第32話 ありがとう。そしてさようなら・・・楓
「…え…?」
嵐から言われた言葉の意味が把握出来ない。言葉自体は短いものだったと思うのに、それを自分の脳が受け付けない。
心が拒否している。
会社の社長室。
仕事終わり、蝶子と食事に出かけようとしているのを珍しく嵐がそれを押し留めて自分の部屋に呼んだ。丁度蝶子もいた為、かえって都合がいいと言われた。
一体何の話だろうかと彼女と顔を見合わせつつ、その呼びとめてまで話したいと言う事の内容がわからずに首を傾げる。そんな楓を見ながら蝶子も同じく首を傾げた。
部屋に入った時の嵐は寂しそうな…というよりもどこか悲しそうな顔をしているように見えた。
そして、その口から放たれた言葉が衝撃的すぎた。
「だから…椿が死んだ。一週間前に亡くなったそうだ」
嵐にしては下手な、悪趣味な冗談だと思った。
しかし、苦渋の表情を浮かべているのを見る限りでは冗談などではないのだろう。そう思うや否や、隣に座っていた蝶子が泣き崩れた。
それを抱きとめながら、どこかぼんやりとした意識の中で嵐に聞く。
「…なんで、なんで死んだんだ?」
「………」
「おい、嵐。答えろよ」
「………」
答える気がないらしい嵐に腹が立つ。そして、引きつけまじりの嗚咽を漏らす蝶子の身体を慮りながらも、自分の身体も震えが起きるのではないかと思うほど冷たいと思い至る。どうしようもない状態のまま、部屋の中に蝶子の泣く声が響く。
「な、なんっ…なんで!?どうしてこんな突然!?なんで椿さんがっ!!」
「蝶子…一先ず落ち着け」
「落ち着いてなんかいられない!嵐様、教えてください、なんで椿さんが亡くなったんですか!?」
「嵐、教えてくれ…」
自分の格好は酷く情けないと思う。しかし、感情と身体が伴っていない以上そうなるのは当たり前で、むしろそうならない方がおかしい。
椿が死んだ。
その事実は、楓と蝶子を打ちのめした。椿の元婚約者だった楓は勿論、椿を姉として慕っていた蝶子の動揺振りは至極当たり前だった。
今まで居た人間がそう簡単に死んでたまるか。
そう思っているのに、目の前の嵐はそれを否定しないばかりか、肯定する雰囲気を崩さない。長年付き合ってきた友人だ、そういった雰囲気は口に出すよりも如実に表れる。
何故死んだ。
もしかして、出産時になにかあったのか?
「……子供、子供を産んだときに何かあったのか?」
「子供?ああ、違う。子供を産んだのとは関係ない」
「っ!じゃあなんで!何で椿が死ぬんだ!まだ24なんだぞ、おかしいだろ!!」
「…そんなに教えて欲しいのか………楓、お前全てを聞く覚悟はあるか。椿が何で死んだのか、なんでお前との婚約を破棄したのか、そして、蝶子とお前の結婚話の全てを」
嵐の射抜くほど鋭い目線に一瞬たじろいだが、姿勢を正して短く「ああ」と答えた。
知りたい。
何で椿が死んだのか、婚約を破棄したのか。
そして、何故ここで蝶子との結婚の話が出てくるのか。
蝶子も聞きたいらしい。涙を拭ってキッと前を見据えているのを嵐は苦笑しながら見ていた。
「お前達にとっては辛いかもしれない。それでもいいのか」
「ああ」
「はい!」
そうかと低く、そして短く嵐は言うとおもむろに立ち上がって外の風景を見た。
まだまだ寒い日が続き、その季節の厳しさから体調を崩すことが多い蝶子であったが、楓との結婚という人生の晴れ舞台が近づいている。その為、前ほどの悲愴さや、その自分の弱さを隠すための乱暴な言葉使いも今や大人しくなっていた。
楓も楓で、そんな蝶子を慈しむように見守っているのを側で見ていればわかる。多分椿にしてきた事への贖罪のような感じなのかもしれないが、それでもちゃんと二人ともお互いに思いあっているようで安心していた。
その矢先での椿の死去。
失ってから椿の大切さに気付いた楓だけではなく、彼女を慕っている蝶子にとっても衝撃なのはわかっている。それでも教えてくれと懇願している彼等を無碍にする事はできない。
ただ願わくば、自分の話を聞いて、その絆を途切れさせなければいいのだが。
嵐はそう思うと、彼等に向き直って全てを話し始めた。
寒い。
