第19話 妊娠・・・楓
この話はフィクションです。
団体名は作品の中だけの、あくまでも創作の範囲ですのでご了承ください。
「ふざけるな!そんな事なんぞ承諾するはずがないだろう!!」
三神建設の重役フロアの一室で、一人の男の怒声が響く。イライラと立ち上がり、飢えた獅子の如く歩き回っているのは楓だ。
小百合の父親に呼び出されたので渋々来てみれば、話の内容は案の定小百合の腹の子に対する責任を取れとの事だった。
しかし「はいそうですか」と素直に認める事は出来ない。
自分が父親だと確証を得るためにDNA検査をするように提言したがすぐさま却下され、それからずっと話し合いは平行線を辿っている。
そこまで自分の子供だと言い切るのならば、DNA検査だってあっさりと承諾出来るだろう。それを難癖を付けて拒否するという事は、楓の子供ではないと言っているようなものだ。
生憎小百合は同席していないが、父に相当なプレッシャーをかけたのであろう。今も小百合が手ぐすね引いて待っているに違いない。
一人娘である小百合を盲目的に愛し、『我慢』と言うことを教育方針から外していたらしい小百合の父は、根本的に娘に甘過ぎる。こんな茶番のような話し合いで、本気で楓と小百合を結婚させるらしい。
楓には一切知らされていないまま、いつの間にか式の日取りと式場まで決められていた事に激怒した楓が怒鳴り付けると、全く意に解さない風におどけて見せた小百合の父に、楓は呆れと怒りの度合いを否応無しに増しただけだった。
挙句、小百合は一人娘で婿取りだからと言って楓を婿に迎えるような事まで持ち出され、既に限界寸前だった堪忍袋の緒がブチ切れた。
「鳥谷部と三神、どちらが格上だ。常識で考えたら、次代を担う俺が婿入りだなんぞありえない事だとわかりそうなものだろうが!!」
「常識だと!?結婚前の娘を妊娠させたのは、誰あろう貴様だろう!」
「だから俺は子供の父親ではないと、何度言わせれば気が済むんだ!!どうしても俺が父親だと言うなら、DNA検査の結果を持って来い!!」
平行線を辿っていた話し合いは、いつしか怒鳴り合いへと様変わりし、結局全く埒があかないまま話し合いは双方共に妥協案を見出す事すら出来ずに終わった。
小百合の父は式場こそキャンセルすると言ったものの、キャンセル料金は楓が払うようにと怒鳴りつけ、その言葉通り後日式場からの請求書は楓に回ってきた。
その式が行われるチャペルと披露宴をする予定だったホテルの名前を見て、楓はバカバカしいとばかりに嘲笑いながら書類を叩きつけた。
チャペルはともかく、どう考えても不相応としか思えない規模の披露宴会場。千人収容の披露宴会場は、嵐の時とほの同じ規模で、しかもどういうコネを使ったのかわからないが、予約を取るのが一番難しいはず六月の予約だった。
もしも当たり前に式を上げるのであれば、相当額が支払われていただろう。当然キャンセル料も多額である。
しかし、これでこの厄介な件が片付くなら…と三神社長の言う通りに支払ったのがまずかったらしい。
小百合の着る予定だったウェディングドレスやらのキャンセル料、ジュエリーのキャンセル代金など全部が、次々と楓名義で回ってきたのである。
さすがに業を煮やした楓は、この件全部を知り合いの弁護士に一任させようとしていた時に例の如く嵐に呼び出された。
ホテルにあるシックなバーでこうして嵐と飲むのは久しぶりだったのだが、楓の機嫌が良くないのと、その楓を心配している嵐とでは盛り上がろうにも盛り上がらない。
嵐の親友が陥っている負のスパイラルは根が深い。それを解決させるには、楓に知ってもらわなければならないことがある。だからこうして呼び出したのだ。まぁ、最近厄介事に巻きこまれてしまった事に対する換気の意味もあるのだが。
「大分疲れてるな」
「…疲れてるってもんじゃない。ノイローゼになりそうだ。毎日毎日何らかの請求書が届く。それも半端ない額の…」
「あぁ、聞いてる。こうなったら弁護士に一任した方が早い。うちの顧問弁護士を紹介しようか?」
「俺の知り合いの弁護士に頼もうかと思ってたんだが、橘の顧問の方がいいかもな。あとで連絡先教えてくれ」
「わかった。総額でいくら位支払ったんだ?」
純粋な質問だったのだが、楓が答えた金額が想像以上だった事に改めて眉を顰めた。
「彼女の子供の父親は…」
「知らん。俺じゃないのは確かだ。大抵あの頃に遊んでたホストか、海外の違法なパーティーでヤッた男の誰かだろ」
「DNA検査を拒否してるんだろう。全く厄介だな」
「あぁ、本当に」
