第2話 婚約破棄、そしてこれから・・・楓
「本気でムカつく」
「何がムカつくんだ。せっかく晴れてフリーになったって言うのに、言うに欠いてムカつくか。俺としてはもっと喜ぶかと思ってたんだがな」
鳥谷部楓は、苛立たしげに鉛筆を一本折った。
そんな楓を頓着無しに咎めたのは、楓が勤めている会社の社長…もとい、本家の当主の男だ。名を橘嵐という。音だけで聞くと女のような名前だが、れっきとした男である。
そんな嵐は、へし折った鉛筆を弄びイライラしながら机に向かっている親友である楓を見て、ため息をついた。
楓は贔屓目無しにいい男だと思う。それがよきにせよ、悪しきにせよ。
楓は数週間前に、長年婚約していた椿から婚約破棄を申し出された。嵐などからすれば、ようやくとも思えるソレは、楓にとっては腹に据えかねる事だったらしい。未だにグチグチと言っている。
「なにがそんなに腹が立つんだ?お前は椿から解放されたんだ。俺はてっきり嬉しいのかと思ってたんだが、違うのか?」
「もう少し待てば、結婚してやるつもりだったんだんだぞ。俺だってさすがに椿が三十になるまでには結婚する気だったさ。それが、婚約破棄だと?それも椿から。あいつ、一体何様だと思ってるんだ。するんだったらこっちから、もっと早く破棄してたって言うのに!」
「俺からすれば、お前の方が何様だって言いたいけどな。『結婚してやる』ねぇ…傲慢だな、お前は」
そうボソッと呟き、ひらひらと手を振って楓の部屋を出ていく嵐を睨みつけた。楓はこの会社では、専務の職に就いている。嵐が出て行って、入れ違いに秘書が書類を持って楓の机に置いた。
楓は、自分の秘書にするのは男だけだと決めている。派手な私生活とは違い、仕事上では容赦ない楓は、職場での恋愛関係は持ち込まないようにしていた。と言っても、あくまでも退屈しのぎの遊びのようなものだが。
椿との婚約は、ただ単に橘の御大の一存だったと言う理由しか無かった。
それなのに、愚かにも椿は楓に本気で惚れていたらしい。別に好意を持たれることに悪い気はしないが、椿の好意は鬱陶しいの一言に尽きる。
常々そう思っていた楓は、何とか婚約を白紙に戻そうと奔走したのだが、突然敷島夫妻が急死した。
両親と言う後ろ盾を無くした椿とこの時婚約破棄する最大のチャンスだったのだろうが、さすがにその時はそんな無神経な事は出来なかったし、そもそも御大がそれを許さなかった。
両親を亡くした敷島兄妹は、一気に窮地に陥った。当時まだ学生だった椿の兄だけでは後ろ盾にすらならない。その時に一族の中からは白紙に戻すべきとのかなりの声が上がったものの、橘の御大と鳥谷部家の両親が後ろ盾に付いたことで一応の決着はつけたけれど、それでも納得出来ない外野は五月蝿く言うものだ。にも関わらず頑固に椿は婚約を守り続けた。
楓としては、留学を機にもう一度婚約を白紙に戻そうと思ったのだが楓の一存だけではそれが出来ずに、苦々しい思いで今まで至っていた。
それなのに、椿自身からの破棄の申し出はいとも容易く許可され、結局は呆気ないほど簡単に長すぎた婚約期間は終わった。
婚約破棄をしてから椿は変わった。少なくとも、そう聞き及んでいる。
今まで参加しなかった合コン関係にも積極的に参加し、性格まで明るくなったと評判だ。と言っても、楓自身が椿に会って話す事は無い。この書類を持ってきた秘書も、確か何日か前に椿との合コンだ何だと言っていた様な記憶がある。どうやら付き合うだなんだと言う事は無いらしいが、それでも忌々しい事には変わりない。
楓は不機嫌な態度そのままに、引ったくるように書類を受け取ると、むっつりとその薄っぺらい紙と向き合った。秘書の男が少しだけ顔をしかめたのは気付かないふりをして、しばらく書類を眺めていると、廊下に通じる専務室のガラスからよく知った女が、重役フロアを真っ直ぐ歩き、そのまま社長室に入って行くのが見えた。
…椿?
