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第4話 彼の過去・・・椿

先に椿を。

指輪は大きいルビーが台座に乗っていた。高価そうなそれに驚いて、思わず突き返そうと思ったが、緑川がそれをわかっていたかの様に笑い、そして椿の左手の薬指に嵌めた。

いつサイズを測ったのだろうと訝しんだが、そう言えば緑川は当初宝石商の会社を興した事を思い出した。鑑定士の資格も持っている緑川が選んだルビーは、ピジョンブラッドと呼ばれる最高級品。椿には想像が付かないが、きっと桁が違うはずなのはわかった。恐る恐るその石に触れると、ひんやりとした感触が気持ち良かった。



「椿には赤が似合う」

「椿だからですか?」



くすくす笑いながら緑川を見ると、彼もまた目尻に皺を寄せながら一口ワインを飲んでいた。その時、彼の左手にも指輪が光っているのが見え、それが石の付いていない、椿と同じデザインの指輪なのに気付き、目を丸くした。まさか緑川も指輪をするとは思わなかったのだ。そう言うタイプにも見えないしと少し言いづらそうに椿が話すと、指に嵌めた指輪をくるくると回しながら、昔の事を静かに話し出した。





緑川には妻がいた。その妻はもういないけれど、彼女は緑川の不誠実な態度に腹を立て、家に帰ればいつも喧嘩ばかりしていたが、その日は更に過熱気味だった。

駄々をこね泣き止まない息子をようやく寝かしつけた時に、一本の電話がかかってきた。その電話の相手は、当時緑川と関係を持っていた秘書の女からだった。自分の方が相応しいからさっさと離婚しろ、彼は女としてあんたを見ていない、私の前ではあの女としか呼ばない。そう言った事を電話口で聞いた彼女は、帰宅した緑川に散々まくし立てて泣きわめいた。



「その時にね、私は思わず言ってしまったんだよ『愛して結婚したわけじゃない』ってね」



その瞬間、彼女の目から涙が零れた。それを見た瞬間、しまったと思ったが緑川も言ってしまった手前引くに引けず、バツが悪いまま自室に戻るとドアを荒々しく閉めた。


だから気が付かなかった。彼女の目が絶望しか映してなかった事に。



長い夜が明けてリビングに行くと、いつもは起きて朝食の準備をしているはずの妻がいなかった。

息子の部屋にでもいるのだろうと思い、気が鎮まるまでは放っておこうとした時、息子が泣きながらリビングに入ってきたのに驚いた。

ママ、ママと泣きながら彼女を探す息子を何とか宥めながら、とりあえず家の中を捜したがどこにもいなかった。



「四方八方捜した。だけど恥ずかしい話、彼女が好んで行っていた場所や、買い物をしている店、息子と遊びに行っている公園すら私にはわからなかった。その内、仕事に行かなければならない時間になってね…」

「行ったんですか?」

「あぁ、子供を幼稚園へ連れて行ってからね。その幼稚園だって、私が息子を連れてきたのが初めてだったものだから、最初はどこの誰だか不審がられたよ。息子がようやくパパと呼んで、事なきを得たがね」

「それは大変でしたね」



くすくすと笑いながら緑川の話を聞いていた椿は、いつの間にかグラスのワインを飲み過ぎていたのに気付き、そろそろ出ませんかと緑川に伺いを立てた。

夜も遅くなっていたのも手伝って、緑川の車で送ってもらう事にした椿は、広くて快適な車に驚いたが、二人並んでも余裕がある座席に感謝した。少し酔いすぎたと自覚していたので、体がふらついていたのだ。そんな椿に配慮してか、ゆっくりと走り出した車の中で、緑川は思い出話を続けた。



「会社に言ってから、当時愛人だった秘書から聞いたんだ。昨日妻に電話をしたとね」




「離婚する気はないの?奥さんと」



そう言われたが、離婚する気がないのは緑川の方だった。

便宜上の妻とは言え、彼女はよくやってくれている。パーティーなどに出るパートナーとして、息子の母親として。そこに妻として、女としての彼女は存在しなかった。そこに気が付いてはいたが、元々愛には否定的だった緑川が、今更彼女の事を愛する必要も無かった。