カランと音をたてて、氷がグラスを弾いた。くっとそれを飲み干すと、バーテンダーに次の酒を頼む。嵐はそんな楓をじっと見たまま、負のスパイラルを断ち切る方法が無いものかと考えた。しかしながら、確実に、そして巧妙に張られたソレを解くのは容易ではない。
「この前緑川の息子が来ただろう。その時の言葉が気になって俺なりに調べてみた。三神小百合が妊娠したのは全くの偶然だったんだろうが、それでお前を嵌められると思ってるのには、楓、お前も気付いてるな?」
「あぁ。今となっては、あいつの妊娠も仕組んだって言っても特段疑わないが」
「だな。で、ここまでは誰にでもわかる事だ。ただ、ここからが今回の罠の巧妙なところだ。いいか、よく聞け。三神建設は、緑川から相当な圧力をかけられているらしい。どういう意味合いの圧力かはわからないが、このままだと緑川が完全に提携関係を解消する。そうなると、三神は自力では会社を維持出来ないだろう。実際、去年の同じ年に比べたら受注量が信じられないぐらいの減少ぶりだ」
「ちょっと待て…なんで緑川が手を引くんだ?今までは普通に組んで上手いことやってたはずだろ?」
「まあな。だが、緑川光が何らかの形で関わっているとしか考えられないが、そもそも三神建設の社長にはきな臭い噂があったからな。その噂を遺憾に思った緑川が手を引くと言うのが表向きだろう。ただ、それならば一気に提携解消して、後顧の憂いを絶てばいいはずなのにそれをせず、未だに一部事業には手を貸しているのもまた緑川だ。…楓、お前はこれをどう思う?」
どう思うも…。
確実に息を止める方法を取らないで、じわじわとなぶり殺しにしているとしか思えない。いや、実際そうなのだろう。ここでもし完全に緑川が手を切れば、三神は経営は成り立たなくなるだろう。あの会社で働いている従業員達を哀れみこそすれ、それが何故自分の身に災いとなって降りかかってくるのかがわからない。
大体会社を案じるのであれば、早急に他の支援してくれそうな会社を探せばいい。それがどの程度困難なものかはわかるが、探せない事もないだろう。
「三神社長はお前と娘を結婚させる事で、うちと繋がりを持ちたいんだろうな。そうして緑川から手を切られても、やっていけるように。うちの会社は不動産関係に強いから」
「それはあまりに短絡的思考だろう。大体俺が婿に入るわけがない。それもわかった上でって事なのか?」
「それで貴方が落ちればbetter、落ちなくてもまあgood、双方が共倒れすればbest。父の描くシナリオ通りに進んでいるみたいですね」
自分達の声ではないソレは、先日に忠告を与えた人物のもの。後ろを振り返ると、記憶にある通りに飄々としている青年…緑川大地が立っていた。
「こんばんは、橘のご当主。それに、鳥谷部さん。お久しぶりです」
「いつからそこに…?」
「今さっきですよ。今日僕ここに泊まるんで、まだ時間も早いし一杯だけ飲もうかなと思って降りてきたら」
おどけるように両手を上げた大地は、「隣いいですか」とカウンターの空いていた席に腰掛け、シャンパンを頼んだ。
「シャンパン…」
「あぁ、祝いのシャンパンです。父と椿さんが仲直りしたみたいなんで、これから末永くって言う」
気泡の上がる琥珀色の液体をくいっと一口飲んだ大地は、楓に視線をやる。
一瞬身構えなければいけないような気がするのは何故なのだろう。
「さっきの話の続きですけど…多分ね、貴方が三神小百合と結婚した瞬間に、父は完全に三神の会社から手を引きますよ。その時、橘の会社からの援助どうこう関係無くね。うーん、もしかしたら、三神社長を辞任に追い込むだけの切り札があるのかも。僕なりに調べてみたけど、かなり危険な橋渡ってますよね、あのバカ社長」
くつくつと笑ってもう一口シャンパンを飲んだ大地の話を黙って聞くしかない。隣にいるはずの嵐も、状況を承諾しているらしく何も言い出さない。
「ひとえに…今もなんとか三神建設が保ってるのって、椿さんがいるからですよ。それもどこまで保つかわからないですけど」
「椿が…椿が関係してるって言うのか?」
「…まぁ、当たらずとも遠からずって感じですかね。彼女は何も知らされてませんよ。さっきちょっと話題にしたら、きょとんとしてましたから。今頃……まー…もう少しかかるかも…したら多分父の口から詳細を聞かされるでしょうね。その時何て説明するんだろう。明日朝一で聞かなきゃなぁ」
心底面白そうに笑いながら、最後に残ったシャンパンを飲み干し、大地は席を立った。
どうやら本当に一杯だけだったらしい。
バーテンダーにごちそうさまと言うと、くるりとこちらを向いて破顔した。
「僕ばっかり話しちゃってすみません。鳥谷部さん、精々最後まで足掻いて見せてくださいね。楽しみにしてますよ。じゃあお休みなさい。お二人とも、良い夢を」
