第21話 真実の重み・・・椿
「三神建設の社長は、違法献金に関わっていると言う噂が昔から俄かにあってね。ただそれが、献金を受けていた議員の圧力でもみ消されていると言う事実があったからこそ、今まで無事でいられたんだ。だが、最近その議員が秘書給与の問題で取り立たされるようになってから本格的に火が着きそうになってきた。もはや瓦解は目の前にある。地検も動きそうだとの情報も入ってきているしね」
うとうとと寝入りそうな位穏やかな時間。優しく髪を撫でる手が気持ちよく、 素肌を通じて体温を感じる事が出来る事を堪らなく幸せだと感じる。
光に抱かれた後、涙が出た。その涙の理由はわからないが、光はそんな椿の涙をキスで封じ、抱き締める事で止めた。
体は大丈夫かと聞かれたが、椿は恥ずかしさから頷く事しか出来ずに、そんな彼女を見て光は少し笑った。
抱かれた直後に小百合の会社の事を聞くのは野暮だったかもしれない。しかし、頭の中に引っかかっていた事でもあった。
椿はおずおずと光に聞いてみると、椿の体の位置を入れ替えるように自身の体の上に乗せた。
そして椿の髪を撫でながら、先の事を教えてくれたのである。
小百合の父が違法献金に関わっている。
まさかそんな事があったとは知らなかった。違法なのだから公になるはずはないのだが、だからと言って法に触れるような事をしているとは思わなかった。
絶句した椿を労る様に、髪に口付けた光は続ける。
「三神建設に技術協力はしているが、私の会社が手を引くのはそれだけではない。私はどうしても、あのワガママ娘が君にした行為の数々が赦せない。あの娘は一度高い鼻っ柱を折られる必要がある。それに、あのように甘やかした父親も母親も。だが、他の従業員達は不憫だな。一生懸命に働いているのに、上が駄目だとこうなる。悪い見本のようなものだな」
「…小百合が私にした事の報復に一つの会社を潰す気ですか?止めてください、そんな事…」
身を起こした椿の頬を手の甲で優しくなぞった光は、ふっと笑顔を見せた。
「心配しなくてもいい。あの社長一家は挿げ替え可能だが、下の従業員達にも助かる道が存在している。さすがに私もそこまで薄情ではないよ」
「…本当ですか?」
「私が君に嘘を付いた事があったか?」
「…無いです。兄と似て秘密主義だけど…」
「そうか彼と…。なるほどね。ほら、おいで。身体が冷えたら駄目だろう」
何と無く腑に落ちないながらも、光の隣に滑りこむ。
さっきまでは汗ばんでいた体も次第に冷えてきたが、それをさせないかのように光は椿の身体を包みこむ。
「三神小百合は妊娠しているようだよ」
はっとして光を見つめると、どこか冷えた目をしていたのを感じて少しだけ身震いをする。光はたまにこういう目をする。大概は楓が関わっている時にこういった目をするのを知っている。という事は、小百合の妊娠の件にも楓が関わっているのだろう。
もしかしたら。小百合のお腹の子供は楓の子供なのではないのだろうか。そう考えた時に、妙にストンと心の中に落ちた。だが、それだけだった。
「あの人の子供なんですか?」
「さぁ?彼女はそう言っているらしいけど、実際はどうだろうね。かなり奔放な娘らしいから、彼の子供じゃないとも言えるし、そうだとも言える。検査を拒否しているそうだから、多分違うんだろうね」
「…そうなんですか」
「気になるか?」
「そうでもないです。酷いかもしれませんけど、小百合が自分で選んだのならそうなんでしょう。きっとね。それがどういう結果を生むかなんて考えてないと思います」
「手厳しいね、君は」
くすりと笑った椿の目元に口付けた光は、「眠りなさい」と言ってそうして椿は眠りに落ちた。
目が覚めた時に既に光は仕事に行っていたが、サイドボードの上にしっかりとメモを残す辺りはさすがに抜け目がないなと思う。
ほのかに光の香りがふわりとするのに少し心が安らいで、もう一度目を閉じた。
次に目が覚めた時にはさすがに昼前だったので、慌てて起き上がり、取りあえずはシャワーを浴びなければと思う。昨夜はあのまま寝てしまったのだが、不思議とベタベタしていないのを見ると光が拭いてくれたのだろう。
そう思うと尚更恥ずかしい。椿は誰もいないのに真っ赤になりながらシャワーブースに行き、鏡を見て更に赤面した。
身体中に咲いたキスマーク。
これが所有の証だというのなら、間違いなく椿は光に所有されている。それを嫌だと思わない辺りは、最早光に囚われているという事なのだろう。
気恥ずかしさからささっとシャワーを浴び終え、リビングに向かう。
すると、昼食を買ってきたと思われる大地が帰って来ているのに気付いた。
「おかえり、大地君。昨日はごめんね」
