じゃなくて、いいの?」
それも聞かれるだろうと予想していた。だからこそ、椿は淀みなく、澄み切った声で蝶子に話しかけた。
「あのね、蝶子ちゃん。私は全く後悔してないよ。そればかりか、これが一番よかった判断だったんだって確信を持って言える。私じゃ、楓様の相手には相応しくない。本当に、ね?」
「椿さん…」
「光さん…緑川社長が私をどう思っているのかはわからないけど、少なくとも私は前みたいに我慢するのは止めたの。だからこそ、ちゃんと問題に向き合っているつもりだし、傷付いてもいいからちゃんと前を向くって決めたわ。」
残された時間が少ない分、前をしっかりと見据えるようになったんだ。
とは流石に言え無かったので、そこは心の中で呟くだけに留めた。
蝶子は何か言いたそうにしていたが、すっきりとした顔で微笑んでいる椿を見て、結局は何も言わずに彼女を祝福しようと決心を決めた。
蝶子とそれからしばらく雑談し、午後は橘の御大に呼ばれていたためにそのまま別れ、椿は橘の本家に来ていた。
相変わらずの門構えと、驚くほど広い敷地面積に立てられた広大な日本家屋。椿は御大が遣わした使用人に案内されながら、広い屋敷を歩いていた。
ちょうどその時、日本庭園に植えられたツバキが見えた。思わずそこで立ち止まってしまい、しばらくそれを見ていた。まだ花が咲く時期ではないが、庭師の腕がいいので、ここのツバキはいつも綺麗な花を付ける。
今年は見ることが出来る。
このツバキの花が赤と白の花を咲かせて、その花が美しい姿のままに落ちる様も。
――だけど――
「来たか、椿」
まだ葉しかない椿をじっと見ていた椿は、後ろから自分を呼ぶ声がした方を振り返った。
そこには和服を着た厳めしい老人が一人佇んでいたが、椿が顔を見せるなり破顔した。物思いを破られた椿は、その笑顔を見ながら礼をする。
「御大、お久しぶりです。パーティーの時はご挨拶もせず申し訳ありません」
「いや、あの状況だったからな、仕方がないとわかっておるよ。さ、ここは冷える。部屋に行くぞ」
「はい」
御大は年の割にしっかりとした足取りで自室へと椿を連れて行くと、使用人にお茶と茶菓子を用意させてあったのが、外の寒々しい空気とは一転して暖かな部屋の雰囲気に幾分力を抜いて、有り難くお茶に手を付ける。
その様子を満足そうに見ていた御大も茶を一口飲んで、ふぅと一息ついた。
「まずは結婚おめでとうと言うべきだな。おめでとう、椿」
「ありがとうございます。夫も、御大にご挨拶も出来ずに申し訳ないと言っていました」
「夫…か。また、楓と婚約破棄してすぐだったな。どこで知り合ったんだ?」
これを聞くのは野暮か?と笑いながらも興味津々で聞き出そうとしている御大に苦笑しながら、光と会った事や、結婚に至る経緯を短く話した。あまりいい顔をしないだろうなと思ったのだが、御大は終始笑顔だった。それが本心からの笑顔である事はわかっているので、ありがたく好意を頂戴していた。
「そうか。それは良かった。して…椿、何の病気に罹った。何を患ってる」
「…知って…らしたんですか…」
「じじいの目を侮るなよ。隠そうとしている物ほど、このじじいの目に触れる。して、椿、どうなんだ?」
いたずらっぽい目線で片目を瞑った御大に苦笑しながら、誤魔化す事は出来ないだろうと思った椿は自分の身体の事をポツポツと話し出した。
「婚約破棄をした、ちょうどその頃に具合がよくなかったものですから病院へ行ったんです。単なる体調不良か、過労だろうなと思って。だけど精密検査をしてみたら、悪性腫瘍があって進行が早すぎて最早外科手術が出来ないと…もう治る見込みもないそうです。余命も宣告されています」
「……治療は受けないのか…?」
「意味は無いとわかっていますから」
「そうか…。それで、余命は?」
「宣告を受けた時点で、保って一年だと。ただ私は投薬治療を拒んだので、多分もっと早いと思います。多分、今年いっぱいが限界らしいです」
椿が静かにそう言うと、そうかと呟いてそれきり黙ってしまった御大から目を逸らし、部屋から見える庭木を眺めていた。まだ蕾の花たちは、春になれば一斉に綻び始め、庭は甘い匂いに包まれる。
それを見るのは今年で最後。来年、ここには椿はいない。
どこにもいない。
「楓と婚約破棄をしたのはそれが原因か?」
「…それもありますが、私はもう疲れたんです。あの人は最初から私を疎んじてらっしゃったのに、それを認めようとせず、ただ楓様を想い慕うのは独りよがりでしかないと気付きました。いろいろとほの暗い感情にも、悲しい想いももうしたくなかった。疲れたんです。今更どうのこうの言うべき事ではないんです、初めからわかっていた事なんですから。それに一年も経たずに死ぬ人間を、鳥谷部家の嫁に迎えたいと思う奇特な人でもないでしょう」
「緑川光はどうなのだ?あれは奇特な人間か?」
どことなく面白がっているような御大に苦笑しつつ、椿はその目に浮かぶ深い憂いの色にも気付いていた。
だから椿も微笑み返した。
「光さんは看取ってくれると。最期になれば貴方が辛くなると言った私に、それでも最期まで一緒に居てくれると言ってくれました。楓様はそんな殊勝な事は言わないでしょう?」
「くくくっ、言わんだろうな。あいつは朴念仁だから」
「でしょう?」
くすくすと笑い、そして、椿は御大に一つお願いをした。
御大は初めは驚いて流石に拒んでいたが、これが最初で最後の椿のワガママだとわかるとしょうがなしに折れてくれた。それと椿の先が長くない事は、椿の兄にも、誰にも言わないとも約束してくれた。
ただ、孫の嵐が既に知っていて、祖父であるワシが知らないのは愉快ではないがなと苦笑混じりで叱られたけれども。
いろいろな事に感謝していると、何やら廊下の方が騒がしくなった。そしていきなり部屋の襖がパァンと開け放たれた先には、能面の様に無表情な楓がそこに立っていた。