かしましく離婚離婚と騒ぐ秘書が鬱陶しく、自分付きの秘書を外れるか、それともクビになりたいか選ばせた。勿論、関係の清算も済ませた。所詮は金目当てのあの秘書も相当額の小切手を与えると、しっかりと自分の懐に入れた後、スキップでもしそうな程上機嫌で自分付きの秘書から外れた。


新しい秘書も選任し、それから仕事に没頭した。いつしか夜もとっぷりと暮れていた。朝に居なかった妻ももう帰宅して、息子と共にいるだろうと思っていると、室長が幾分慌てた顔で、息子が怪我をしたと連絡があったと報告して来た。妻がいるだろうと言ったが、未だに彼女の姿は無いらしい。まだ腹を立てているのかと呆れつつも、しきりに病院へ行ってくださいと言う室長の言葉に渋々従った緑川は、自宅からそう離れていない病院へ息子を迎えに行った。


待合室には今朝見かけた先生が付き添っていて、息子が怪我をした詳しい状況を聞くと、いつもは同じ時間に迎えに来る妻が来ない事に泣き出した息子は、次第に手を付けられないほど暴れ出し、最後には机に頭をぶつけたらしい。よく見るとコブになっていたが、念の為を思って連れてきたらしい。

泣き疲れたのか寝てしまった息子に頭を抱え、先生に迷惑をかけた事を謝り、息子を抱き上げて帰ろうとした時、救急車のけたたましいサイレンが静寂を破った。ちょうどストレッチャーに乗せられた患者が救急車から降ろされる所を、邪魔にならないように通り過ぎようとした時、その患者の顔が見えた。



「奥さんだったんですね…」



椿が囁くようにして聞いた言葉は、無言の内に肯定された。緑川は、車外の光景を見ている。特に変わり映えのしない、毎日の出来事。人の営み。




その変わり映えのしない日常が変わってしまったのは、緑川のせいだった。

あの口論の後、傷心のまま出て行った緑川の妻は、繁華街をふらふらとさ迷い歩いた。色んな人に因縁を付けられたり、ビル陰に引っ張りこまれそうになったが、運良くそれらをかわすことが出来た。いつしか夜が明けたが、家に戻りたくなくて、近所の公園のベンチにかけてしばらくそのままぼーっとしていた。流れる涙をそのままにしていると、目の前に誰か立っている事に気付いた。



それが夫の愛人だという事は直ぐにわかった。


そして、それがいつも付き従っている、夫の秘書だと言う事も。



魅力的な体に、真っ赤な口紅を塗った彼女は、いかにも楽しげに小切手を見せた。



「社長って本当に金払いがいいわね。奥さんはいくらだったの?」




その時、彼女は悟った。


彼が自分を愛する事はこの先もないのだと。


あまりにストンと落ちたその事実に涙すら出なかった彼女は、そのまま役所に離婚届を取りに行ってタクシーで家に帰る際、交差点での多重事故に巻き込まれ、そのまま息を引き取った。



「もうその時には指輪を外していたんだ。彼女が絶対に外さなかった指輪が無かった事、最初は何故だかわからなかったんだけど、カバンの中に押し込まれた離婚届を見て納得した。結局その離婚届にサインする事も無く彼女は息を引き取った。彼女はまだ二十五だったよ」



彼女の葬儀が全て終わり、遺品を整理していると、いつの間にか息子が立っていた。その小さな手には彼女の指輪が握られていて、必死に涙を堪えている姿が痛々しかった。思わず抱きしめようと思った時、その息子から初めて非難された。



「ずっとママを泣かせてたパパは悪いヤツだ」



「ママが何でキレイな女の人たちから悪口言われなきゃならないの?」



「なんでそれをパパが止めさせないの?」



「パパは」



「パパはママが嫌いだったの?」




いつの間にか車は椿の家にまで着いていた。しかし椿は、何となく緑川を一人にしておく事が出来なくて、もう少しだけ一緒に居させて下さいとお願いをした。驚いた風だった緑川も、困ったなと苦笑しながらも、じゃあぐるっと回ってきてくれと運転手に頼むと、車は再びゆっくりと動き出した。

寂しそうな横顔の緑川を見てしまった椿は、思わず彼の手をそっと握りしめてしまったのだが、自分の大胆さに恥ずかしくなった。顔を真っ赤にさせながら慌てて外そうとすると、彼が指を絡めて来たのに驚いて顔を見ると、くつくつと笑いながらこちらを見ている目と目があった。椿は気恥ずかしさから目線を逸らすと、ぎゅっと手を握られるのを感じて、再び緑川を見ると、どこか懐かしむような目で椿を見ていた。