「ただいま。あぁ、全然いいよ、気にしないで。広い部屋に僕一人で、かなり快適だったから。ルームサービスも結構頼んだんだけど、まぁいいよね。あ、これ。父さんに返しておいてね」
「あ、うん」
一枚のカードを渡される。
限度額無制限のブラックカードと言うやつだ。
結婚した際に、光から自分の分も渡されたけれど、それを使った事はない。買い物はあまりしないし、したとしても現金で買えるような物だったりする。会社勤めをしていた頃に貯めていたお金も僅かながらでもある事だし、ブラックカードを使ってまで買いたいと思うものもないのも本当だ。
そう言えば、小百合はショッピングが好きだった。付き合っていた彼氏は必ず、医者や弁護士などの高収入の俗に言うイケメンの人ばかり。持っている車は外車じゃないと駄目だとか、プレゼントは毎月なんて当たり前、更には別荘を持っている人達を盛大なパーティーを開いただとか。とかく小百合は派手な事が好きだった。
あの小百合を育てた両親も、彼女を悪く言った例がない。学生時代、小百合が何かの賞で一番を取れなかった場合は文句を言いに主催者に怒鳴り込んで行ったり、明らかに小百合が悪い場合でも娘を何が何でも擁護した。甘やかされた娘という表現がまさにピッタリと当てはまるのだが、そんな彼女と親友だと思っていた自分もまた、自分に対しての何かしらの甘えがあったのだろうと思う。
人に嫌われるのが怖くて、どこかで小百合を疑っていながらも結局は問いただすことが出来なくて、そのまま曖昧にしておいた。その結果が、あのネットでのイジメに繋がったのだと思うと情けなくなってくる。そこまで小百合に嫌われる言われはないのだが、彼女には理屈は通用しないのを考えると、単に気に入らなかったという理由だけだったのだろう。
そして、楓の婚約者だった自分に対してのやっかみもあったのかもしれない。
今となっては、本当にどうでもいい事だが。
「うーん……なんとなく予想はしてたけど凄いなー。まだまだ若いね、全く」
「何が?あ、大地君、申し訳ないんだけどオレンジ取ってくれる?」
「ん?キスマーク。ここ、見えてるよ」
ちょんちょんと自分の首を指差した大地は、はいと明るい声で椿にオレンジを差し出した。
大地の言っている意味を理解した椿は、直ぐに真っ赤になってしまい、オレンジを剥く所ではなくなってしまった。それを見た大地は苦笑しながら、貸してと言ってスルスルとオレンジを剥いた。
どこか面白がっている大地を恨めしく思いながら、皿に盛られた一口大にカットされたオレンジを口に運んだ。大地もまた、皿に盛られていないオレンジを一つ口に運ぶ。
「名実ともに、緑川光の妻になった感想は?」
「…え…?」
「お腹の子供、鳥谷部さんの子供でしょ?なんとなく、わかった。だから椿さんは父さんと離婚しようと思ってたんでしょ?」
内心ぎくりとしたが、大地の表情からは非難の色が見えない。どこか心配そうな顔をしている。
どこまでも人の心を読む子だ、この子は。こっちが心配になるほどに。
「……大地君って、本当に心読みすぎ。あんまり人の心読んじゃ駄目だよ?」
「わかってるよ。これでもセーブしてるんだけどね。本気出せば、手に取るようにわかるもん。顔に出やすければ出やすいほど。でも、椿さんの顔。昨日と違う。何か、満たされたって感じ。そんな顔してるって事は、父さんを納得させたわけだ。子供もの事も?」
オレンジの爽やかな芳香が辺りを包む中、ふわりと笑む椿を大地は眩しそうに見やった。そして、満足そうに微笑んだ。
「…そっか。これから大変だと思うよ。この事知ってるのって僕達だけ?」
「うん」
「…あのさ、僕、昨日鳥谷部さんに会ったんだ。本当に偶然に。ホテルで一杯やろうと思って、ラウンジに行ったら橘の当主と二人で飲んでたんだ。まぁ、鳥谷部さんはなんかかなり参ってたけど」
「参ってた?」
「父さんから三神建設の話は聞いた?そう、聞いたんだ。あのね、三神小百合が妊娠したでしょ。その責任を鳥谷部さんに取れって言われてるみたいだよ。まぁ、十中八九あの人の子供ではないと思うけどね。検査も拒んでるらしいし。三神建設の社長も火が着いて来たとは言え、こう来るとはね…。しかも、あそこの家って小百合っていうのが一人娘なんでしょ?だったら、完璧鳥谷部さんが婿って事になるよね。無理言うよね」
そんな馬鹿な。
鳥谷部と三神。どちらが格上かと言われれば、前者の方に決まっている。それはわかり切った事であるはずなのに、娘可愛さで家名を捨てろと楓に詰め寄った小百合の父の厚顔さには呆れてしまう。
それに小百合が検査を拒んだ以上、楓の子供です、はいそうですかとはいかない。家の重みを知っているからこそ、そんな馬鹿げた話が通用する相手ではない。
