第8話 真紅・・・楓
永遠に続くと思われた食事もようやく終わり、各自解散となった。
各々待たせていた車に乗り込んで帰路に着いたり、そのままホテルへと泊まる者もいたのだが、その中には椿と緑川光もいた。なんと最上級のインペリアル・スイートらしい。一泊百万を余裕で超える部屋は、楓ですら使った事はない。
内心、これでもかと毒づいていた楓だが、表情は全く変えずにいた。
とその時、隣にいた小百合がツカツカと椿の方へと足早に歩いて行った。帰り際で、大分人が少なくなったとは言え、衆目がある中でわざわざ椿に何を言うのかと思えば、結婚報告が無いだの、親友だと思っていたのに水くさいだの。小百合がしてきた事を全部棚に上げて、椿を責めていた。
その非難の矛先は、椿の夫である緑川光にも向かった。若い女を引っかけて恥ずかしいと思わないのか、椿の清純そうな外面に騙された気の毒な寡婦のくせに。と、聞くに耐えられないような罵詈雑言。
小百合がその一言を言った瞬間、緑川光の纏う雰囲気が一変したのを感じた。
エレベーター待ちの客や、ロビーにたむろしていたパーティ客などは、とうに静まりかえり、事の成り行きを見守っていた。
しかし、緑川光の和やかな雰囲気から厳しい顔になったのを見て取ったゲストの「これは…やばいぞ」と囁く声がやけに大きくホールに響いた。
空気が変わったのがわかったのか、小百合も先程までの勢いを失った。それでもなお、強気の姿勢を崩さない小百合を同情する者も、助け舟を出そうとする者も誰もいなかった。
むしろ、その反対…小バカにしたような目やら嘲笑じみた顔のゲストばかりが楓の目に付いた。
「君は椿の何だ?」
「聞いていなかったんですか?椿の親友なんですけど!」
冷たく問いかけた緑川光に対して少し怯んだものの、噛みつくように小百合は答えた。しかし、緑川光の雰囲気は変わることはなく、「あぁそう」と短く言っただけだった。
それだけ言うと最早小百合に興味はないとばかりに、椿の腕を取って下に来たばかりのエレベーターへと向かった。
「ちょっと!待ちなさいよ!!」
ロビーに響き渡るだけの大声を出してエレベーターに乗り込もうとした二人を止めようとした小百合だったが、椿がそれを阻んだ。
近くにいた従業員を呼んだのだ。
「この人と私は親友なんかじゃありませんから、他の方に迷惑になるようでしたら追い出した方がいいんじゃありません?折角のホテルの品位に傷が付くのは忍びないですもの」
にっこりと魅惑的な笑みを椿から向けられた従業員は、少し顔を赤らめながら小百合をエレベーター近くから排除していた。それを見る事すらしなかった椿はと言うと、夫に腕を絡ませてその肩口に顔を埋めて甘えているようで、緑川光がその細い腰を抱き寄せてエレベータに乗り込んで行った。
彼等から見えない場所に立っていた楓は、今起きた光景を呆然として見ていた。
椿が小百合を切った。
その衝撃な事実に驚いていた。椿と小百合はずっと仲が良かった。
いくら小百合が男と遊ぼうが、異性関係でトラブルがあろうが決して見放す事が無かった椿が。
それなのに、椿自らがそれを否定した。
これは一体どういうことなのだろうかと思った。
椿は楓のみならず、親友だと思っていた小百合ですら自分と縁を切ったのだ。
これはもう、彼女に自分と小百合との関係が知られていたのだという事に他ならないのではないか…。
流石に一族の女と遊ぶ時や、他の女と関係を持っていた時は椿に知られていないという事はないと自負していた。それが自分の口から出て居ないだけで、女からはばれていたとしても、結局は椿は楓を信じてきた。
にも関わらず、小百合との関係は誰からの口からも漏れていないはず。
では、いつ気付いたのか…。
だからこその婚約破棄なのか?
