第22話 思慕という感情・・・楓
椿に会いたい。
椿の顔を一目でもいいから、見たい。
御大の温かい掌に随分と泣かされた後、毎日そればかり考えていた。しかし当然、椿は緑川光の妻であるのだし、いいだけ自分に蔑ろにされたのだから椿も会いたくないだろう。
それでも。
自分がどれだけ愚かだったのか、今になってよくわかる。
ツバキの花言葉を知った時、まさに自分が欲しかったものだったのだと痛感した。
鳥谷部家の一人息子として、何不自由ない生活。幸いにして整っている容姿に寄ってくる女は、自分の持つ名前と金以外求めてこなかった。つまる所、虚構の中に生きていたと言われてもしょうがなかったのだ。
本当の楓という人間を見てくれていた女は椿だけだったのだと、失ってから気付くなんて間抜けだとしか言い様が無い。
凡庸な、平凡な中に穏やかな日常が存在しているのを拒否したのは自分。何よりも求めていたものだったはずなのに。
平凡な、だが失ってはいけない椿を失ってから以降、激しくなる小百合の攻勢。うんざりするほどの催促の電話と、妊娠したのは自分の子供だと言う脅迫のような言い分。
全く、非凡な毎日を求めていた自分はなんと愚かだったのだろう。こんな毎日を過ごすために、椿を失ったわけではない。
「いい加減にしろ。何回言われても答えは同じだ」
「そんな!!酷すぎるわ、この子は楓さんの子供なのに!!」
こんな不毛すぎる会話を、一体いつまで繰り返せばいいのだろう。
嵐に紹介してもらった弁護士のお陰か、悪夢のような請求書責めは止まったが、別にそれで金が返ってくるわけではない。
その代わりに突然会社に押しかけた一件以来、小百合は箍が外れたかの如く、毎日毎日会社にやってくる。これでは仕事にならないと秘書以下全員に小百合を重役フロアに通すなと言い渡せば、今度は受付で騒ぎ出す。さすがに業を煮やした楓は、警備員を呼んで出て行かせようと思うと今度は半狂乱になって泣き叫ぶ。
最近では楓と小百合の関係は会社中に噂話という名の醜聞となって蔓延している。頭を抱えて逃げたいと思った事は一度や二度ではない。
小百合の腹の子供は既に三ヶ月を過ぎ、最早中絶が出来ない。それを盾にとってまで自分と結婚したいのだろうが、醜聞を巻き散らした小百合と今更ながらに結婚なんか出来るわけが無い。
事実、御大以下橘本家と御崎家以外の一族中が小百合との婚姻に反対しているのが今の所の救いであるとも言える。
当の鳥谷部家はと言えば、無関心の態度を貫き通している。さすが、自分達の息子にどんな女でも連れてくればいいと言い放った母だ。こんな事に口を挟む筋合いはないと一蹴していた。父は父で、厳しい顔をしているのを見れば、賛成ではないようだ。今の所、一応はそれが救いになっている。
御崎家はまた他の皆とは違って、海斗がしきりに小百合や椿の兄の婚約者だった柏木萌花を薦めてこようとするので逆に困惑している。
同じタイプの二人を娶るなんぞ冗談では無いし、萌花に至っては樹の婚約者だった十数年間に、敷島家の全財産を食い潰すという最悪の事態を引き起こしていたのが最近になって発覚した。本家ですら把握していたなかった事態に騒然となった嵐と御大は、樹を本家に呼び出して事の詳細を問いただした。
だが、そこで返って来た答えは、実に信じられないものだった。
『椿が結婚して敷島を出た以上、俺には護るものがなくなっただけです。確かに萌花さんの強請ったもの、全てをそのまま買い与えていました。それがどうかしましたか?』
と、ぴくりとも表情を変えずに言いきった樹を見た嵐は、詳細を聞いてきた楓に一言こう漏らした。
『俺は樹さんが何を考えているのかわかったつもりでいたが……俺では、あの人は手に負えない』
と半ば呆然としていたのに、楓は相当驚いた。
それもそのはず、敷島樹という人物は穏やかで人から好かれることこそあれ、人から嫌われると言うことが滅多に無い好人物で、先に行っていた中東での仕事ぶりも現地のみならず業界内での評価も高かい事で知られ、水面下では彼がヘッドハンティングされるのではないかと囁かれているほど。
上層部からの信頼も厚い彼は、何よりも礼儀正しく真面目で不正を嫌うタイプだ。
が、嵐が言う限り、どうやらそれが違うらしい。
今まで見ていたものが全て違うとなった今、椿を護ってきた彼もまた、仮面をかぶっていたのだろうか…。
今日は穏やかに仕事が出来ると思っていた矢先、一本の電話が入ってまた中断を余儀なくされた。
「専務、お電話が入っていますが」
「誰だ」