「まぁ、入婿に納得するわけがないんだよね。よくわからないけど、橘一族の中でも御三家って呼ばれてる名家なんでしょ?鳥谷部家って。だったらそこの所はわかりそうなものだけど、そこまでしても鳥谷部さんを手に入れたいって事でしょ?ねえ、鳥谷部家って小百合って言う人がやっていけそうなの?なんかさぁ、名家って一族のしがらみとかいっぱいありそうだよね」
「…。うん、あそこの家は本家の中でも橘の当主に一番近いからこそ、縛られてることも当然沢山あるんだ。妻になる者にも当然それが要求されるけど、鳥谷部の家を継ぐ楓様はもっと……あぁ、そう…そうか…」
「ん?」
「楓様が結婚を嫌がっていた理由。今更わかったなーと思って」
苦笑しながら椿が話すのを聞いていた大地は確かにねと言って、少しだけ笑った。
楓が今の今まで結婚を先延ばしにしていた理由。
結婚という一つの節目を迎えてしまえば、楓は『家』のしがらみから抜け出せなくなる。妻帯した者は否が応でも責任が付いて回るし、跡取りをもうけるために好きでもない、色気のない自分を抱かなければいけなかったのだ。それが嫌だったからずっと自分との結婚を伸ばしていたのだろう。
自分が三十前に結婚するはずだったと言った楓の言葉は嘘ではなかったのかもしれない。
しかしながら、生きている以上未来がどうなるのか全く予想が付かない。
確かに結婚した後には隣には楓がいたのかもしれないが、外に何人もの愛人を作っただろう。だとしたら、自分の価値は子供を産む道具でしか無かったのだ。
今となっては、タイムリミットは既に解除され、楓がするはずだった結婚への秒読みは椿の命の灯火が消えるカウントダウンへと変化した。それが良い事だったのかはわからない。ただ、その爆弾処理をしたのは椿だし、その後の椿をフォローしたのは光だ。
もういちいち楓の事で悲しむのは止めた。
自分には光がいる。そして、父親は違えども子供もいる。そして、こうして気楽に話せる友人のような関係になった大地も。
兄も勿論、最近では会う事も無くなってしまった蝶子も、秋も。
自分が捨てたものは沢山あった。
仕事や、友人や、家名や、婚約者。
だけど、それを後悔はしていない。後悔なんてしている暇なんて、自分には残されていない。
今を一瞬、一瞬大切に生きる。
光を愛して本当に良かった。
あの人に逢えた事は、自分の命が消える事への最後の奇跡なのかもしれない。
「ふふ…私、大地君に会えて本当に良かった」
「何、急に…。なんか気味悪いからやめてよね」
遠慮なく嫌そうな口を利くのは、大分打ち解けた証拠なのだろう。大地と話すのも当初の気詰まり感が無くなってきた様に思える。そう言えば、大地は大学が休みだから帰国したと言っていた。そろそろあちらに帰らなければいけないのではないだろうか。
「わかったわ。そう言えば大地君、あっちにはいつ帰るの?」
「あー、そうそう。そろそろ帰らないといけないんだ。来週にはイギリスに戻るよ」
「そうなの?随分と急だね。久しぶりの日本は堪能できた?お土産で荷物一杯になっちゃうんじゃない?」
「まぁまぁだったかな。お土産は沢山買ったから、あっちに送ればいいから大丈夫。ねぇ、椿さん。僕があっちに帰る前に約束してくれない?」
「何?」
「ちゃんと鳥谷部さんと話して。椿さんが一人よがりの決着付けちゃ駄目だよ。なまじお腹の子供の父親は彼なんでしょう?だったらちゃんと話して。それで、鳥谷部さんにも引導を渡してあげて」
笑みを消して椿を見つめる眼は真剣で、これがいつもの大地の雰囲気ではないのはわかった。しかし、うんと簡単に頷けるものではない。
楓は椿の事を嫌っている。それこそ、椿を無理矢理抱くほどに。確かにお腹の子供の父親は楓だ。だが、それを楓に言うつもりは無かったし、折角落ち着いた話を穿り返すのも如何なものか。
だが。
大地が言った、椿の一人よがりの決着という言葉。確かに、自分は楓と何も話し合った事が無かった。雰囲気で嫌われているとわかっていたからこそ、要らぬ手間をかけさせるわけにはいかないと思っての事だったが、確かにそう言われればそうなのだろう。
また罵倒されるかもしれないと思うと、身体に震えが走る。それに光も許可してくれるだろうか。
そう思った矢先に、大地が「父は僕に任せて」と請け負ってくれた。
「……大地君が同席してくれるなら…」
「いいよ」
「怖いなぁ………」
「ちゃんと椿さんの思った事を話せばいいんだよ。そしたら、その恐怖心から解放されるはずだから。ねぇ、椿さん。忘れないでね。僕も父さんも、椿さんの味方だからね」
「…味方…?」
「そう、味方」
知らず冷たくなっていた手を大地の温かい手で包まれる。父親に似て温かい。
ふっと笑んだ椿に、大地はつられて笑った。
そうして三日後、椿は大地と一緒に楓の待つ店へと向かった。
実際の会社関係の事はよくわからないので、詳しい事は突っ込まないでください…。