時期を考えれば当たり前で、まだまだ寒い季節なのだ。
そんな季節に関わらず楓は実家の庭にある椅子に座って、本家から譲り受けたツバキの樹を眺めていた。
まだ花は付いてはいない。
蕾があるのだが、それが芽吹く頃には楓と蝶子は結婚しているはずだ。その思いは変わっていないし、変えるつもりもない。
蝶子を可愛いと思っているし、その度胸も鳥谷部家の嫁として相応しいものだとわかっている。楓自身は気付いて居ないが、そこに愛情というものが存在しているのも本当だ。
しかし
そこまで考えて、楓はぶるりと身震いをした。
『椿がお前と婚約破棄をした時、椿は余命宣告を受けたようでな。病名は悪性腫瘍、余命一年、しかも保って一年。椿は延命治療も拒否したんだ。治療しても保つか保たないかわからない身体なのに治療しても意味がないと。そんなあの子が何故お前との婚約を破棄したかなんて事、少し考えたらわかるだろ。一年しか生きられない身体なのに、鳥谷部家の嫁が勤まろうはずもないし、そもそもお前に嫌われていると知っていたからな。椿は自分の残り短い人生を精一杯生きたいと言っていたよ。だからこそのイメージチェンジだったのだろうし、結婚だったんだろう。いいか、楓。椿は自分が身を引くことでお前の未来を守ったんだ。それを責めたりは出来ない』
一年。
あまりに短すぎる残り時間。そんな限られた時間の中で椿は懸命に幸せを求めていたのに、それを壊したのは自分。
あのまま…婚約破棄をした頃に戻れるのであれば、椿を黙って見送る事が正しいかったのだと今になって思う。しかも、彼女が緑川光と結婚したのも素直に祝えたのかもしれない。
しかしそれは全て、終わった事で、もう『戻れるのであれば』という現実は存在しない。
ダイエットをして痩せたのだと思っていた。
自分を切り捨てて他の男を探すためなのだと。
それがどうだ。
彼女にあまりに酷な現実だったのだ。
確かにパーティーで手を付けられなかった食事と、あの最後に会った時に何も注文しなかった。それは全て病魔に侵されていたために、単純に食べる事が出来なかっただけであってダイエットなどと言う行為では無かった。
会う度に痩せていく身体と、その彼女を支えていたあの男。
今更どんなに後悔しても仕切れない。
「…楓さん?」
後ろから遠慮がちな声が聞こえてきたので、その方を向く。そこには暖かそうなセーターを着た蝶子が所在無げに立っていた。
「蝶子…いつからそこに」
「さっきからいたんだけど、気付いてなかったみたいだからしばらく見てたの」
「寒いだろ、早く中に入ってろ。風邪ひくぞ」
楓がそう言うと、何故か中には入らずに楓の隣に座った蝶子は冷えてかじかんでいる楓の手を取って、自分の両手で覆った。
じんわりとした温かさが伝わると同時に、ここまで冷えていたのかと少し驚く。一体自分はどれくらいここにいたのだろう。そう思っていると、蝶子が考えを読んだのか「三十分くらいかな」と答えた。
「ねえ…後悔してる?」
「…後悔か…。本当に今更ながらにと思う事だらけだ…俺に、椿が合わなかったんじゃない。椿に、俺が合わなかったんだ」
「………」
「なあ、蝶子…椿は人の事を考えすぎだと思わないか?」
「ふふっ、確かに。苦労症なのよね、椿さんって。もう少ーしワガママに育ってもよかったって思うのよね。それなのに、楓さんみたいな婚約者がいたせいで苦労症になっちゃったんだわ。不憫よねぇ…」
気の毒そうに眉を顰めた蝶子に少し吹き出した。
そう、椿は苦労症だ。その証拠が自分と蝶子の結婚話だ。
『お前達の縁談は元々椿が持ち込んだらしい。詳しくはじい様に言っていたらしいが、お前達は相性がいいと椿は前々から思っていたらしい。楓の高慢な性格と、蝶子のあのワガママな性格。お互い水と油のようなものだが、それでも椿はお前達なら幸せになれると思っていたらしい。最初はじい様も渋ったみたいだったが、椿が最後にこう言ったんだ。
『私があの人達に出来る精一杯の幸福は何かと考えた時に、この縁談を考えたんです。最初は反発しあうでしょう。楓様はあのようなお方ですし、蝶子ちゃんにしても本当は寂しがり屋なのに意地を張って、素直になれない子です。そんな彼女の本質を解ってくれるかもしれないと思えるのは、楓様だけです』とな。