「君は妻にどことなく似ている。その初々しさも、あどけない顔も。何よりも愛する者に愛されなかった傷付いた目が」

「…似ていますか…?」

「彼女の方がもっと傷付いた目をしていた。あの時の顔は死ぬまで忘れられないだろう」

「奥様への贖罪のつもりで……だから、似ている私と結婚なさるつもりですか?」

「それもあるかな…。私は彼女に謝りたいんだと思う。結局は私は彼女を愛していたと気付いたからね」




息子は父親を嫌って母方の祖父母に預けられたが、中学に上がる頃にパブリックスクールへ行くと進路を決めた。勿論学費や生活費等は全額緑川が持っている。せめてそれぐらいは父親らしい事をしろと、軽蔑も露わに彼女の両親に言われたのだ。


スイスへ行ってから、年に一回しか会おうとしなかった息子にも会えなくなった。


失った物が余りにも多いと自覚する中で、緑川はようやく彼女の事を愛していたのだと思い至った。

自分達は確かに政略結婚だったけれども、そこに少なからず好意はあったはずだし、愛情もあったのだ。あまりに身近すぎてわからなかった。

わかった頃にはもう遅かった。


そうして、緑川はそれまでの派手な生活とは一切縁を切り、今もなお亡き妻に対する贖罪の念を抱いている。



「私が生涯愛するのは彼女だけだ。だけど椿、君にも誰か愛してくれる者がいなければならない」

「やっぱり……私を通して、奥さんに罪滅ぼしをしたいんですか?」

「違う。君を愛してみたいんだよ、椿。不完全な私を愛する者が居なくなった今、君だけは私だけを見てくれるような気がするからだ」

「私も彼の事を忘れられなかったら、どうします?」

「それでも、君は私をその目に映してくれるだろう?」



いつしか車は停まっていて、運転手も気を利かせてくれたようだ。今や車内には二人しか居なかった。

椿は目が熱かった。まばたきをすれば、そこに溜まっている雫が落ちそうで、何とか堪えている。そんな椿を愛おしそうな目で見つめている緑川は、重なった手を外して椿の両頬を挟みなながら、脅えるような目をしている彼女を覗きこんだ。そんな彼に対して、椿は怖かった質問を震える声でぶつけた。



「一年も保たない身体でいいんですか?」

「私に看取らせてくれるか?」

「最期が近くなると、貴方が辛くなりますよ?」

「ならない」

「ふふっ、言い切りましたね」

「決断を下すのは得意でね。椿、何が怖い?」



はっと息を飲んだ椿は、深い色を湛えた緑川の目をしっかりと見た。

怖いのは、弱さに負けそうな自分だ。これから病気から来る痛みや苦しみだけではなく、楓との別離を選んだ事で見えてくる現状が椿に襲いかかる。それに耐えるのが、たまらなく怖い。



一人で死のうと思っていた。だけど、それが怖い。



そんな思いも緑川にはわかっていたのか。そう思うと、誰にも言わずにこの世を去る勇気も少しだけ沸いてくる。

堪えていた涙がほろっと落ちると、緑川がそれを指で拭った。



それで椿の返事は決まった。

身体を緑川の方へ傾けると、しっかりと彼が抱き締めてくれた。その背に手をまわして、胸に顔を埋めるようにしてぽつぽつと自分の望みを伝えた。



「私、最期にグレートバリアリーフが見える所で死にたいなぁ」

「オーストラリアにいい物件を持っているよ。綺麗なところだ。君の最期に相応しい」

「沖縄にも行きたいなぁ」

「死ぬ前にスキューバのライセンスを取らないとな。一緒に潜ろう」

「光さん、私を愛してくれますか?」

「あぁ、君は?」

「愛します。全身全霊、私の生涯をかけて」



埋めている胸から聞こえる彼のとくとくと心臓が刻む鼓動と、抱き締めてくれている力強くも暖かな温もり。

生きているという事を今日ほど感じた事は無い。



ふわりと笑んだ椿の唇に緑川のそれが重なったのは、至極自然だった。

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