第18話 選ぶ・・・椿
三人の間でさしたる会話は無かった。
ただカチャカチャと食器が鳴るばかりだったが、食事は意外にも美味しかった。あまり量が食べられない椿に配慮しているのか、少なめに盛られた皿が嬉しい。脂っぽいものは無く、さっぱりとした物ばかりで思わず笑みがこぼれた。
「なんか、意外…」
「意外って。やっぱり椿さんって性格悪いよね」
「大地君ほどじゃないよ」
「うわ、それこそ失礼だよ。僕は性格が悪いんじゃなく、リアリストなだけ。理想主義者とは合わないんだよ。三神小百合みたいなのとは絶対合わない」
「…え?なんで小百合が出てくるの?」
なぜここでいきなり小百合が出てくるのだろう。
訳がわからず大地を見ていると、大地は大地で自分のグラスに注がれたワインを一口飲んだ。椿の隣に座った光は何も言わないまま、黙々と箸を進めている。
「父さんもさ、ちゃんと話をした方がいいと思うんだけど。その方が椿さんも混乱しないで済むでしょ」
「どういう事…?光さん何の話なの…?」
「後で話す。とりあえずは食べなさい。大地、お前は余計な事に口を挟むな」
「余計な事…ねぇ。ま、いいけど」
そう言ったきりまた会話は途切れた。
椿はもう食欲が無かったし光も大地も食べ終わっていたので、結局その話をしないまま食事は終わった。後片付けぐらい自分がすると申し出たのだが、大地によってやんわりと断られてしまった。光が風呂に入って来いと言うので、大人しくそれに従った。
温めのお湯に浸かっていると、先ほど大地が言った言葉が思い出された。光が何をしているのかわからない。
だが、小百合が関係しているのは間違いない。確か小百合の会社は規模こそ大きいが、緑川の会社で成り立っているようなものだと結婚してから聞いたことがある。
椿としては、小百合の実家は鳥谷部の家に恥じない家柄だと思っていたのだが、実際はそうではないらしい。所謂成り上がりというやつで、バブルの荒波を乗り越えたのも、ひとえに緑川からの技術提供という名の恩恵を受けて乗り切っていたようだ。
半ば緑川の子会社のような会社だ。もしも光が手を引くとなったら、倒産、もしくはそれに近い形になるのは免れないだろう。
正直、小百合はどうでもいい。だが、三神の会社で働いている社員や非正規雇用の人達まで被害を受けるのは間違っている。光が何をしているのかわからない以上どうしようもないが、とりあえずは最悪の事態も考えておかなければいけないのかもしれない。
自分が何をするべきか。椿は緑川の妻であり、社長夫人である。夫である光が理不尽な事をしでかす前に諌めるのが役目だ。ひそかに決然とした意志を胸に秘めたが、それと同時に光への離婚を切り出せばどうなるだろう。自分には小百合の会社の社員達を救う術はなくなる。
歯がゆい気持ちがする中で、風呂の湯を手ですくう。隙間からぽたぽたと音を立てて流れ落ちる湯を眺めながら、十ヵ月後の事を考える。
生まれた子供をこの手に抱けるだろうか。名前は何にしよう。性別は関係なく、生まれてくる子供がいるという事実が椿を心強くする。
それが楓の子だとしても。
「随分長かったな。逆上せていないか?」
考え事をしていたからか、風呂から上がると結構な時間が経っていたようで、光から手渡された水の入ったグラスを受け取ってから時計を見てぎょっとする。
丁度良い具合に冷えているそれを一口飲んで息を付くと、大地の姿が見えないことに気が付いた。きょときょとと探していると光が自分用の冷えたお茶を持ってこちらに近づいて来るのが見えた。
「光さん、大地君は?」
「今日は出てもらった。都内のホテルに泊まるって言って私の名前で部屋を取ってたよ。仕方なくカードも持たせたが、一番いい部屋取ったらしいよ。全く、強かだ、あいつは。誰に似たんだか…」
「え、でも…どうして?」
妊娠を告げられてから以降、光と二人きりになったことはない。寝室こそ同じでも、椿は出来るだけ端に寄って眠ったし、大地が滞在していたので彼が外す食事時など以外は二人きりになることがなかった。