お前達、椿に見事に性格を見抜かれてたな』
くすくすと笑う嵐に、思いがけない事実に呆然としている楓と蝶子。
最後に嵐はこう言った。
『あの子はお前達の幸せを願っていたんだ。だから、頼む。椿の願いを忘れないでやってくれ』
蝶子の身体を抱き寄せる。少し冷えてしまった彼女の身体を、自分の冷えた身体でも温められればいいのだが。
「なあ、蝶子…」
「なあに?」
「俺、このまま幸せになっていいのかわからない…」
「………」
「結局。椿を見殺しにしたようなものなんだ、俺は…何も知らず…知ろうともせず、何もしなかった。そのくせ、椿が離れて行ったことに対して憤って…俺は酷い事を……」
「酷い事?」
「………抱いたんだ、椿を…無理矢理…」
思ってもいなかったことを告白され、抱き締められていた蝶子は息を飲んだのがわかった。だが、楓はその腕を解くことをしなかった。
いや、出来なかった。
それが蝶子に酷い事をしているとわかっていても。
「椿はきっと俺を赦さない。いや…赦さずに、憎んだまま死んだんだろう。それなのに…俺が結婚していいんだろうか。幸せになっていいのか?」
「……っ!」
「謝ってもいない。さようならも言って無い。俺は…」
「ほんっと、馬鹿じゃないの!?」
抱き締めていた腕を無理矢理外され、目の前に仁王立ちになった蝶子に見下ろされている状態の楓は目を見張った。
蝶子がボロボロと大粒の涙を流しながら、それを拭うこともせずに怒っている。
思わず立ち上がろうと思った瞬間、ぱあんと乾いた音が響いた。
「楓さんの馬鹿!ほんっと馬鹿!この無神経!!鈍感!!未練たらしいのよ!!」
「…っ」
「赦す?憎む?椿さんがそんな黒い気持ちを持って死んだ。本当にそう思ってるわけ!?」
「だって普通そうだろう…俺は十八年間、ずっと椿を」
「それが未練たらしいって言ってんの!いい!?椿さんがあたしたちの婚約の仕立てしてくれた時点で、椿さんがそんな感情を持ってないってわかんないの!?嵐様も言ってたじゃない。椿さんが楓さんの幸せを望んでたって!それが何!?『幸せになっていいのかわからない』?笑わせないでよ!!」
「俺はっ!!」
「何よ。椿さんの事を忘れられない?だったら、あたしとの結婚も白紙に戻しなさいよ。あたしだってウジウジしてる男なんて嫌だし、こっちから願い下げだわ」
蝶子の容赦の無い言葉。
痛むのは今殴られた頬だろうか。
「俺は…俺は君を幸せに出来るか、それがわからないと…」
「はっ。誰が楓さんに幸せにして欲しいなんて言ったの?」
「え?」
「あたしが楓さんを幸せにしてみせるのよ。そこんとこを根本的に間違ってるのよね」
「…は?」
「大体楓さんの言う幸せと、あたしの感じる幸せって違うわけ。だったらあたしが幸せだなーって日々暮らしてれば、楓さんだって幸せじゃない?なんたって、幸せにしたいと思ってる人間が幸せだって思ってるんだもの」
「………」
「いい?誰かを幸せにしたいなら、まず自分が幸せになりなさいってよく言うじゃない。それと同じ。あたしが笑って過ごす。それを楓さんが見てまた笑う。そんな当たり前の事って凄く難しいのよ。わかってる?」
「……」
「こんな単純な事、だけどすごく難しい事。当たり前の事って、当たり前にするまでにすんごい努力しないといけないの。だからあたしは頑張るのよ。楓さんを幸せにしたいからね」
ふふんと威張って胸を張った蝶子は、どことなく誇らしそうで。
それでいて、眩しいほどに輝かしい。
楓はそんな蝶子を見て、思わず手が伸びた。
その伸びた手が掴んだのは、小さな手だった。
小さな手の持ち主は、嫌がるでもなければ振り払うでもなく。ただ、楓のしたいようにさせるつもりらしい。
「……俺が幸せになる事、椿は赦してくれるだろうか…」
「くどいわよ。赦してくれるに決まってんじゃない。あの、椿さんよ?」
「…君は…俺を幸せにしてくれるのか?」
「んー、まあそうね」
「ははっ……これじゃあなんだか、逆プロポーズみたいだ」
