第24話 対峙・・・楓
「中絶という選択肢はないのか?」
俺の親友が
橘の当主が
嵐が。
「お前…一体何言って…」
「楓、お前は黙ってろ。俺は椿と話してるんだ」
「黙っていられるわけないだろ!お前一体何言ってるのかわかってるのか!!椿に子供を堕ろせって言ってるんだぞ!」
「ああ、そうだ。わかったるさ。なあ椿、その子供を産む事が自分の身を滅ぼすことくらいわかってるんだろう?わかってるんだったら、自分の身体の事をその子供よりも考えろ」
椿を真っ直ぐに見ている嵐の目には、温かみというものが全く感じられない。そういう態度の嵐と言うのもなかなか見られるものではない。確かに橘の一族を纏め上げる当主に相応しい態度なのかもしれない。しかし、その嵐の取り澄ました態度が今は楓の神経に触った。
椿の子供を堕ろせと事も無げに言ってのけるその神経、しかもその後も発言を撤回するでもない。何故自分がここまで激昂するのか、わかっている。
椿の子供の父親が誰あろう、自分かもしれないからだ。
「堕ろすな、椿!俺がこいつを何とかする。だから!」
半ば怒鳴るように椿に言った言葉は、当の本人の冷静な声によってその効力を失った。
「嵐様、申し訳ありませんが私は産みます。確かに身の破滅と言われてもしかたがありません。だけど、産むと決めたんです」
「それがどんな結果になるのかわかってるんだろう。だったら、なんでその道を選ぶんだ。そもそも緑川は承知してるのか」
「はい」
「大地君、君も何か言ったのか?」
「え、僕?僕はいない事にしてくださいって言いましたよね。だったら僕に意見求めないでくれません?」
三者三様の態度の中、嵐の問いにしれっと答えた大地はこの話題に参加する気はなさそうだ。いや、初めからこの場にいるのも椿の付き添いという立場を明確にしている。
しかしながら椿の立場を支持するような態度をしているのを見ると、やはり中絶には反対なのだろう。それに少しだけ安堵するものの、内心は複雑だ。
「でもうーん、まあ一言言わせて貰えれば。父も当初は反対してましたよ」
「だったら」
「でもね。そんな事は父と椿さんが決める事で、僕達みたいな第三者が口を出すような事じゃないんですよ。それを上から目線で堕ろせって言われても椿さんも納得出来ないし、彼女が一度産むって決めたのを覆す事は難しいってわからなんですか?それが、父や僕よりも一緒にいた年月が長かった人達が言うんですか?
ふはっ、とんだご当主ですね。一族を纏め上げている貴方が、鳥谷部さんと椿さんの婚約を取り仕切れなかったばかりか、椿さんから破棄させて、破棄された事に対して駄々をこねてる子供みたいなご友人がしている悪辣な振る舞いを止めるでもなく。今までの当主としての責任を全部丸投げして、それを椿さんに取らせようとしてるのって結構酷いですよ、橘のご当主。むしろ、鳥谷部さんよりも始末が悪い」
くすくすと笑いながら話す大地の言葉に偽りは無い。確かに、中絶云々は夫である緑川光が同意書にサインをしなければいけないし、それを椿が産むと決めた以上自分達のような第三者があれこれと口出しするのも鬱陶しいだろう。
だが。
「椿、子供は…子供の父親は誰だ」
「…楓?」
質問の意味がわからなかったのだろう、嵐がきょとんとした顔をしている。しかし、そんな事に頓着していられない。真っ直ぐに椿の目を見て、その答えを聞きたかった。
もし、自分の子だったのだとしたら…。
「私だ」
ここにいるはずの無い、男の声。
はっとして振り返った椿と、どこかその男が来るのをわかっていたようで苦笑を浮かべつつ声の方を振り返った大地は別として、嵐もそこに立っている緑川光の登場に驚いていた。
だが、その登場も楓は驚きもしなかった。椿の腹で育っている子供が緑川光の子供だと、そう言ったのだ。自分の子供だと思っていたのに、その希望すら打ち砕かれる。
「大地、まさかこの店を選ぶとはな」