ようやく楓はその事に思い至った。
怒鳴りながら従業員にロビーから追い出されようとしている小百合を、くすくすと笑う一団がいるのに気付いたので、そちらを見ると椿の兄の元婚約者が友人らと一緒になって笑っていた。
その中には以前楓が関係を持った女もいたが、お互い暗黙の了解で口には出さない。しかし諦めきれないのか、執拗にヨリを戻したいと言う女でもあった。椿と婚約破棄をしてから、更にしつこくなったが全部無視していた。その女が小百合の方を見ながら、ニヤニヤと二、三人で会話しているのは楓にも聞こえていたが、関わるのも面倒なので黙っておいた。
「厚かましいわね、椿の親友だったんでしょ、あの子。それなのに、椿に隠れて楓さんと寝てたらしいわよ」
「えー!本当?じゃあなに?椿を騙してたって事ー?最悪ぅ」
「それに、楓様が本気で相手にしてるとでも思ってたのかしら。だとしたら、とんだ勘違い女よね」
「これって痛女っていうやつ?」
きゃはははと笑っている女達の口は閉まる事がないらしい。そろそろ迎えの車が来たらしく、一緒になって外へ向かっていく。
「その椿にも拒否られたじゃない。いい気味よ」
「ま、最後にいい夢見れたんじゃない?楓様の隣に立てたんだから」
「最初で最後のパートナーだけどね」
「だけど、椿も玉の輿に乗ったわよねー」
「本当。楓様には劣るし、年もかなり上だけど資産的には緑川社長の方が上でしょ?あれって完璧、財産狙いなんじゃないのぉ?」
「あのデブ痩せたしねー。案外あの身体で落としたんじゃない?」
「そう言えば萌花、椿の兄と婚約してたのに、いいの?」
「知らないわよ、あんなの。元々興味もなかったし」
「うわ、ひど!!でもさっき、ひっっっさしぶりに見たけど、なかなかイケてたわよ?」
「ふーん、あっそ」
「出たー!萌花、興味無し!!」
そう言って笑いながら、女達は帰って行った。
不憫と言えば不憫だ。
敷島兄妹の兄、樹は楓よりも年上で、五年間の中東勤務からようやく帰って来たばかりで椿の婚約破棄を聞き、そして自身も婚約を破棄された。
そんな彼の婚約者もまた、彼女に省みられることもなくほとんど一方的に別れたらしい。
能力や人柄が誰よりも優秀なため、敷島樹は一族からの評価が高い。にも関わらず、下位と言うだけで見下す輩もいるのも事実。
実際、萌花…婚約者だった柏木萌花もその一人だった。
とは言え、小百合も小百合で結構酷い事を言われていたのだが。
ギラギラと憎しみの籠もった目で、出て行った女達を睨みつけていたが、楓が見ているのがわかると表情を一変させた。一気に泣きそうな顔になって、マスカラとつけまつげでバチバチの目をしばたかせ、涙を流すまいとしている。そんな顔で寄ってきた小百合は、楓の腕に絡み付くなり椿の文句を言い出した。
「椿ったら酷いと思わないですか!?何が関係ないよ!!私だけ親友だと思ってたんなら酷すぎる!」
「…お前の自業自得だと思わないのか?」
「なんであたしが!?あの緑川光が椿の旦那なのよ、心配するのは当たり前でしょ!?」
小百合は椿の事を心配しているのではなく、単に椿の境遇が羨ましいだけだろう。
派手好きで金遣いも荒く、また完全なるすねかじりの小百合には、例え年上だと言えど緑川というブランドの奥方の座は喉から手が出るほど欲しいはず。それが手の届かないものだと思っていたものが、椿と言う身近な人間が手に入れたものだから尚更現実味を帯びたのだろう。
とは言え、小百合の父親が経営している建設会社はほどんど緑川の系列のような形で成り立っている。そんな立場の娘が、例え政略結婚の駒として小百合が嫁ぐには、あまりにも役者不足であることは否めない。
そんな会社間の事情も何もかもがわかっていないお嬢様の小百合は、先程の女達が言っていた通り確かに痛女なのかもしれない。
よく喋る口で、椿と緑川光の事を言う小百合にうんざりして、さっさと会場を後にしようと思ったら、まだ会場に残っていた御大に引き止められた。
さすがに御大には、小百合を会わせるわけにはいかない。そう思った楓は、さっさとタクシーに乗せようと思ったのだが、小百合がそれを頑なに拒んだ。きっと家督を譲ったとは言え、橘の御大に会って認めてもらえば晴れて楓の側にいる事ができる。
そう考えたのだろう。
生憎その考えには賛同できないし、そもそも連れてきたのが間違いだと思っているのだ。紹介も何もないだろう。しかし、一向に帰る素振りを見せない小百合を、結局は紹介しなければいけない羽目になった。御大自身も楓の考えを読んでいたようで、慇懃に挨拶を返したものの、楓と話すので帰りなさいと諭されて、渋々ながらもようやく岐路へ着いてくれた。
さて、その御大と言えば、ニヤニヤと人が悪そうな笑みを浮かべながら楓を見ていて、その笑顔が油断ならないと身をもって知っている楓は一歩下がった。