だが、彼女の風貌は長年婚約者のポストを埋めていた楓が知っているものとは全く違っている事に、単純に驚かされた。
「…随分バッサリいったな…」
秘書が独り言のようにして言った言葉が、やけに心に波紋を広げた。
楓が知っている椿の髪型は、ただひたすら黒く長かった。それこそ、平安時代の女かと揶揄したい程に。大概長すぎる髪をひとまとめにしてアップにしているのが常だったが、先程目にした椿は、あの長かった髪をバッサリ切り、うなじが見える程短くなっていた。色も黒一色だったものが、今や金に近いほど茶色い。
うちの会社はそこまで服装に煩くないが、あれはやり過ぎだと思う。その事で嵐に呼び出されたのかと思った。
秘書に決裁した書類を渡し出て行かせると、同時に携帯が鳴った。まだ仕事をしている時間だと言うのに、関係なくかけてきたのは、ここ最近頻繁に会っている女だ。
そう言えば、この女は椿の親友だと言っていた気がする。それがどうだ、親友の婚約者と罪悪感に駆られることなくおおっぴらにホテルへと行く仲になっている。
全く、女の友情とは実に薄っぺらいものだ。
しかし最近、婚約破棄をしてから椿からの連絡が途絶えたらしい。まさか椿が気付いているのかと思ったが、別に今更知られた所で痛くも痒くもない。
電話を取ると、甘えた声で今日逢えるのかと聞いてきたので、是と短く答えた。満足したらしい女は、椿の事を聞いてきた。一丁前に椿の事を心配しているらしい。裏切ったのはこいつのくせに…と鼻で笑った。
楓の耳に入っている範囲内だけ話すと驚いた声を上げていたが、どこかほっとしたような様にも聞こえた。椿が変わった事で、女の贖罪は済んだとばかりにあっさりと切られた電話をスーツにしまう。ちょうどその頃、椿が社長室から出て行くのが見えた。
腹立たしいが、婚約破棄をしてから椿はみるみるうちに変わっていった。そして美しくなった。それは認めざるを得ない。
今もともすれば、下品とも取られかねない明るすぎる髪色は、椿の顔にしっくりきているし、ポブカットの絶妙な髪型も様になっている。ここからだと顔しか見えないが、自分の知っている椿の身長よりも幾分高めに見える。きっとヒールの高い靴を履いているのだろう。そこまで考えて、馬鹿らしくなって目線を書類に戻した。
だが一向に集中出来ない。
婚約破棄をしてから、両親に詰られるだけ詰られた。自分の娘のように可愛がっていたのは知っているが、まさかあそこまでとは思っていなかった。挙げ句、楓が誰と結婚しようが興味はないとまで言い切った。母親だけではなく、父親も暗に楓を責めていたが、普段無口な為に雰囲気でしかないのだが、逆にそれが父の怒りの深さを物語っていた。
そして、楓がフリーになったと知れた途端、何度となく見合いが持ち込まれた。実家にはあらゆる家柄からの釣書も届いているらしいが、楓の両親は勝手にしろと言い切っただけあってその釣書を見ようともせず、今やうずたかく積まれたままになっている。
確かに椿が三十になる頃には結婚しようと思っていた。
もちろん、結婚相手は椿しか考えていなかった。途中それを止めようと思ったが、結局の所は椿以外と結婚する気はなかった。だが、それまでは結婚という縛りに囚われるのが嫌で、散々好き勝手にさせて貰おうと思っていたのだ。今更、婚約破棄をしたって、次の結婚相手なんて直ぐに見つかる筈もない。
変わっていく椿に今更どうのこうの言う必要も権利も無いし、今までだってそうだった事を思い出して、ようやく仕事へと戻った。
少し残業したものの、女との待ち合わせには間に合いそうだと思って腕時計を見ると、社長室にまだ嵐がいるのが見えたので、終業の挨拶がてら嵐に先程呼んでいた椿の事を聞いた。あの明るすぎる髪型に難色を示した、それを言うために呼び出したのだとばかり思って。
「椿?今日で仕事を辞めたから、その関係で呼んだんだ」
「…辞めた…?…何故…」
「お前には関係ない」
にべもなく言われた。それで話は終わりだとばかりに、さっさと自分の仕事に戻った嵐を呆然と見ていると、それに気づいた嵐が訝しげな顔をした。
「なんだ」
「椿は…一体どうしたんだ?髪型といい、仕事だってそうだ。何故いきなり全部を変える必要があるんだ?」