確かに自分も話したい事がある。
あまり大地にも聞かれたくないと思っていたのだが、まさかそれがいきなり今だとは思わなかった。
狼狽えた椿を見てふっと笑った光は、手招きをして座っている自分の隣に椿を呼ぶ。手にはドライヤーが握られているのを見ると、髪を乾かしてくれるらしい。渋る椿を強引に座らせると、ドライヤーのスイッチを入れた。
温風で散らされた髪が頬を掠める。料理は下手なくせに、髪を乾かすのは上手いのは何故だろう。昔は、かなりのプレイボーイだったという事を考えれば、これ位は当たり前なのかもしれない。
ズキリと馴染みの痛みが胸を突く。
自分は光に対して嫉妬するなんて言うことは許されないのに、醜く嫉妬する愚かな自分が存在している。
この鈍い痛みは、楓を好きだった頃よりも痛い。
あの頃は楓が自分を見なかったし、興味も持っていないから耐えられた。
しかし、光は違う。ちゃんと自分を見てくれたし興味も持ってくれて、尚且つ愛してくれている。
愛情を注いでくれる。
現に今も、優しい手つきで髪を梳きながら乾かしてくれている。
大好きな暖かくて大きな手。
光の手が好きだ。自分を包み込んでくれるような光に相応しい手が好きだ。
離したくない。
だけど、離さなければ。
二つの相反する心が悲鳴をあげる。
その悲鳴が目から涙となって溢れ、流れた。
「椿…どうした?どこか苦しいのか?」
今まで大人しくされるがままだった椿が急に泣き出した事に慌てた光は、カチリとドライヤーのスイッチをオフにすると、椿の顔に流れている涙を優しくタオルで拭いた。
「椿?」
「あき…光さ…」
「大丈夫、ちゃんと聞いているから。ほら、息をして」
涸れたと思っていたのに、まだ流れる涙が厭わしい。息をしようと思っても、しゃくりあげているのでなかなか呼吸も出来ない。
溢れる涙を流し嗚咽を繰り返していると、光に腕ごと引っ張られた。はっと思った時には光の胸に抱きすくめられていた。
「泣くな」
「ごめ…ごめんなさ…」
「謝るな。椿、君は謝らなくていい」
ぎゅうっと椿を抱き締めている腕の力が強まると同時に、椿は一層泣きじゃくった。
どれだけ時間が経ったかわからないが、ようやく涙も収まりつつある。泣き叫んだ影響で、ぐったりとした疲労感があるのだが、その間ずっと光は抱き締めていてくれた。随分と涙が染み込んでしまったシャツはドロドロで、これを着ているのは不快ではないのだろうか。
そんなどうでもいい事を考えていると、抱き締めている腕はそのままに、頭上から静かな声がした。
「君を抱くのが怖かった。抱けば、私自身が君の命を削ってしまうのではないかという恐怖心があったんだ」
思いがけない告白に椿は息を飲むと、独白のように光は続けた。
「君と結婚する前に聞いた事がある。死ぬのが怖いかと。私は死ぬのが怖くない。好きな事を仕事にして、それで会社も大きくした。従業員も多数抱えて、一族企業の橘と肩を並べる位に大きく、そして強固にしたつもりだ。簡単には潰れない自負もある。
それに大地は大地で生きている。大学を終えたら、イギリスにある支社に入社するつもりらしい。下っ端社員からのスタートだが、あいつならすぐに上に来る。確信している。父親としてどう思っているか、さっき一緒料理を作った時に聞いた。好きではないと。だが裏を返せば嫌いではという事らしい。てっきり嫌われていると思っていたから驚いたが、何故か私は救われたような気がしたんだ」
光に黙って身を任せていると、髪を優しく撫でてくれる。されるがままにしていると、また光が話し出した。
「私は死ぬのが怖くない。そう思っているのは本心からだ。私には何も思い残す事がないから。だが椿、君が離れていく事には耐えられない」
はっと息を飲み、光の顔を仰ぎ見る。苦しそうに歪められた顔を見ると、こちらが苦しい。