「おいっ!」
「はい、何ですか?」
「椿……椿が妊娠したって本当なのか…」
「あぁ、そうですよ。椿さんってば何を思ったんだか、父と離婚しようとしてたんですよね、びっくりですよね」
「何だと?」
離婚。
という事は、やはり椿の子供は自分の子なのか。それを緑川光が許さないので、離婚という手段をとってまで産むつもりなのだろう。
だとしたら…。
もしも椿が離婚して敷島の家に戻って来たなら、もう一度椿とやり直せるのではないだろうか。
自分が破壊してしまい、バラバラにしてしまった関係をもう一度、構築できるのならば…。
椿が許してくれるのであれば、もう二度と離さない。
「椿さんって単純って言うか、わかりやすいって言うか…。カマをかけたらあっさり白状するんですから、あれじゃあ人にも騙されてきたはずですよね。ねぇ、鳥谷部さん?」
にっこりと笑った大地の顔をギリギリと睨み付け、知らず自分の手に力が入る。それをチラリと見て、わかっていながらも大地は尚もニコニコと笑う。
「三神小百合が椿さんをイジメてたのって、凄かったですよ。僕、ネットで見てましたけど、よく自殺しないで今まで生きてたなーと思いましたもん。あんなに儚げなのにね。実は芯が強いですよね、椿さんって」
「キミはあれを知ってるのか」
「あれ、って言うことはご当主も知ってたんですか。なるほどねぇ…アップされるたびに随時削除されてた理由がわかりました。橘本家が関わってたからかー。ふぅん」
「…お前…」
「『敷島椿は超淫乱だから、今からヤってくれる男漁りに行きまーす』、『婚約者がいるのに遊びまくってゴメンナサーイ』、『誰でもいいからエッチしましょー!』」
「なっ……」
大地が言った言葉に顔面から血が引いていくのがわかった。
嵐も席を立ち上がり、大地を睨み付け、それ以上言うなと言外に言っている。それでも大地は止めなかった。
「アイコラもあったんですよね。あれで全世界に顔出しされちゃったんです、椿さん」
「………」
「ねぇ、鳥谷部さん。知らなかったとは言え、貴方仮にも椿さんの婚約者だったんですよ。だったらさぁ、留学中であれ何であれ、婚約者の動向を知るなり出来たはずなのに、それを完璧に無視した挙句に、それを流出させた張本人と寝てるなんてなかなか極悪人ですよねぇ。僕だったら出来ないなー。実際、椿さんって高校時代に精神科に通ってたって知ってました?」
初めて知ったなどとは、当然言えない。
ただ愕然として、大地の話を聞くばかりだ。
「ご当主、貴方もさ、それ位は教えてあげた方が良かったんじゃ…あー駄目か。忠告してあげても、そもそもが興味のない婚約者がどうなろうが鳥谷部さんには関係無いもんね。良かったね、椿さんが自殺しないで。どの面下げて自殺した婚約者の葬儀に出席出来るんだろう。きっと能面みたいな顔だったろうね。『この面汚しが』って思ってるんだろうなぁ」
酷く寒い。
実際はアルコールが入っていて暑いはずなのに、体中の血が凍り付いたように冷たい。嵐が後ろで何かを言っているようだが、楓の耳には大地の話しか聞こえなくなってしまったようだ。
「傷付いて傷付いて、血を流し続けた椿さんの心を射止めたのがうちの父かー。なかなか出来たシナリオだな。今日、父が椿さんを抱けば、心身ともに完全に彼女は父から離れられない。だからさ」
楓の耳元で囁かれた言葉に、楓のささやかで愚かな望みは完璧に砕かれた。
大地が立ち去った後、嵐が大丈夫かと聞いてきているようだったが、答えようが無かった。
ぐるぐると頭の中を巡っている、椿の泣き叫ぶ声。
そして、今もなお返せずにいる椿の指輪。
椿が許してくれるのであれば、もう二度と離さない。
そんな楓の悲壮な決意も、椿が置かれていた悲惨な状況を知ってしまった今、なんと身勝手なものなのだろう。
いつも何も見ていなかった、否、見てやれなかった彼女。
勝手な自分の考えに翻弄され、自分が関わってきた女達からの嫌がらせを受けてもなお、いつもと変わらず笑んでいたのは何故だったのか。
泣いている椿を見た事が無い。
いつも淡く笑んでいる椿の顔しか浮かばない。
それなのに、ひっそりと泣かせていた張本人が、無理矢理モノにして泣き叫ばせた。
椿は自分のものだ。
それなのに、椿はもう他の男の妻になってしまった。
どんなに取り返しの付かない事をしてしまったのか、ようやく気付いた。
それなのに
失ってから気付く気持ちのなんと滑稽なことか。
「貴方と椿さんとの子供、諦めなよ」
大地からぼそりと耳元に落とされた言葉は、何もかもを見通されているようで、酷く楓の心を抉った。
椿は自分のものだ。
いや、
だった。