「可哀想にのー。とうとう椿に見捨てられたか。ま、ザマぁないがの」
「御大、口が随分悪化したようで。悲しいですね、遂に御大の皮肉が聞けなくなると思えば、あれだけ嫌だった叱責も今では懐かしいように感じるから不思議ですよ」
「けっ!いけすかん口をききおって!!まぁ、そんなだから椿に捨てられるんだ。どうだ、自由の身になった感想は」
「大変満足していますよ。もっと早くに決断していただいていたら、もっと自由に有意義に人生を謳歌していたはずなんですが、どこぞのじじいが婚約破棄を許してくれなくて。全く、今はあのじじいはどうしていることやら…」
「はて。そんなじじいはおったかの?ワシも年だな、楓。全くそんなじじいに思い当たる事がないぞ」
なおも「はてー?」と言いながら首を傾げている好々爺…もとい、橘の御大は、こうして楓と会話を楽しむ。傍から見ると、いがみ合っているかのようだが、長年こんな感じでずっと過ごしているのだ。今更行儀良くお愛想で会話なんか出来るわけがない。それを知っているからこそ、現当主の嵐も何も言わずにのほほんと二人の会話を聞いている。嵐の妻も初めこそ驚いていたものの、今では夫である嵐と二人でお茶を飲みながらのほほんと会話を聞き流している。
呼び止めたからには何か言いたい事があるのだろう。
さっさと言ってくれればいいものの、なかなか本題に入ろうとしない御大に次第にイライラしてきた楓は、先ほどインペリアルスイート専用のエレベーターに乗り込んで行った椿と緑川光の事を思い出した。
椿は一度も楓に挨拶どころか、目線すらよこさなかった。
今までこんな事は無かったのに。
ウザイと思うほど、まさに穴が開くのではないかと錯覚するほど、楓はいつもいつも椿からの視線を感じていた。その瀬線に応えてやった事は無い。
しかし、今日に限ってそれが無い。おまけに挨拶もだ。いくら婚約破棄したとは言え、楓は鳥谷部家の跡取りだ。敷島の家より格上なのに、その格下の敷島の娘から挨拶がないとはどういうことだ。
おまけに。
さも当然の様に隣に並んだ緑川光。腕を絡ませ、視線を交わし。見ているこっちが当てられる程の熱々っぷり。小百合の言葉を借りるわけではないが、若い女に舞い上がっているとしか思えない。狂気の沙汰だ。なんてことはない。緑川光も所詮は男だったということだ。いくら死んだ妻が忘れられないと言ってみたものの、結局は若い椿を後妻に選んだ。あの赤いドレスを着た椿を。
くそ、あのドレスが忌々しい。
椿の身体になんか全く興味が無かった。どんな身体をしているかすら考えた事が無い。だから、胸があろうがなかろうが、楓には椿は性的対象ではなかった。
それなのに、あの赤いドレス。
白い肌を存分に映えさせた赤のドレスは、痩せて華奢になった肩が丸見えな上に、細い腕も露わだった。痩せたのだから胸も無いだろうと思ったのに、見事に裏切られた。遠目で見た分には、十分ある。それに、胸元で光るダイヤモンド。まさに男の夢がそこにあった。それを今夜、このホテルのインペリアル・スイートのキングサイズのベッドで椿が緑川光に抱かれているのを考えるだけで、楓は猛烈な怒りを感じていた。
その怒りを感じ取ったのか、のらりくらりと話していた御大がようやく本題に入ってくれたので、楓はそれ以上考える事を止めた。考えるなと自分に命令していた。
「椿が気になるのか?」
「ご冗談を。ようやく婚約破棄を決意してくれて、俺を自由にしてくれたんです。もっと早くに…と言いたいところですが、結婚祝いに止めておきますよ」
「結婚な。まぁ、椿には緑川光のような男が合っていたのかもしれんな。互いに信頼あっているようだし、あれでようやく椿も愛されるという事を知るだろう」
「愛ですか?あの二人に愛なんてあるんですか?そうは思えませんが」
半ば信じられなくて鼻で笑った楓を、御大はピシャリと厳しい眼で諌めた。
「少なくとも、緑川はお前より椿を愛しているだろうさ。楓」
ではな。と言って、去って行く御大を見送りながら、楓は御大が言い残していった言葉の意味を考えていた。
愛なんてものは錯覚にしか過ぎない。そんなものは最初からありはしない。だから椿を愛していないし、興味もない。椿は自分の事を好きだったのかもしれないが、所詮それは愛ではない。
それなのに、緑川光が椿の事を愛している?
それに椿も緑川光の事を愛している?
意味がわからない。あんなに好きだ好きだと言っておいて、結局椿は他の男の元へと去って行った。心変わりなんていくらでも見て来たし、感情が伴わない関係だって経験して来た。それを今度は椿が楓に対してやったわけだ。
わざわざ婚約破棄までして。
なんだか自分がバカにされている様に思えて、楓は例の部屋に通じるエレベーターを一睨みして、既にパーティ客がいなくなって閑散としているホテルのロビーを後にした。