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第31話 愛すべき全ての人へ・・・椿

「保って一年ですね」



そう言った医者は今どうしているだろう。

自分と同じような患者を診察して、また同じような無機質な声で余命を宣告しているのだろうか。


今となってはどうでもいいことだが。



椿はもうすぐその、デッドラインの一年を迎えようとしている。



日本では冬を迎えた季節、椿のいるオーストラリアでは真夏を迎えていた。

今シーズンの夏の気温は異常らしく、年が明けて一月に開催されるテニスのグランドスラムの最初の大会、全豪オープンはかなり厳しいものになるのではないかと予想されている。



そんな中、椿も妊娠後期に入っていた。そして、日本にいた頃に余命宣告された時期も同時に近づいて来ている。

妊娠は順調だと言いたい所だが、実際は椿の体調が芳しくなく、いつごろ帝王切開で取り出すかということも医師達で協議されていた。本来であれば最低でも九ヶ月を迎えるまでは母体に留めておくのが胎児にとってはいいのはわかりきった事ではあったが、多分それまで椿の身体は保たない。

度重なる話し合いを重ねた結果、帝王切開で出産可能な時期までなんとか椿の命を引き延ばすという結論に達した。



「椿、大丈夫か?」

「大丈夫…と言いたいけど、ちょっと、苦しいですね…けど、まだ我慢出来るから…」



この頃になると、椿は既にベッドの住人と化していた。

起き上がる気力もない。かと言ってそれを辛いと口に出すと、隣で心配そうに見ている光が苦しそうな顔をするのが逆に心苦しくなってしまう。無理はするなとよく言われるのだが、無理ではなく意地なのかもしれない。

以前大地に言った事…底意地が悪いと言うのはあながち間違いではなかったのかもしれないと思っている。


日本にいる兄から年明けに結婚式をするというメールが来ていた。

式には出席出来ないだろう。それを苦にしているのを見た光は、「自分が出てくるよ」と請け負ってくれたのでほっとしている。



兄は橘の一族から出た。

表向きの理由は相手の家に婿入りしたからだったが、実は入念に一族から出るために策を練っていたはず。

兄の秘密主義は今に始まったことではない。それを知っている椿は特に驚いていないが、一族の皆はきっと驚いたことだろう。

全く表に出すことの無い自分の考えをたまに椿に教えてくれるが、それが一族からの除名だった。

兄は元から萌花と結婚するつもりはなかったようで、あのまま椿が結婚したとしても多分兄は結婚しなかった。それがどういった理由をつけてかはわからないが、とにかく兄が萌花を嫌っていたのは事実だ。


兄と結婚した人は、全くの知らない人ではない。

彼女は両親が眠る墓地近くの花屋の看板娘で、椿も彼女と顔見知りだった。彼女とは一年に数回程度しか顔を合わせることはないが、笑うと周りがパッと明るくなる笑顔を持つ彼女は近所の人からも可愛がられているようだったし、椿も彼女の事が好きだ。

それが兄もだったというのは正直驚いたが、ワガママばかりの萌花より彼女の方が兄を幸せにしてくれるだろう。


先日オーストラリアに来た際、彼女が妊娠しているという事を教えてくれた。

椿の子供の方が先に産まれるが、兄の子供とも仲良くしてくれると嬉しい。



兄にも新しい家族が出来る。

自分の『死』は、光が言う言葉で知る事になるだろう。両親に続き妹までもが早世し、血の繋がった肉親は椿の産む子だけだ。だが、その子も兄が育てるわけではない。

沢山の迷惑と苦労をかけた兄が受ける衝撃と嘆きは計り知れない。でもこれは自分が選んだ事で、その事に対して最初は怒るかもしれないが、最後にはわかってくれると信じている。