髪を撫でていた手で頬を包むと、どこか泣きそうな声で呟くように話す。
「君に子供を産ませたくない。産む事を選べば、既に短くなっている君の人生を更に短くする可能性があまりに高くなる。だが、君は堕ろしたくないんだろう?君の命を削り、その子を産むために私と離婚までするつもりか?そうしてまで産みたいのか?」
「だ、だって…だって!!」
「まだ君は鳥谷部を忘れられないのか!だから私と別れるのか!?」
「違う!!」
「椿、私はその子を愛せない。鳥谷部楓の子供であるばかりか、君の命まで奪おうとしているんだ。愛せるわけが無い」
はっきりとした言葉を光が紡ぐ。
言われてしまった。
この子を愛せないと。わかっていた事なのに、胸が張り裂けるように痛い。
心が再び悲鳴をあげ始め、止まったはずの涙もまたぼろぼろと零れてくる。再び泣き出した椿の涙を、光は拭おうともせず、そのままにしておいた。泣いてぐちゃぐちゃになった顔を両手で包みこまれて、しっかりと目を合わせられた。
「愛してる。愛してる、椿。私は君を失うのに耐えられない」
「……っくぅ…うぅえっ………」
「愛してる」
そう言うと、優しく唇を重ねてきた。
最初は本当に触れるだけのものだったものが次第に深くなるそれに応えるうち、光の胸にあった椿の腕が光の首に回ると同時に、光の舌が開いていた椿の口内に入った。ぞわぞわとする寒気にも似た快楽に思わず喘ぐと、光の唇が離れたと思ったら、ふわりと身体が柔らかいものに沈められた。椿は目を閉じて夢中になって光のキスに応えていたので気が付かなかったが、いつの間にかベッドに連れて来られたらしい。驚いて光を見上げると、熱い熱が宿った瞳と目が合った。
こんな光は今までに見た事がない。いつもは優しくて穏やかな印象しかない自分の夫。
だが、今、目の前にいる光は、男の色気が滲み出ていて、その瞳は今にも焼き尽くされんばかりに位熱い。だが、そんな中にも悲しさと憂いが見てとれ、思わずその顔に手を伸ばすと頬にたどり着く前に彼の手に捕まり、そのまま手の平に口付けられた。その間もずっと光の目が椿から離れる事はない。
「椿、君が選べ。私を取るか、その子を取るか」
「なん…そんな…」
「その子を取るなら、私はこの場で君を抱く。そして、その後離婚し、君の兄君の元に帰す」
二者択一は好きではない。
どちらかしか選べないのならば、初めからどちらも選ばない。
余命宣告は二者択一ではなかった。初めから答えが用意されていて、それを聞いただけだったから。選択らしい選択という意味では、死ぬべき運命を少しばかりか遅らせるための投薬治療を拒んだ事ぐらいだ。だが、それだとて今から考えれば選択だったのだろうか。
離婚するつもりだった。子供を最優先で考えれば、その選択は間違いではないと思っていた。だが、今更になって胸を占めるのは、光の事ばかり。初めてのキスは光だった。胸が苦しくなるほど、光が好きだという気持ちが膨れ上がって、今もそれは変わらない。
光を愛しているという気持ちは、自分が死ぬまで変わらないだろう。
光とお腹の子供。
愛する夫と、愛した男の子供。
二者択一は好きではない。
どちらかを選ばなければいけないというのならば、初めからどちらも選ばない。
「愛してます、光さん」
「…………」
「だけどこの子も愛してるの。楓様の子供だからとかじゃない、私の子供だから、愛おしいの」
相変わらず見下ろす光の瞳は熱い。少しばかり気後れしてしまうが、逃げずにちゃんとこの場でもいいから、光に伝えなければ後悔する。それがわかっているからこそ、目を逸らさずにちゃんと光を見ていたい。
「どちらかなんて選べない。私はどちらかなんて選ぶ必要がない。どっちも愛してる。片方だけなんて選べないし、もし選んだとしても私はずっとその選択を間違ったと思って生きる事になるの。私は後悔したくない。もう先が見えているからこそ、絶対に間違いたくない。
