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第20話 無様・・・楓

自分が失ったものを考える。


取り立てて美しくも、かといって可愛いわけでもなかった『婚約者』という名の、未来の枷。




椿と初めて会った時の事を覚えているかと言われれば、正直微妙なところだ。


あの顔合わせの日、確か所属していたサッカーチームの大事な試合があった。しかも大きな大会の決勝戦。自分はチームのFWのポジションでしかもキャプテンだったのに、その顔合わせというもののせいで試合に出られなくなった。

試合開始は午前十時。本家での約束の時間は午後二時。だったら試合に出たいと両親に散々ごねたものの、結局は試合に出れなかった上に、試合にも負けたと友人から連絡があった。自分が出ていれば勝てていたかもしれないと、事情を知らないチームメイトからは暗に責められた。

自分のせいではないと言うのは簡単だ。実際、こんなくだらない茶番のような顔合わせになんの意味があるのか全くわからなかった。


婚約者である敷島椿という少女は、楓よりも六歳も年下で、まだ小学校に入学したばかりの乳臭いガキだった。

椿の兄である(いつき)は自分よりも年上で、しかも御三家の一家である御崎家嫡男海斗と仲が良かった。二人とも剣道を習っていたと言うのもあるのかもしれなかったが、性格も馬が合っていたのかもしれない。

とにかく、一つ上の海斗と樹は、自分と嵐のように一緒にいるのを見かけていたりしたので、覚えていたのだ。


敷島家に関して印象に残っているのは、正直そんなものだった。

それが今から何年後に本当に結婚するかもわからないばかりか、何故今こんな事顔見世を行なうのかが心底謎だった。

当時、当主をしていた橘の御大に聞いても、ふふんと笑うばかりで要領を得ないし、だからと言っても大人達の決めた事にあれこれ言えるはずもなかった。

どうせ椿が結婚出来るまでは十年もかかる。それまでに婚約自体を考え直せばいいし、十年の間に精々自分と婚約出来たという幸運を喜んでいればいいと、非常にほの暗い考えを持っていた。


そしてむっつりとしたまま通された座敷には、よくパーティーに来ている敷島夫妻とその息子の樹、そして娘がちょこんと座っていた。

確かあの時も着物を着ていたような気がする。



「しきしまつばきです。どうぞおみしりおきくださいませ、かえでさま」



ガキのくせにやけに格式ばった言葉を使う。

関心はしたが、それだけだった。

とりたてて綺麗でもないし、可愛くも無い。強いて言えば、赤くなったほっぺが子供っぽいと思っただけだった。

これがこの先どういう風に成長するのか。しかしながら、この分だと期待は出来ないかもしれない。六つも下のこんなガキに、これからの人生を縛られるのは理不尽だ。


だから、楓は徹底的に椿を無視した。

当時から楓は女の子に人気があったし、彼女らしき女の子もいたのだが、婚約者がいるという縛りもあって、いつも本気にはならなかった。好きという気持ちがわからないまま、ただ寄ってくる者にいい顔をし続けた。その良い顔をするリストの中に、椿が入っていないのは当然だった。


楓が中学生になると、本格的に女が寄って来た。

初体験は一族の未亡人だったような気がする。とにかく初っ端からの強すぎる快感に逆らえずに、そのまま体だけの関係を持つ女ととっかえひっかえの付き合いになった。それも次第に飽きてくると、頼んでも無いのに寄ってくる女達と、一夜だけの関係を持った。

そんな関係が高校生にもなると、次第に周囲にばれた。と言っても、くどくどと説教を言うのは嵐だけだったが。

そんな中、唯一海斗にだけは容認されていた。

何故なのかはわからない。椿の兄である樹と仲がいいのにも関わらず、さも面白そうに「椿がかわいそうだなぁ」と言うだけだった。

それに対しての返事はしなかった。



大学に入る頃には完全に椿は名前だけの婚約者と化し、必要以上に接しなかった。

たまにパーティーで一緒になっても楓が完全に無視をしているので、椿が寄ってくることは無かったし、興味が無かった。



名前だけの婚約者。



実に滑稽。



それで椿が去った今、ごちゃごちゃと何を言う。



椿がイジメられていた。それも親友だと信じていた小百合に。


椿が精神科に通っていた。イジメのせいで。


椿が何を考えて、何を思っていたのか。自分は何も知らない。


否、知ろうとしなかった。


何故?