「不甲斐ない男って、ほんっとーに見ててイライラするわぁ。これだから昨今の男は草食系とか言うのよ」
「ははっ…………俺達…椿が望んだ通り…幸せになろうな、蝶子」
「そうね。それが椿さんへの恩返しでもあり、ご冥福を祈る気持ちにもなるから」
そう言って寄り添う二人を、ツバキの樹が静かに見ていた。
―五年後―
随分と寒かった冬はようやく峠を越し、ようやく暖かい日差しが柔らかく降り注ぐようになっていた。
今年も季節は春に移り変わっている。
楓は今を盛りと咲き誇るツバキの花を、ゆったりと座って眺めていた。
あれから楓と蝶子は無事に結婚した。
心配された蝶子の身体は、結婚という節目を迎えたからなのかすっかりと丈夫になっていて、周囲の人間を安心させていた。元気になった分、今まで出来なかったあれこれを率先してやろうと手を出すので、周りの人間はこれまた新たな心配の種が増えたとぼやいているのだが、苦笑まじりの彼等の目には優しさが見て取れる。その目をしているからこそ、蝶子も遠慮なくしたい事をやっている。
今日はおやつを作るのだと張り切っていたのだが、台所からは香ばしすぎる香りが漂っているのを嗅ぐ限り、十中八九失敗したのだろうと楓はにやりと口角を上げた。
多分あと何分もしないうちに、真っ黒になった何かを持って自分の元に来るのだろう。
そうしたらまず一言、「食えるのか?」と言ってやろうと思う。
いつも皮肉ばかりの彼等の夫婦仲は、傍目から見れば本当に円満なのかと疑問に思う人もいるらしく、事実、楓や蝶子本人に面と向かって「仲良くないんですか?」と聞かれる事も多々ある。
しかし、それはあくまでも会話の一環であっていつもいつも皮肉と皮肉の応酬のような言い争いをしているわけではない。知っている人は知っている。彼等夫婦は順風満帆である事を。
お互いを慈しみあい、愛しあっている楓と蝶子夫妻は密かに本家以外でも人気であるがそれは本人達が知る事はない。あくまでも秘密裏にという事だ。
楓は秘密裏に椿の子供の事に関して詳しい事を調べたが、戸籍上の実父である緑川光の手を離れて、息子である大地と一緒にロンドンで暮らしているらしい。詳しい事はわからないが、どうやら大地が自分がイギリスに連れて行って一緒に暮らすと言って譲らなかったようだ。
今では緑川光も年の大半はイギリスにいるという状況にある中で、それでも会社は順調に推移している。それは社長である彼の手腕もさる事ながら、息子であり、ロンドン支社で働いてる大地の活躍もあるようだ。今でこそこうなのだ、父親と同じ年代になった大地は末恐ろしいものがある。
そんな彼が引き取ると言って譲らなかった、椿の子供は女の子らしい。名前まではわからないが、自分の子供に一目会いたいと思うものの、自分が椿にした事の負い目もある以上はそう簡単に「会わせて欲しい」とは口には出来ない。
「ん?」
ふと、庭と外とが繋がる小道に小さな人影を見つけた。年のころは四、五歳くらいだろうと思う。黒くて長い髪を二つに結い、日差しを避けるためだろう。帽子を被っている。花柄のワンピースを着たその子は、庭のツバキの花を見上げていた。
ふっと笑みが零れる。こうして咲き誇った花を愛でるのは一人では少しもったいないと思っていた頃だ、親が来るまでなら一緒に愛でてもいいだろう。そう思って声をかけようとした時、視線に気付いたのだろうその子が振り向いた。
ふわりとツバキの花の香りが鼻腔をくすぐった。
その子が振り向くと同時に香ったその香りは、彼女が示し出したものだったのかもしれない。
―『しきしまつばきです。どうぞおみしりおきくださいませ』―
ぶわりと懐かしい想い出が蘇った。
目の前の人物に瞠目し、小さく呟いた声は震えた。
「……椿……」
「つばき?このお花のこと?」
きょとんとこちらを向いているその子供は、楓の様子を不審に思う様子もなく、にこにこと人懐っこい笑みを浮かべた。
「わたしのママもつばきっていうの。わたしが生まれたときにしんじゃったんだけど、パパもおにいちゃんもいつもいつもつばき、つばきっていってるの。でもね、つばきってこのお花のことでしょう?ママがこのお花になっちゃったってパパはいうんだけど…このお花はママなのかなぁ…?わかる、みすたー…?」