あの兄はそういう人だから。



年が明けた。

兄から、そして日本にいる蝶子からも年賀メールが届いたが、それに自ら返信する事が出来なくて結局は光に代理で打ってもらった。


蝶子は楓との婚約期間である今も順調に行っているらしい。

当初は心配したものの、二人ともなかなか上手い具合に言っているようで安心する。



いよいよ帝王切開も明日に控えて、超新生児室がある病院に入院していると、病室にまたしてもふらりと大地が現れた。



「明けましておめでとう、椿さん」

「おめでとう、大地君。また急に来たんだね。ちゃんと光さんに言って来たの?」

「んー?内緒。ま、父さんも怒らないでしょ。なにせ、僕の弟か妹の誕生なんだもん。生まれたての赤ちゃんって見たいじゃない?それに、名前!椿さん決めた?」



名前。

光とも相談したのだが、結局何がいいのか悩んだ末に、その時の心境で決めようかという行き当たりばったりな感じになっている。

とは言え、字画本とかも買っている辺り相当悩んだのだろうけれど。



「決めて無いよ。じゃあ、大地君が決めてみる?」

「僕が?いやー、遠慮しておくよ。僕っていまいちネーミングセンスないんだよね」

「大地。来てたのか」

「来たよ。明日なんでしょ、手術」



大地が来ていた事に驚いた風の光だったが、神出鬼没な息子を咎める事はしないで、彼を連れて病室の外へ出て行った。きっと心構えなんかを二人で話し合っているのかも知れない。

大分出てきたとは言え、まだ出産期間は十分ではない。そんな我が子を産んで、自分のこの腕に抱きしめる事は出来ないだろうと思っている。せめて、せめて新生児室のガラス越しでもいいので自分が産んだ子供を見てみたい。


それが最後の望みになるだろう。


目を閉じて、まだ自分のお腹の中にいる赤ちゃんに伝わるように優しく撫でる。



「ちゃんと産むからね。だからママが頑張れるように応援してね」



その問いかけに答えるように、お腹の中の住人がドンと蹴った。



光と約束した事がある。

だからちゃんと守らなければ。


手術室に運ばれるその時がやってきた。

光が椿の手を握り締めてくれた。温かい手だ。この手が好きだし、安心出来る。

だから心配しないで。必ずもう一度貴方の元に戻ってくるから。その時は赤ちゃんも一緒だから。

大地も心配そうな顔で自分を見ているけれど、彼にはいつもの様に微笑んでいて欲しい。そういう顔は似合わない。だからどうか、笑って欲しい。大丈夫、必ず戻ってくるから。


にこりと笑った椿を乗せたストレッチャーが、手術室へと消えた。




夢を見た。


あれは…誰だろう。

暗い場所で一人で泣いている女の子。

泣き声もあげず、かと言って涙が止まる術はないかのように静かに泣いているあの子は。



「椿、この子がお前の婚約者だ」

「鳥谷部楓。御三家の鳥谷部家長男だ。この子と将来結婚するんだぞ」



そう言われて自分は嬉しかっただろうか。

一向に自分の方を見ない彼との結婚を本当に喜んで良かったのか。

哀れにも自分は彼に恋をした。そうして実に十八年間にも及ぶ苦しい恋をしてしまった。楓が自分に興味を持っていないのは知っていたし、自分の事を疎んじていたのもわかっていた。それなのに、彼が好きだった。冷たい視線を向けられれば竦み、短くても彼から言葉を掛けられれば舞い上がり。それはまさに恋のなせる業だと思っていた。


そう、光と出逢うまでは。

光と出逢ってから、今までのそうした苦しい恋はあくまでも少女の頃の恋だったのだと知った。少女の恋が実現しないなんて否定するつもりはないし、そうであって欲しくない。だが、違うのだ。

光を思う、この気持ち。

彼に守られる事が頼もしいと素直に思ったし、自分を優先してくれる事が嬉しかった。


そして、彼に愛してもらえる事が何よりも幸せ。



だからこそ、辛い。

彼と、光と死に別れたくない。


死にたくない。


彼と一緒にいたいと願うのはいけないことなのだろうか。自分の限りある寿命を、もう少しだけ頂戴と願ってしまう。



どうか神様、まだ死にたくないの。



お願い、彼と一緒に生きたいの。



死ぬのは怖くないと思っていた。

それなのに、今は怖い。光と離れるのがこんなに辛いなんて思いもしなかった。

もう少し。そう、もう少しだけ彼と早く出逢えていたら。もし、自分の寿命が長かったら。



彼と一緒に笑っていれるのに。



もう泣いている女の子はいない。

代わりに泣いているのは、自分。ぽろぽろと零れ落ちる涙の意味は、光に会いたいから。



だから目を開けないと。



約束したから。



もう一度、彼の目を見るって。




ふと手の平を見ると、そこには何も無いはずなのに温かい。自分の体温かと思ったが、それを違うと思った。そう、この感触、体温を知っている。

自分の好きな、大好きな手の感触。



「椿」



ああ、呼んでいる。



愛しいあの人が。




途轍もなく重い瞼をこじ開けると、眩しい光が目に侵入してくる。それが太陽だとわかったのはすぐだった。瞬きを数回、ふぅっと息を吐いてようやく周りを見回すと、そこには会いたいと願った彼が手を握って自分を見ていた。