「緑川社長のご子息です」
「繋げ」
先日会って衝撃的な事を言った大地。椿とそうたいして年の変わらないものの、少年でもなく、かと言って青年という年でもない大地は実に不可思議な子供だと思う。人の心をあっさりと見透かすような目をしているくせに、自分の考えは一切見せない。
そういうところは本当に父親譲りだと思う。忌々しい事だが。
「もしもし」
『こんにちは、鳥谷部さん。先日のラウンジ以来ですね。お元気してました?』
「あぁ、おかげさまで。と言っても、大して変わり映えの無い毎日だ。と言っても、君は知っていると思うんだがな」
『あはは、まぁ噂話程度ならね』
「で?俺も暇じゃないんだが、用件があるのならさっさと言ってくれないか?」
『鳥谷部さん、椿さんと会いたい?もし会う気があるんだったら、会わせてあげるよ』
それまで書類を捲くりながら会話していたのだが、その一言でピタリと動きを止め瞠目した。
一体何を企んでいるのかわからないが、椿の名を出された以上は妙な対応は出来ない。あくまでも、大地は緑川光の子供で、椿の継子である。彼が自分の味方ではないのは明らかで、先日ラウンジで会った一件も、確実に楓の急所を突いてきた。
それを踏まえた上で慎重な答えを探そうとしたのだが、現実に椿の名前を出されたことに大いに慌てた。
「なに?」
『だからー、椿さんに会って話をした方がお互いのわだかまりを解消出来るんじゃないかなって思ってるんですよ。あ、椿さんにもう了承取ってありますから。ちなみに、父には内緒なんですけど、僕が同席したって言えば何とかなると思っていますから、変な勘ぐりは止めてくださいね』
「父上に…緑川光に言わなくていいのか?」
『あの父の事ですから、どこかで気付いていると思いますけどね。ま、これで椿さんと貴方の思いが切れるんだ。不満はあるでしょうが、反対はしないですよ。きっとね』
どこか釈然としないまま、心が命ずるがままに気付いたら『是』の言葉を発していた。安堵したらしい電話口の男は、待っている店の名前を告げると時間を指定して電話を切った。
どこか信じられないままに、大地の言っていた事を反芻する。嘘とも冗談とも捉えられるような口調は相変わらずだが、そこに椿を持ち出すのはどうもしっくりこない。となると、やはり本当なのだろうか。
緑川光に内緒だと言っていたのも気に掛かる。認めたくないが、一応は椿は人妻なのだからたった一人で自分に会うのは不都合があるだろうし、きっと会いたくないはずだ。その事を知っているはずの緑川光が何も言わないままだと言うのも不可思議だ。
同じ事をグルグルと考えていると、次の仕事を持った秘書が入ってきたので一旦はその考えを頭の片隅に追いやったが、やはりそこに辿りついてしまう。最近は吸っていなかったタバコに火を着けて煙を吸い込んでいると、嵐がふらりと専務室に入ってきた。
「珍しいな、ここで吸ってるお前を見るのは」
「…ちょっとな…」
「三神の娘の件か?」
「いや、緑川光の息子から電話があったんだ。その内容についてだな」
「あの子から?」
ふーと紫煙を吐き出して、大して吸っていないタバコを携帯灰皿に押し付ける。専務室は一応禁煙ではないが、それでも滅多にここで吸わないこともあって、灰皿は置いていない。そろそろ禁煙した方がいいのかもしれないが、こんな風に考え事をする時なんかに重宝する事を考えれば、それもなかなか難しいのかもしれない。最近では吸う人間の肩身も狭くなったし、海外では完全禁煙という場所が少なくない。口に残ったタバコの味を消そうと、一口コーヒーを飲んだ。
「用件は何だったと聞いてもいいか?」
「…椿に会わせてくれるそうだ」
「椿に?何で今更?」
「さぁ。俺が知りたいさ。どうもあの子の考えている事が読めない」
「父親そっくりだな。で、行くのか?」
「本当だったら行きたいがな」
「………」
何を言いたいのかわからないが、とりあえずは反対しないらしい。その事をどこか不思議に感じながら、立ち上がって窓の外に目線を送る。既に桜は散り、名残惜しそうに張り付いている桜の花びらをどこか悲しく思いながら、スーツの懐に入っている指輪を取り出す。
光を反射してキラキラと光るそれは、相も変わらず美しい。今日、椿に会ってこれも返さなければいけないと思っている矢先、嵐にそれを見咎められた。
「お前、それ、椿の結婚指輪だろ。一体どうしたんだ」
「…なんで椿はこれをはめたんだろうな。俺だったら、こんな指輪贈らなかったのに」
「は…?お前、何を言ってるんだ?」