答え。




必要なかったから。




椿は自分に必要のない女だったのだろうか。




答え。





わからない。





「………ぇで、おい、楓!」



はっと周りを見回すと、目の前に嵐がいた。

何故か心配そうな顔をしているが、そうやら思考の渦に落ちていただけだし、それを少しだけ笑って何でもないと手を振って答えるに留めた。



大地が放った一言は強烈で、なかなか浮上出来る物ではない。

あの子供は、父親の血を引き過ぎている。

憎憎しげに思いながらも、楓は嵐に向き直った。



「お前、大丈夫か?顔色悪いぞ」

「…あぁ。大丈夫だ。……なあ、お前、あの話全部知ってたのか…」

「………ああ。知ってた」

「…っ!だったら何で俺にっ!」

「お前に言ったからってどうなったと思う?きっとどうにもならなかっただろうな。知りたいんなら教えてやる。椿が精神科に行っていたと言うのは本当だ。凄まじいくらいのイジメを受けていて、インターネット上にも椿の個人情報やらデマが乱発していた。それを全部出る度に削除してたのは柏木秋(カシワギシュウ)だ。彼も椿を実の妹のように思ってたらしいから。一応彼から報告は受けてたし、削除してくれとも頼んでた。婚約者だったお前じゃなく、『俺』がな。ま、俺はそれをお前に言った記憶があるんだけどな…その態度を見る限り、覚えてないんだろう?」

「…い…いつだ…?」

「な?それすらも忘れてるだろ?なあ楓、もう椿の事は考えるなよ。だいたい…お前は椿と縁が切れたのに、何で今更あの子に構おうとするんだ?」



悲しげに瞼を伏せた嵐を見ながら、そうなのかもしれないと思う自分と、諦め切れない自分が混在している。

確かに、今更事実を知ってもどうにもならない。椿は緑川光と結婚してしまった。それでも、贖罪に近い感情でもいい、椿との縁が切れてしまったとはどうしても受け入れがたかった。



「なあ………椿が何を思って、お前から離れたのか。その理由を知りたいか?」

「あ、あぁ…」

「椿は疲れたんだそうだ。お前が一向に自分の方を見ようともしないのを、今まで必死に我慢してきたが、三神の娘とお前が一緒に歩いてホテルに入るのを見た時に、もう駄目だ、もう限界だと思ったんだと。一族の女でも動じなかった椿が、親友だと思ってた女に裏切られお前からもう自分に対する遠慮だとか、躊躇だとか全く無くなった事に絶望したんだろうな。

幻想は解けた。と言っても、椿の幻想は自身にとっては全く優しくなく、むしろ現実と同意義だった。夢も希望も、楓、椿はお前に全てを委ねてたのにも関わらず、それをお前は拒否するだけじゃなくて、無視して拒絶したんだ。今頃になって椿が何を考えていたのか、何を思っていたのかと推し量ろうとしたところでもうそんな事全部は過去だし、もう意味は無いだろう。

椿の未来は緑川光が担った。だから、楓。椿の事は考えるな」



容赦の無い言葉。

親友だからこそ、ここまで遠慮なく言ってくれるのはわかっている。それを有難く思うも、やはり諦め切れない。

椿が疲れたという言葉を使った。そして、それを使わせたのは紛れもない、自分自身。


うんざりしているのは自分だけだと思っていた。

望まない婚約をして、嬉しくも無い婚約者を押し付けられて。年下の妹のような存在でしかない彼女を全く見ていなかったのは、他でもない自分だ。

椿はずっと、十八年間も自分を見続けた。苛められても、嘲笑されようとも、それを必死に押さえ込んで笑んでいた。今ならわかる。あの笑顔の裏に隠された、本当の嘆きにも似た慟哭を。


手を放したのは椿だ。だが、放させたのは自分。

椿が何を考えているのかわからない。知ろうとしなかったから。知りたくも無いと思っていたから。

だったら、今も知りたくないと思えばいいはずなのに、それが出来ないのは何故なのか。



ふと脳裏に、先日のパーティーの時の椿がよぎった。

楓を散々(さいな)んだ、赤いドレスと煌くダイヤ。あの時、椿は幸せそうに笑んでいた。隣に立っていた緑川光に向かって。お互いに視線を交し合う、それはまさに幸福の絶頂にいる二人だった。