私はどちらも選ばない。私は、子供も、光さんもどっちも選…ぅんっ……んん…」
言い終わる前に光に唇を塞がれた。再びさっきと同じく長くて深いキスが繰り返され、光が唇を放す頃には、椿は息も絶え絶えに喘いでいた。
涙目になってしまったそれをそろそろと上向かせると、光は、先ほど見た時の憂いが潜んだ瞳をしていなかった。どこかさっぱりとした目の、愛する夫がそこにはいた。
「実に、椿らしいな…。どちらも選ばないのに、どちらも取るのか…」
「私は欲張りなんです。どちらかを失っても私は生きていられない。光さん、私を看取ってくれるって言いましたよね?覚えてますか?」
「ああ、よく覚えてる。グレートバリアリーフが見えるところで息を引き取りたいんだろう?」
「そう。その時に、貴方と、子供と。一緒に側にいてくれたら、私は幸せな人生だったと思えるの。どちらも私を愛してくれて、そして私が愛した大事な人。だから、私は二人とも選ぶわ」
「欲張りだな…それでこそ私の椿と言うべきか…。
…………わかった、君の選択を受け入れるよ。ただ、医者は止めろと言うだろう。それでも覚悟は出来ているか?今までも投薬治療をしていない君は、十ヶ月の妊娠期間すら保つかどうかもわからないんだ、それをわかっているんだな?」
椿はこくりと頷くと、光に身体を起こされてその腕の中に閉じ込められた。
いつしか、光の腕の中が一番落ち着く場所になっている。そう言えば、帰巣本能云々と言った話を光がしていた。あの時はやけにセリフがクサくて笑ってしまってけれど、今思えば間違っていない。
そればかりか、正しかったのだと思う。
光は自分の家だ。
帰ってくる場所はここにしかない。
ふふっと笑い声を漏らすと、顔を覗きこんでこようとする光に今更ながらに赤面して胸にぐりぐりと顔を押し付けた。
「こら、椿くすぐったい。やめないか」
「いや、やめない」
「駄々っ子だな。君が子供を生む前に、私は君を躾なきゃいけないのか?」
「もう躾は出来てますーだ。小さい頃からずっと厳しく言われてましたもん」
「そういえば兄君言わないのか?さすがにそれは」
「…兄は私が菜にも言わなくても、もう何と無く気付いてると思います。兄は勘がいいだけじゃなく、どこか冷徹なところがありますから…。私には本当に優しい兄ですけどね。そう言うところは、似てます。光さんと兄は」
「そうか…」とだけ言った光の声は酷く優しく、椿を抱き締める腕も弱まる事が無い。
とくとくとく。
光の心臓の音が聞こえてくる。何よりも愛おしくて、力強いその音。
「光さん、お願いがあるの」
「何?」
「抱いてください」
「……椿…」
「私は貴方に抱いてもらいたいの。他でもない、貴方に」
光が息を飲んだのがわかったが、それで怯んではいられない。
「だが、椿…」
「お願い。子供は確かにこのお腹の中に貴方の子ではない子がいる。だけど、私は貴方じゃなきゃ駄目なの。愛してるの、光さん」
「…後悔するかもしれない」
「そんなのしない。絶対」
「わざと子供を流産させるかもしれないぞ」
「光さんはそんな事しない。絶対しない」
「ふっ…言い切ったな…」
「光さんに関しては判断を間違えない。知り合って、たった三ヶ月かそこらかもしれないけど、貴方を愛したの。私はその感情はまやかしなんかじゃないって信じてる。だから、お願い、抱いてください、光さん」
「…もし痛かったり、身体に違和感を感じたらすぐに言いなさい」
「わかりました。愛してます、光さん」
「知ってる」
ふっと笑んだ光に押し倒された椿は、それから泣きたくなるほどの愛おしさを感じた。
最中、繋いだ手はずっと離れる事無く、繋がれたままで。
愛してると囁かれ、愛してると囁き。
終始抱き締められた腕と、光の身体の重みが、女としての椿を花開かせた。
この人を愛してよかったと真実思った。
本来ならば安定期に入るまではしてはいけないのでしょうが、今回は見逃してください…。




