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第6話 兄・・・椿

橘本家のパーティが行われる事は前々からわかっていたが、正直なところ行きたくなかった。

婚約破棄をしてから初めて楓と会う事に気後れしているからではなく、ただ単純に具合が良くなかったからだ。随分だるく感じるようになった身体は徐々に食欲を奪い、更に椿は痩せた。


心配そうに声をかけてくれる緑川を今では「光さん」と呼び、椿は自分の住んでいた実家から彼の住んでいる広いマンションへと住まいを移した。

椿が大学へ入学するのを見届けるように、たった一人の肉親である兄が中東へ赴任になった。その為、椿は一人では広すぎる一軒家に一人暮らしのような形になったのだが、兄に心配させないように大丈夫と言っていたが、やはり寂しいというのも本音だった。

流石に遠く離れた兄に泣きつくわけにも行かず、たまに小百合や懇意にしている一族の女の子を泊めたりしていたが、それも頻繁ではない。広い家に一人は寂しすぎると散々実感した後で、光と二人で暮らすという事は椿に安心感をもたらした。


結婚したと言う事を兄に言っていないし、勝手に家を出た事も言っていない。五年間という長い赴任生活もようやく終わり、彼も実家に帰ってくるはず。その時に誰もいない、ガランとした家はさぞかし寂しいだろう。ずっと自分が感じていたことだからわかる。

今度のパーティで婚約破棄後初めて兄と顔を合わせる事を思えば、お説教をされるかもしれない。それでも兄は自分の選択を認めてくれるだろう。


あの兄ならば。



広いマンションに越してきてすぐに看護体制を整えてくれた光に感謝し、大分体調が戻った頃にパーティの事を話した。

意外に光はその事を知っていて、パートナーとして一緒に行くと言ってくれた。その時に自分達が結婚したと世間に知らせればいいと笑った。



あのキスの次の日、二人は婚姻届にサインをして役所に提出した。今や椿は敷島椿ではなく、緑川椿だ。

椿が変わった名字を指でなぞりながら、緑と椿で本当に椿の花みたいだと笑いながら言うと、光は、緑と光で光合成をしているような物だから、椿の花はきっと美しく咲くよと、よくわからない事を言って椿を笑わせてくれた。


着ていく服をどうしようかと考えていると、有名ブランドの担当者が家までやって来て、ドレスを何着か持っていたのに驚いた。何も聞いていなかった椿は、仕事中だとわかっていながらも光に電話をかけた。彼は全部買ってもいいよと言ってくれたのだが、無駄遣いはしたくないと一着だけ選んだ。帰宅した光に礼を言って、試着して彼に見せると満足げだったので、椿はほっとした。

光に迷惑はかけたくない。少しの時間だけしか隣に立つことは出来ないけれど、その時周囲の記憶がみすぼらしいなんて椿のありったけの矜持が許さなかった。


幸いにも社交の場には慣れている。

と言っても、あくまでも礼儀作法だけでウィットに富んだ会話などは出来ない。椿はどちらかと言うと聞き役に徹している事が多かったが、それで特に問題は無かったし、面白い話が聞ける事に満足していた。

まあ、初めから椿にウィットの聞いた会話なぞ求められなかったし、

そもそも楓と話をしたかった者は楓の方へと自ら赴く。そんな時、椿は老人達の聞き役に回った。

一緒に来ているはずの楓は始めの三十分も一緒にいればいい方だった。その時に挨拶程度の会話はしたが、その時ですら一度も椿の方を見ていなかった。


一族が集まるパーティの場には当然、椿と楓が婚約破棄をした事を知っている者ばかりだ。昔は放って置かれた椿を随分と可哀相な目で見ていた者もいれば、あからさまにバカにしている者もいた。

大概後者は女だった。それも楓に気がある美しく自信がある女達。中には今夜の楓のパートナーだと言う女から面と向かって貶された。その時は傷ついたけれど、今回、いや、これからそんな事に耐える事が無いと思うと、随分と気が楽に感じた。楓が連れて来る女に憐憫の思いを抱きつつも、さっさとパーティーが終わればいいのにと、ぼーっと考えて、また光に心配をかけた。



パーティー当日、二人で向かおうとした矢先に生憎光が急な仕事で出てしまい、仕方無く椿は一人で会場に向かう事になった。

身に付けているのは光から買って貰った赤いドレス。

とりわけ椿が目を奪われた鮮やかな赤のドレスは、露出が多目のオフショルダーでありながらエレガントなデザインで、シルクの絶妙な肌触りが椿の心を掴んだ。普段であれば露出が激しすぎて敬遠しそうなドレスだったのだが、死ぬ前にこういうのも良いかもしれないと、天啓のようなものを受けたのだ。

幸い、随分大胆な奥様だなと苦笑しながらも喜んでくれた光には好評だったし、その光から「私の美しい妻に貢物だ」と、ダイヤのネックレスとイヤリングも贈られた。断ろうとしたら、逆にやんわりと断られた。「君の(しもべ)からの貢物なんだから黙って受け取りなさい」と言われ、椿は高飛車に笑って、ご褒美よと優しくキスをした。