「椿はルビーなんか似合わないと思ってた。宝石なんて贈らなかった。ただのシンプルな指輪。それをぼんやりと考えてたのに、椿はこれを指にはめた。なんでなんだろうな」
「楓、お前…」
「ルビーの宝石言葉は『熱情・情熱・純愛』。どれも椿には相応しくないのに、これ以外椿が似合うわけがない。一点の曇りも無い、希少価値のあるピジョンブラッド。椿と同じだな」
信じられないと言った表情で楓を見ている嵐に苦笑して、その指輪を光に透かす。指輪の部分には何も掘られていないが、宝石言葉で十分だと思う。確かに椿の愛は純愛だ。否定出来ないのは、それを一身に受けてきたからだ。
どこか笑い出したい気分でもう一度椅子に腰かけると、嵐が痛ましそうに自分を見ているのに気付いた。
「どうした?」
「楓、お前…」
「椿が来ようが来なかろうが、俺は行って来るよ。ちゃんと話しないといけないしな…」
乾いた笑いをした楓から視線を外した嵐だったが、意を決したように自分も行くと言い出したので内心焦った。
正直椿の妊娠している子供の事など、嵐には聞かれたくない事もある。自分がしてきた事の決着を付けるのに、何故同伴が必要なのだ。どこか憮然とした楓にも一歩も引かない友人に根負けして、結局店に付いたら離れた席で見守っているという条件付きで許可した。
どうせ大地も同席するのでいいかもしれないが、話が確信に迫って来たら大地にも席を外してもらおう。これだけは絶対に譲れなかった。
椿との待ち合わせをしたのは、最近有名なスカイレストランで、楓自身も何回か来た事がある。いずれも相手は違ったが、その中に小百合もいた事を思い出して、心底うんざりした。
後に、このレストランが緑川光が椿に結婚を申し込んだプロポーズの場所だとわかるのだが、今はそんな事を知る由もなく、ただ椿の顔を見たいと思っていた。
そんな勇み勇んだ楓の様子を呆れたように一瞥しながらも、嵐は相変わらず前を真っ直ぐ見据えていた。
指定された席は窓際。席としては絶景のビューポイントで、多分何ヶ月も予約待ちのはずだ。こんな場所を取れるのも、やはり緑川の力がどれほど強いのかという事を実感する。
小百合の会社が倒産、もしくは会社更生法で社長以下役員全員が外されても、挿げ替えられるのは社長以下役員だけで、残った社員達は新たなトップの元で負債の返済という事をしなければいけない。しかしながら、一度信用を失った会社に対しての世間の目は厳しい。それが例え、大手だったとしても。銀行は融資を渋るだろうし、取引先の会社も減るはずだ。そうなったら、緑川の完全子会社にでもなればいいのだろうが、あの追い詰め方を見る限りはそうも行かないだろう。
以前、嵐が言っていた通りに楓と小百合が結婚したとしても、橘の会社が三神建設に手を貸すことは不可能だ。そもそも会社の形態が違うし、いくら不動産関係に強いと言っても施工の会社は他社との契約が済んでいる。今更三神の会社がしゃしゃり出てきたところでどうする事も出来ない。それをわかっているのか、わかっていないのか。まあ、あの社長ならわかっていたとしても、どうしようもないだろうが。
夜景をぼんやりと見ていた楓は、嵐の硬質な声で現実へと引き戻された。
「楓」
「ああ。…来たか…。本当に二人で来たんだな…」
一組の若い男女が店内に入ってきた。ここから見ると、カップルのようにも見えるが、本人達はそういう意識が全く無い。そう、彼等は恋人同士ではなく、『義理の親子』なのだから。
大地がこちらに気付くと、隣の椿を小突いて知らせる。
その振り向いた彼女は、自分があれからずっと会いたいと思っていた椿で。相変わらず茶色い髪は、この前よりも少し伸びた感じがする。パーティーの時のように派手な服装ではない。落ち着いた、椿らしい服だったのだが、それでも美しいと思う自分は相当椿に心奪われている。
幾分痩せた感じもする。これ以上痩せなくてもいいのにと思う。むしろ、以前のような体型に戻れば自分も安心出来るのだが…。そこまで考えて少し自嘲した。自分が安心したとて、椿は喜ばないだろう。彼女を無理矢理抱いた人間になど…。
「お久しぶりです」
「こんばんは、鳥谷部さん。それにご当主も」
「あ…あぁ…」
「久しいな、椿。元気にしていたか?」
「はい、おかげさまで。嵐様、それに楓様、お久しぶりです」
真っ直ぐに自分を見ている、椿の双眸。
それに見惚れると同時に離す事が出来なかった。
そろそろ終盤に差し掛かりました。本編完結は全三十話辺りで収まればいいかなと算段をつけています。