「知ってるからこそいいかなと思って。始まりと終わりにはぴったりでしょ?」
「全く。悪趣味だな…椿、話は終わったか?」
「私は…はい。終わりました。楓様、あと私に何か言いたい事がございますか?言いたい事があるんだったら聞きますけど」
緑川親子が何やら意味のわからない事を言っているが、その事を深く追求するつもりは無かった。椿としては早くこの話題を切り上げたのかもしれないが、今聞き逃せば一生後悔する事はわかっている。だからこそ椿の答えを聞きたかった。
「椿…、その男…緑川光の事を愛しているのか?」
少しばかりの期待と、なけなしのプライド。それが自分を支えている僅かばかりの希望。
椿が戻ってくればいい。自分の元に。
そうすれば子供も自分の子供として産めるし、今まで通りに自分の隣に立つ女は椿だ。
そんな淡い期待を端から抱いてはいけなかったのだろう。椿が短く「はい」と答えた事で全ては決したように思えた。
「…そうか…」
呟くようにそれだけ言うと、全身から力が抜けるように感じた。全て自業自得だというのはわかっている。椿を失う事になった原因も、他の男を愛していると言われるのも。それを受け止める事しか出来ない。
緑川が息子を伴わせて家に帰るように促しているのを、見るとも無しに見ていた。去り際、「さようなら」と言って店を出る椿の顔を見る事が出来ないでいると、緑川光が椿の座っていた席に腰を下ろした。
どうした事かとノロノロと顔を上げると、顔から表情を消したかのようにこちらを見る目とかち合った。
「大分憔悴しているようだが、大丈夫か?」
「…笑いたきゃ笑えよ。それがあんたみたいな勝ち組に許された特権だろ」
「勝ち組か…。悪いが、橘。席を外して貰えるか。この男と二人だけで話したいのだが」
「…楓に余計な事を言わないと約束してもらえるなら」
「ああ、しないよ。トドメを刺すのは趣味じゃない」
それだけ聞くと嵐は席を外して、ラウンジの方へと移動して行った。それを横目で見ていると、前方から視線を感じた。
まさかこの男とサシで話す時が来るとは思わなかった。緑川光は、こちらをただひたすらジッと見ているだけで、何も話そうとはしない。何か話したい事があるからこの席に残ったのだろうに、どうして何も話さないのか。そもそも、この男には色々と言うべきことがあるはずだ。
業を煮やした楓が口を開こうと思ったのだが、ようやく言葉を発した男の声にそれを遮られた。
「随分と椿にご執着の様子だな。彼女に対しての謝罪も無しか。呆れたな」
「………」
「今更君にのこのこ出て来られたところで、彼女が君の方を向くわけがないとわかっているだろう。それでも椿が戻ってくるなんて、まさか本気で思っていたわけではあるまいな?」
辛辣に、的確に突いてくる自分の急所。相手は一切手心を加えるつもりはないらしい。
「あの子の身体にしてもそうだ。無理矢理手に入れたとして、それで君は満足したのか?私が見たところ、後悔しかしていないように見えるのだが」
「………」
「椿を渡すつもりはないし、子供も私の子供として育てる。安心したまえ」
「…え…?」
「君の思っている通り、彼女のお腹で育っている子供の父親は君だ。だが、それを君がどうのこうの出来ると思うな。せいぜい、指を銜えて黙って見ていろ」
ちょっと待て。
何だ、それ。
さっき確かに、父親は緑川光だと自分で言っていたではないか。何故そのような混乱するような事を言うのだ。
では何か、やはり椿の子供は自分の子供だという事なのか。思いがけない情報に心が躍ったが、それを自分が父親だと名乗る事は出来ないし、勿論裁判などでは争えない。元々自分が無理矢理抱いた時に出来た子供で、もしも自分が父親だと言うのが発覚すれば自分だけではない。椿と子供がスキャンダルに巻きこまれる。それだけはなんとしても避けなければいけないのだ。それをわかっているからこそ、何も手出しが出来ない。