「……楓。俺は楓って言うんだ」
なんとか絞りだした声は涙声ではなかっただろうか。手を口に当ててなんとか震えを誤魔化した。
「かえで?」
「…そう。メイプルとも言うね」
「あー!もしかして、もみじぃ!?」
「ああ、そうとも言うね」
「すごーい!!かえでさんとわたしのなまえって、すっごくにてる!」
「似てる?」
「あのね、わたしのなまえは…」
そう彼女が言うと、後ろから彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「クレハ!!」
「あ、おにいちゃん!」
「急にいなくなったら駄目だろう?これから伯父さんの所へ行って、それからお祖父ちゃんたちのお墓参りに行くんだから、お転婆は駄目だよ」
「はぁい。あ、あのね、おにいちゃん!この人、かえでっていうんだって!わたしのなまえとにてるねっていってたの!!」
「楓…?」
そう言い、彼女を抱き上げた兄…緑川大地が楓に気付いたらしく、驚いた表情を見せた。しかしそれは一瞬で、すぐに妹を待たせてあった車に乗せようと動いた。それを察知した楓は、大地を静止しようとしたがそれを阻止したのは当の子供だった。
「もう、おにいちゃん!わたしまだかえでさんに、じこしょうかいしてなの!!」
「駄目だ、クレハ。行くよ」
「いーやー!」
「…クレハ…言う事を聞きなさい」
「おにいちゃんこそれいぎがなってない!あのね、かえでさん。わたしのなまえ、『みどりかわくれは』っていうの。かえでさんとおんなじ、もみじのなまえなんだよ!」
その言葉に一瞬息が止まった。
楓の様子を見て取った大地は、すかさず妹を車に乗せると運転手に先に行くように促し、自身はそこに残った。
「くれはって…」
「…全く…なんの因果かな…。お久しぶりです、鳥谷部さん」
久しぶりに見た大地は、五年前と比べると子供らしさが抜け、いい意味で力の抜けた新入社員のような感じだ。だがそれも見た目だけだとわかっている。彼の本質は、昔嫌と言うほど思い知っている。人の考えを先読みし、そして考えている事を読まれる。今でこそわかっているから対処できるものの、昔はこの人畜無害そうな笑顔に何回煮え湯を飲まされたことか。
「おい…今の子供が椿の…俺の…」
「…ふー…そうですよ。あの子は椿さんの忘れ形見の娘、紅葉です」
「紅葉……」
呆然と呟くと、どこか自嘲しているように大地が肩を竦めた。
「あの子の名前、父が付けたんですよ。鳥谷部さん」
「…緑川光が…?」
「『昔、椿は紅葉が好きだったから』と。考えなくても意味、わかりますよね」
楓と紅葉。
文字は違っても、言葉の意味は同じ。そんな名前を付けた緑川光の心境とは一体…
「あの子に名前を付ける時にね、父が言ったんですよ。『この子を鳥谷部に会わせてはあげられないけど、せめて名前は父親と縁があるようなのにしよう』と。あ、一応椿さんの名誉のために言わせて貰えば。椿さんは反対したんだよ。そんな、悪いって。もっと違う名前にしてと。だけど、父にそんな事言われたんだ。椿さんも最終的は納得してくれたし、その名前も随分と気に行ってた」
「………」
「紅葉って椿さんに似てるよね。だんだんと似てくるんだ。流石は娘って感じ」
そう言うと大地は踵を返しかけ、咲いていたツバキの花を見た。
「椿さんの思し召しかな…。そろそろ僕達だけが独占してちゃ駄目だよって…」
寂しく笑った大地は今度こそ車の走り去った方向へと歩き去った。
残された楓は、ざわざわと風に揺られるツバキの花にそっと手を伸ばす。
艶やかに咲いたその花は、枯れるときは潔く花を地面に落とす。言いわけもせず、あまりに潔いその散り際は、どこか椿と似ていると思った。
こうして紅葉と会えたのは、ひょっとして本当に椿の思し召しだったのかもしれない。
「…なぁ、椿……ありがとう…それと…」
―――さようなら―――
楓はそう呟くと、賑やかに騒いでいる蝶子の方へと歩き去った。
ツバキの樹と華は風に揺られながら、その背を静かにみていた。