「…あ、き…らさ、ん」

「椿、よかった…本当によかった」



涙声で自分を抱き締める彼が愛おしくて。

力の入らない身体でも貴方を抱き締めたくて。


ふと彼の後ろを見ると、泣いている大地が目に入った。そんな彼に泣かないでと言ってあげたいのだが、なかなかそうもいかないらしい。

この子も人間らしいところが多々ある。大事な大事な弟のように手のかかる息子だ。




子供は超未熟児で取り出され、すぐさま完全看護体勢に移行された。

目覚めてから医者の許可が出るまでは写真でしか見る事が出来なかったが、ようやく許可がおりるとガラス越しだが見る事が出来た。

保育器に入っているために抱くことは出来ないが、それでも触る事は出来た。

まだまだ小さい手でようやく呼吸をしている姿が可哀想でもあるが、それでも心臓はしっかりと鼓動を刻んでいる。



「名前は、決めてくれました?」

「ああ。君が気に入ればいいんだが」



その名前を聞いた時、思わず目を見張って反対したが光の話を聞く内に確かにその通りだと納得した。今ではいい名前だと気に入っている。

大地は妹となる赤ちゃんが相当なお気に入りらしく、毎日見ていても飽きないと公言している。あまりに何時間もべったりと保育器の前にくっついているので、看護士から苦笑交じりの叱責を受けたらしい。それでも気にせずにひっついているので、今ではもう誰も注意しなくなった。

椿はそんな大地を見ながら、きっとシスコンの兄になって娘に煙たがられるに違いないと思ったが、口にはしなかった。あまりに大地の顔が嬉しそうだったから。



ようやく一段落付いた今、光に海を見渡せる広い海岸に連れてきて貰っている。

すぐに疲れてしまうので車椅子での移動になっているが、それを嫌な顔をせずに押してくれる光に感謝だ。

抱き上げてベンチに座らせてもらうが、黙って座っていられない。そんな椿を見て、光は彼女を後ろから抱き締めるようにして座らせた。



「綺麗…」

「ああ。朝日がキラキラ反射している」

「あのね、光さん。私、ずっと自分の事を不幸だと思ってた。楓様の事や、小百合にされてた事もそうだけど、自分の事を愛してくれる人がずっとこれから先も現れないだろうなって思ってたから」

「…今は?今はどうなんだ?」

「幸せよ。貴方もいるし、大地君も、あの子もいる。ずっと一緒にいるのって、すごく幸せ」



波の音だけが響く朝の海。その光景に相応しく、静かに語る二人は何者にも冒しがたい雰囲気に包まれていた。



「ねえ、光さん」

「なんだい?」

「光さんは長生きしてね」

「なんだい、いきなり」

「長生きして、あの子が幸せになるのを全部見送ってから私の所に来てね。それ以前に来ちゃ駄目ですからね。大地君も幸せになって、あの子も幸せになって。全部全部見て来てから、それから私の所に来て、私に全部見てきた事を教えてくださいね」

「………それは大任だな…。わかった、あの子達二人、幸せになるまでは君の所には行かない事にする。椿、それまで寂しくなるな…」

「寂しくないわ。ずっと側にいるわ、いつも側に」

「そうか…」



もたれかかるようにしていた身体が、重い。



「なんだか、眠くなって来たわ…。少し、眠ってもいいかしら…」

「ああ、おやすみ」

「ねえ、光さん。大好きよ」

「愛してるよ、椿」




緑川椿


享年24



眠るようにして亡くなった彼女の顔にはうっすらと笑顔が浮かび、頬には雫がとめどなく降り注いだ。

次でラストです。

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