ギリッと握った手が震える。
悔しい。自分と椿の子供なのに、それを手を拱いて見ているだけなんて。
父だと名乗る事すら叶わないのか。
「…くそっ…!」
「穏やかでないな、鳥谷部。手放したのは君で、そこから離れたのは椿だ。それは君達二人の絶対的な距離だ。今更どうこう出来るものではないし、過去に戻ったところで何も変わらないだろう。君達には縁が無かった。そう言えば聞こえはいいが、自分の方を見てもらえる努力を必死にしていた椿が泣いているのも知らずに、ただのうのうと彼女の笑顔の上っ面だけを見続けていた君に、その距離を埋めるだけの力量はない。椿が距離を詰めようとしていたのにも関わらず、それから逃げ続け、あろう事か椿が離れて行ってから手元に取り戻そうなんて…おこがましいとは思わないか?そんな君に、椿の子供の父親なんて言うものの資格はない」
そう、まさしくこの男の言う通り。
だが、そんな事は今まで嵐から、御大から、はたまた大地ですら言ってくる。それに耳を傾けなかった自分。滑稽すぎて泣けて来る。
「君には三神の娘がいるじゃないか。しかも腹の子供は君の子供だとか。あれだけ吹聴して回っているんだ、いくら君だと言えども、そろそろ無碍に出来なくなって来たんじゃないか?なかなかしつこいタイプの女だぞ、あれは。私だったらあんな女はご免だけどな」
「ちが…あれは俺の子供じゃっ!」
「君の子供であろうがなかろうが、そんな事はどうでもいいんだよ。むしろ、それが君の立場を明確にするためには必要だとは思わないか?ご実家もそろそろ結婚しろとせっついているのではないのか」
「………」
「あれを娶れ。そうすれば、もっと面白くなるぞ。君は椿を忘れられない。絶対にな。それを面白く思わないあのワガママ娘が許すはずはないし、子供が無事に生まれたとしても、君がその子供を愛せるかどうかは甚だ疑問だがね」
確かに。もしも小百合の子供が自分の子だと判明しても、それが椿との間に出来た自分の子供で無い以上、自分がその子を愛する事は出来ないだろう。
「君は椿をどう思っていたのか。それは沖縄の時に言った通りだ。君は所詮椿の事を婚約者の『女』という目では無く、『妹のような存在』としか思えていなかったはすだ。それが実際の妹としての扱いだったかどうかは怪しいものだが、それでも椿を『女』として見ていなかった。それなのに、私と結婚した事で、椿の『女』としての部分が見えてきたんだ。全く、皮肉なものだな」
思っても見ない言葉に目を見開いた。
確かに。あの頃は椿の事を名前ばかりの婚約者としか思えていなかったし、椿に『女』を感じた事も無かった。だからこそ、『女』を感じさせてくれる他の女達と色々と浮名を流した。それで泣いていた椿の事を考えもせずに。
「まあ、これ以上何かを言っても不毛なだけだし、そもそもが全て終わっていることだ。君も色々と言われたんだろう?だったらもう何も言われたくはないだろう。もう、彼女…椿とは会うな。今回の事で全部わかっただろう。君が手に取り戻したいと思っていた事は、何もかもが手遅れだ。君が手にする事が出来るものは何も無い」
「…ちがう…」
「何も違わない。君もどこかでわかっているんだろう?もう遅いと。椿が好きだと言っていた頃、十八年間はもう戻ってこない」
それだけ言うと、緑川光は席を立って店を出て行った。きつい事を言われるだろうなと身構えていたはずなのに、そんな防御体勢を意図も容易く崩した緑川に嘆息する。
彼を見送って戻って来た嵐に、楓は自嘲気味に笑った。
「はは…指輪…結局返せなかった…」
「楓…」
「俺は馬鹿だな…嵐」
「ああ…そうだな」
「疲れた。なんだかただひたすら眠りたい気がするよ」
逃げれるものなら逃げている。
だけど、現実はいつもいつも人を追い詰め、逃がそうとはしない。
それを実感し現実に絶望したのは、椿が死んだと言うことを知ったときだった。