楓がそう言うと、呆れた顔をした嵐が子供を諭すようにゆっくりと、だが容赦なく楓の事を非難した。
「今更お前がどうこう言う事でもないだろう。確かに椿はお前との婚約を破棄した。それだけなのに、なんでお前が椿を気にかける。まさかお前が、あの子を心配しているのか?違うな?そんなわけはないな?お前は椿を嫌っていたんだろう?嫌っていた女がどう変わろうが、お前には関係ないだろう。
と言うか、お前がそんな事を言う資格も権利もないだろう。それを言えるのは嫌われていた椿だけ。ずっとお前に嫌われていたことをわかっていながら、それでも我慢していた椿だ。それがようやく椿は受け止め、そしてお前が好きだったという思いを昇華させたんだ。それをお前が無碍にしてどうする。
いいか、楓。椿に心底興味が無かったお前が、婚約破棄という事態に陥ってからようやく椿の事を気にかけようとした所で、今更遅い。全ては始まる前から終わっていたのに、それに抗っていたあの子がようやく抵抗を止めて、現実を受け入れたんだ。それを邪魔する権利なんて、お前にはない。
いいか、これからも椿に一切関わるな。なに、簡単じゃないか。今までと同じように他の女と遊んで暮らしていればいいんだ。それを嘆く椿はもういない。好きなだけ快楽主義を極めればいいんじゃないか?」
あまりの言いぐさに腹が立ったが、嵐が再び書類に目を落としたのを見て、釈然としない気分のまま社長室を出ようとすると、書類から目を放さないまま、嵐は楓の背中に言葉をかけた。
「それから」
出ようとした時に声をかけられ振り向くと、何を考えているのか読めない表情で、嵐は視線だけを楓に寄越した。
「椿が結婚するそうだ」
女との待ち合わせ場所にどうやって行ったのか全く覚えていない。
気が付けば、いつものホテルのいつものベッドで、女を組み敷いていた。
嬌態を見せ、喘ぐ女を見下ろしても一向に気分が高揚しない。乗らない気分のままに何度となく女をイカした所で、意味が分からないくすぶる怒りが収まる事がない。女が何度目かわからない絶頂を迎えた時には、楓の気分は最高潮に悪かった。
息も絶え絶えに楓の様子を不審がった女は、何の考えもなしに両手で楓の頬を包もうとしたが、その瞬間、その手を思い切りたたき落とされた。驚いて彼を見ると、身体を引いて、いつもは吸わない煙草に火を点けていた。
「ど…どうしたの…?」
「何でもない。もういい、お前は帰れ」
「…ちょっ!な、何で、どうしたって言うのよ!」
「くどい、お前の声煩さすぎて頭に響く」
そう言ってバスルームへ消えた楓は、一向に収まらない怒りを冷たいシャワーを頭から浴びて冷まそうと思ったが、無駄だった。
ブルッと頭を振って、滴る雫を払う。バスローブを羽織って、部屋に戻るとまだそこに女がいたのに、ますます気分が降下する。
「なんだ…まだいたのか」
「…あたし何かした?楓さんを怒らせるような事、した覚えがないんだけど…」
涙ながらに訴えた女は、未だにベッドにいた。スラリとした肢体はまだ何も身につけておらず、シーツだけを纏わせている。とても扇情的な光景だが、如何せん状況が悪すぎる。女のその態度が更に癇に障った。
楓は着替えながら、この女とも終わりだなと妙に冴えている頭で考えた。椿を出し抜いたつもりだろうが、結局は単なる遊び相手にしか過ぎないのに、夢を持ったらしい。
楓と結婚出来ると言う愚かな夢を。
――椿が結婚するそうだ――
椿が結婚する。
嵐は相手が誰なのかまでは教えてくれなかった。お前が知る必要はない、の一点張り。確かに知る必要はない。しかし、それが腹が立つ。
婚約破棄をしてから僅か数週間。その間、散々合コンで遊んでおいて、あっさりと結婚した事が猛烈に腹が立つ。そんな女だったのか。だったら結婚しなくて良かった。自分の人生をそんなバカな女に握られていた事に腹立たしさを感じ、何か一言言ってやらなければ気が済まない。
そう言えば一ヶ月後、本家主催のパーティーがある。分家である敷島家にも出席が義務付けられているからには、椿も来るはずだ。そう考え、楓は未だにベッドでしくしく泣いている鬱陶しい女を横目で見やり、口元にらしからぬ笑みを浮かべた。