自分には、ああいう風に笑んだ椿を見た記憶が無い。

記憶の中にある椿は、感情を押し殺したかのような笑みしかしなかった。決して感情を表に出さない椿は、確かに鳥谷部家の嫁に相応しいものだったのかもしれない。だが、もう少し年相応らしい顔をすればいいのにと思った事が何度かある。それをさせなかったのは自分のくせに。

椿には、喜怒哀楽というものが無いのかと思った事は一度か二度ではない。感情を表に出さない。イコール、楓が何をしても文句を言わないという事だ。本当に好いているのであるならば、寄ってくる女のように嫉妬というものをするのではないのか。それをしないならば、本当に好きとは言えない。ただ単に、婚約者に恋をしたという事に酔っているだけだ。


所謂、『恋に恋する』というやつなのだと思っていた。



だが、手を放されて、それが事実ではないと思い知らされる。

散々他人から知らされた椿が置かれていた状況と、自分がしてきた非道な数々の行為。謝罪しなければと思う反面、そんなに耐えてきたのに何故今になって自分から逃げたんだと思った。椿は自分のものだった。今までずっと。



十八年。


ずっと耐えてきたのは自分だけだと思っていた。それが、今、根底から覆される。ずっと苦しさに耐えていたのは、自分ではなく、椿の方だった。しかし、それを認めるのが怖くて。何故今更になって離れたんだと憤って。


本当に…全くの見当違いも甚だしい。そんな逆ギレのような状態で、椿を責めた。彼女は悪くないと頭のどこかで考えながら、わかっていながらも椿を責めた。


その結果がコレだ。


椿の子供…。


大地が言い残していった最後の言葉を思い返せば、やはり椿の子供は自分の子供ではないのだろうか。そんな子供を、あの緑川光が出産していいと許可するだろうか。

嵐には言えない。椿の子供が自分の子供かもしれないという事は。実際、あの後処置してもらって、妊娠したのは緑川光の子供かもしれない。だが、第六感とでも言えばいいのだろうか、椿が妊娠している子供の父親は自分だと言う確信に近いものを持っていた。

小百合の腹の子供はそんな第六感は働かない。むしろ、強烈なまでの嫌悪感を感じてしまう。生まれてくる子供に罪はないとわかっている。しかし、子供が親を選べない以上、小百合が母親だという事実は変わらない。そして、自分がその父親になるつもりもない。



嵐と別れ、自分のマンションに戻って来ても考えるのは椿の事。


楓も、どんなに嫌がっていようが結局の所は椿と結婚するつもりだった。どういう家庭を築きたいとか、どういう夫婦になりたいとか、そんな細かい事は全く考えておらず、ただ漠然と椿とこのまま結婚するんだろうなと思っていた。

その時には関係と持っていた女達とは手を切ろうと思っていたし、外で浮気の類をするつもりも無かった。

当然、子供の事も漠然とだが考えたことがある。鳥谷部家の嫡男として、男子は必須、一人目で出来れば万々歳。例え女子であろうと、男子が生まれるまでは諦めないつもりだった。最悪、生まれなかったとしても、二人か三人は女子でどれかに婿を取らせればいい話だと考えていた。

愛の無い結婚生活だったとしても、そこには家族が出来るのだし、そこで椿に対する興味も湧くかも知れないと思っていたあの頃の自分はなんと愚かなのだろう。


椿の事を全く配慮しないで、自分の考えだけを専行させた。


結果、椿を失い、挙句既に傷付いている彼女を更に傷付けた。



椿に謝りたいと思う。

それが、自分の罪を軽くするだけの独りよがりな贖罪だとしても。


散々泣かせてきた椿が折角幸せになったのに、それを叩き落としたのは自分。


椿を幸せになど出来ない。こんな穢れきった手では、椿に触ることすらも憚られる。





そう言えば、本家のツバキはまだ咲いているだろうか。


先日椿を追い出した一件以来、御大の顔を見ていなかった。久しぶりに将棋を指しにいくのもいいのかもしれない。塞いだ気分を、御大の皮肉で吹き飛ばすのもいいのかもしれない。