少し遅れてしまったが、光が手配してくれた車で会場に着くと、受付の所で呼びとめられた。どうやら招待客ではないと思われたらしい。そんなに変わったかしら?と思いながらも、なんだか楽しくなっていた椿は、敷島椿ですと言った瞬間に目を点にしてマジマジと椿の事を上から下まで観察した受付に、少し不機嫌そうな顔を作って早くしてと対応を頼んだ。

慌てた受付が、申し訳ありませんと謝って来たのに快く応じ、着ていた柔らかいコートをクロークに預け、颯爽とその場を立ち去る時に聞こえた驚愕の声に内心爆笑していた。


沢山の人目を感じるが、不快ではない。自信を持つことは、自分が死ぬ前にしたかった事の一つだ。

と言っても、長年一緒にいた内気な自分も顔を出す。それでも、毅然と前を見据えて前へ前へと歩みを進めた。

人で溢れている会場に一歩入ろうと思った時、丁度給仕が飲み物を零す場面に遭遇した。あぁ…と椿が息を止めたのより早く、青いワンピースを着た女性が零れた飲み物に自分から突っ込んで行くのが見えた。


え?と思った瞬間、聞き覚えのある声が一際高い尖った声を上げた。聞けば給仕の不手際のせいで自分の服が汚れたと思っているらしい。椿は呆れてそのまま聞いていたのだが、責任者を出せだの、弁償だのを言い出す彼女に腹が立ってきた。給仕は既に泣きだしていて、それ以上はどうしても椿に我慢が出来なかった。そもそも、給仕は責められるべきではないのだ。



「もう止めなさいよ。この人泣いてるじゃないの」



いつしか周囲には人がきが出来ていて、輪の中心には椿の元親友の小百合と、責められ続けている給仕がいた。椿は人を掻き分けてその輪の中心に行くと、真っ直ぐに小百合を見据えた。最初は椿が誰かわからなかったらしいが、ようやく椿だとわかったのだろう。久しぶりに会った親友よろしく抱き付いてこようとしたが、嫌悪が勝った。

服が濡れるからやめろと言ってやると、羞恥と怒りから顔を真っ赤にさせた小百合は、直も自分のせいではないと給仕を口汚く罵ったのだが、グズと言ったその言葉に腹が立った。あまりに腹が立ったので、ついキツ目の言葉で真実を付きつけてやった。それに、汚れたところで新しい服を買ってくれる人がいるだろうと笑ってやると、椿は小百合に背を向けて詰られ泣き出してしまった若い給仕に自分のハンカチを渡してあげ、その背中を優しく撫でて慰めた。


楓がいたのには気付いていた。

だけど、驚くほど何も感じなかった。

あぁ、今日のパートナーは小百合か…ぐらいにしか思わなかったのだ。その小百合を選んだ理由もたかが知れる。椿を傷つけようとしたのであろう、それは敢え無く失敗に終わった。傷つくどころか何も感じないのだ。楓が椿を見て驚いた表情を浮かべたのを見て、あぁようやく自分を真っ直ぐ見てるな…ただそれだけは思った。



その場に居合わせた人達は、いつしか一致して小百合の方が悪者だと認定したらしい。楓のパートナーとは言え、このような醜態を犯したのだ。当分一族の集まりには顔を出すことが出来ないだろう。

僅かばかりの仕返しだと思っていると、後ろから光が名前を呼ぶのに気付き思わず破顔した。給仕の子から離れる際、もしもここで働けなくなったら一緒になって働き口を探してあげるからという事を言い、心配しないでと請け負って、給仕の子はようやく笑顔が戻った。


それを見て破顔した椿は、真っ直ぐに光の方へ歩いて行く。


周りの視線が注がれているけれど、光の腕に手を組ませ、他愛の無い会話をしてそこを離れた。



「小百合の顔が真っ青でしたけど、何か言ったんですか?」

「ん?うちの奥様を怒らせると怖いよって。外れてないだろう?」

「もうっ!あ、光さん、正装、似合ってます。素敵ですよ」



光の腕を軽く叩き、顔を赤らめながらそう言った椿にありがとうと微笑んだ光は、主催者である橘家当主に二人揃って挨拶をするため、嵐夫婦がいる場所へと移動した。

嵐は笑っていたが、妻の方は何も知らされていなかったらしい。あまりの突然の報告に、何度も本当?を繰り返していた彼女を納得させたのは、やはり夫である嵐だった。


久しぶりに見た兄にも結婚の報告をした。

事後報告になってしまった事を侘びた光は素直に頭を下げた。それに慌てたのは何故か周りの人間で、まさか椿の兄が緑川の社長に頭を下げられると思っていなかったらしい。そのありえない光景とはまた別に、兄は終始無言を貫いた。