そう考えて本家に連絡を入れると、機嫌良く御大が出てくれ、後日窺うと約束した。その時、庭のツバキはまだ咲いているかと聞くと、咲いていると言うので少しだけ笑む事が出来た。



「久しいな、あの一件以来か」

「そうですね」

「また随分と厄介な事に巻きこまれたようだのー。ま、あの甘やかされた娘ならしょうがないがな。どことなく柏木の娘に似とるの」



御大はくつくつと笑いながら、盤上にある『歩』を進めた。美しく整えられた庭に面した縁側で指す将棋は、文句無しに気持ちが良い。桜の季節は過ぎたとは言え、春の風が心地よい。御大の動かした歩を取ると、楓は『角』を動かす。待ったなしと先に言っておかなければ、容赦なく待ったをかけられるのだが、それでも結局御大は負ける。どこか愛嬌のある行動が憎めない。



「む…そうきたか…」

「わかってると思いますけど、待ったなしですから。それにしても、相変わらず庭が美しいですね」

「そうだな。今年でツバキの花も見修めだし、しっかりこの目に焼き付けておかねばならん」

「は?今年で見修めとは…?」

「先日、お前が椿を追い出した時。その時に椿に頼まれた。『今年あのツバキが花を付け、花が落ちたら抜いてもらえませんか』とな」



思いもよらない話に、楓の目は庭で今を盛りと咲くツバキの花に寄せられた。庭に植えられているツバキはそう多くない。しかし、赤と白の対比が美しく咲き誇るそれが、今年限りだとはどういう事なのか。しかも、それを頼んだのが椿だという事も楓を驚かせた。

あのツバキは御大が植えたもの。それを元に楓と椿の婚約が成された。そんな因縁めいたツバキの樹をこの庭から失くすという事は、本当に椿との縁が切れたことを証明するようなものだ。


ぱっくりと開いた傷が今も癒える事なく、どくどくと血を流す。そんな感傷に浸る権利はないとわかっていながらも。沈痛な面持ちをした楓を見据えて、御大はずずずと茶を飲んだ。



「ツバキの花言葉を知っとるか」

「…いいえ…」

「『理想の愛』」



パチンと駒を進めた御大が、楓に次の一手を促す。



「赤のツバキは『気取らない美しさ』、白のツバキは『理想的な愛情』。落ちる姿に似合わず花言葉は優美よな。まあ潔く落ちる様もワシは好いとるが」

「………」

「子供の頃から思上がっていたお前には過ぎた相手だった。ワシも間違いを犯した。その最たるものが、お前の許婚を椿にした事だ。それが無かったら、椿は幸せに平凡だろうが何だろうが、ツバキの花言葉の通りに理想の愛を見つけていただろう。本当にあの子には申し訳のない事をした。今更遅いがな」



その言葉を聞きながら打った一手は、物凄くまずい手だったのはわかっていた。それでも、動揺していた頭ではその駒しか目につかなかった。



「椿のような気取らない美しさより、三神の娘のような見栄えのある虚構の美しさを取り、そのくせ椿から男にとっては理想的な愛情を注がれ続けたお前は、甘ったれ以外の何者でもない。自分でもようやく愚かだと気付いたのか?そんな事をお前が感じる必要は無い。楓、お前は今までの様に椿に対して冷たい態度を取っておれば良かった。にも関わらず椿が離れた途端、お前はそれをしなくなった。自分のものだと思っていたものが勝手に己が手を離れた途端、駄々をこねるようにな。全く、童と一緒だ。玩具を欲しがって無く童。無様すぎる。それが今のお前だ、楓」



ぐうの音も出ずに、王手をかけられた盤上を黙って見ていると、頭に御大の掌が乗せられた。昔はよくやってもらったが、さすがにこんな子供じみた事は小学校の高学年に上がる頃以来されていなかった。

懐かしい温かさに、思わずぐっと胸が詰まった。そんな楓を見た御大は、静かに庭に目を移しながらも、しっかりと楓の手を握り締めた。



「馬鹿な奴ほど可愛いと言うが…お前は愚かすぎる。まあ、そこに至るまでワシらもなんとも出来なかったのも悔やまれてならん」

「…ははっ…そうですね…」

「泣くな、みっともない」



頬を流れた、熱い水。

その正体を追求する事はしなかった。


ただ、庭のツバキの花が音も立てずに落ちたのを見て、無性に椿に会いたいと思った。


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