何か言いたい事があるんだろうなと察した椿は、兄と二人で話したい事があると断り、兄と二人で広い庭に出た。

誰もいない庭は静かで、さわさわと木々が風に揺れている音と、吹き出す噴水の音がしていた。兄に向き直って、口火を切ろうとしたのだが先を越された。



「本当にあの人でいいのか?」

「そうだよ。何か気に入らない事があるの?」

「気に入らないわけじゃない。むしろ、緑川社長で良いと思う。でも、お前、何を急いでる」

「……兄さん」

「楓さんは確かにお前を見てなかった。それは俺も知ってる。だが、お前は本当にそれを吹っ切ったって言えるのか?あんなに好きだったんだろ?その感情を抱えたままで、あの人に縋りつくのはどうかと思う」

「兄さん」

「あんなに辛い思いをしてまで想い続けた十八年はその程度だったのか?楓さんの変わりを、あの人に求めただけじゃないのか?」



いつも、静かに兄は怒る。


兄は声を荒げずに、淡々と説くように自分を叱る。昔はそれが怖くてしょうがなかったけれど、兄が自分の事を誰よりも心配し、気にかけてくれているからこそ、こうして叱ってくれるのだとわかっている。

そんな兄を見ながら、あぁ自分は確かに兄からも愛されているんだなと今更ながらに実感した。

そう思うと自然に頬が緩む。



笑った椿を訝しげに見た兄はその瞬間、椿の中の長かった恋が本当に終わっているという事を悟った。



妹は悲しく報われない恋をずっとしていた。そんな妹を両親が健在だった頃からとても心配していたのは事実。両親が亡くなってからは、彼等の分まで椿を護らなくてはならなくなった。周囲の悪意から。そして、何よりも椿の婚約者の冷たい仕打ちから。


陰で泣いていたのも知ってる。

あの一族の中でも好意を抱かれやすく、また御三家の人間でもある鳥谷部家の婚約者に相応しくないとずっと言われ続けていた妹は、涙を両親や自分の前では絶対に見せなかった。


その婚約者である楓すら、椿に対して冷酷だった。

単なる名前だけの婚約者だと言わんばかりの態度で見向きもせず、ずっと軽んじられていた。彼からも、周囲の人間からも。


たまに隣の部屋から聞こえた泣き声が堪らなく不憫に思えた。堪らず部屋に入って慰めたときもあったが、妹は気丈にも笑って見せた。それがなおさら痛々しい笑顔に見えていたのを、本人は知らないだろう。


自分の力の無さに、どれだけやるせない気持ちと苛立ちを抱いたことか。


両親の墓前で絶対に護ると約束したはずなのに、それが本当に出来たのかは椿の涙が照明している。



ずっと本人が拒んできた婚約破棄を決断した時は内心ほっとしていた。

しかしながら、そんな椿を案じていた。何か原因があったのではないかと追求しても、何も答えなかった妹は、その時も気丈な声だった。

赴任先から聞いたその声は、自分が聞いて泣いているようにしか思えなかった。


結局は一人で泣かせただけだ。



そんな椿が本心から微笑んでいるのを見て、心の底から安堵した。


椿はきっと幸せになる。

今まで不遇で、愛されたいと願った者から見向きもされなった。その傷付き、血を流している心を優しく癒してくれたのは、間違いなく彼だ。今見せている笑顔は悲しいものではない。すっきりとしたものだ。いきなり結婚したと言われたものの、あの人は何故か椿を幸せにしてくれるだろう、と妙に確信めいた勘が働いた。椿をこんな風に笑わせてくれるようになったのは、間違いない。緑川光、椿の夫だ。



思わず浮かんだ涙を必死に堪えて、それでも譲れないことを言っておこうとぶっきら棒に言う。



「俺はあの人を『義弟(おもうと)』だなんて呼ばないからな。大体、お袋と同じ年の生まれじゃないか」

「そうだっけ?」

「そうだよ。うわ…これから何て呼べば良いんだろうな…て言うか、俺が義兄ってありえないだろう」

「そう?でもね、なんか似てるの。兄さんと光さんって」

「はあ!?どう見ても似てないだろ。だいたい俺と緑川社長って接点なさすぎだ」



ぶつぶつと唸っている兄を見て吹き出した椿は、中に入ろうと兄の腕を取った。


そしてありがとうと囁いた。


小さい声だったのだが聞こえたのか、兄は優しく笑った。



「幸せになれよ。椿」

「ありがとう、兄さん」

「それと…お前の服とダイヤ、えらい派手だな。まあ似合ってるけど、高いんだろ、それ…?何て言うか…あっちのシークの第一夫人みたいな感じだぞ」

「あははは!兄さん、その話もっと聞きたい!」



こそっと値段を聞いてくる兄に思わず吹き出した椿を室内で温かく見ていた光は、戻ってきた椿が自分の元へと戻ってくる際、兄にわざと『お義兄さん』と呼んで大いに兄を恐縮させたのを見て、椿はまた笑った。

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