第17話 妊娠・・・椿
大地と話をしていたはずがいつの間にか気を失い、結局は見慣れた天井があるベッドの上に戻っていた。
大地が連絡したのだろう。隣には光が心配そうな顔で椿を見ていて、診察をしているホームドクターの動向を気にしているようだ。
ふと自分の手を見ると、光の大きな手に覆われていた。その暖かさに泣きたくなる。
光が包む椿の指には指輪がない。楓に沖縄で取られたまま。彼は椿の指輪を返してくれることはなく、あの後うやむやになってしまったまま、今はどこにあるのかわからない。
多分楓が持っているんだろう。かといって、取り返しに行く気力もないし、楓にも会いたくない。また酷い事をされるのではないかという恐怖と、それを拒みきれなかった自分の無力感を味わいたくないから。
結局は安易な道を選んでしまう。
もう傷付きたくはない。だが、自分の身勝手さに巻きこまれてしまった人…特に光には本当に申し訳がたたない。光に抱いて欲しいと思っていたのに、こんな結果になってしまった。もう彼は自分を抱いてはくれないだろう。光を知らないまま、楓に抱かれてしまったままの身体。そんな身体で自分は死ぬのだ。
こんなに悲しいことはない。
こんなに光が自分の心を占める存在になっていようとは思わなかった。初めは楓の代わりだったと言われてもしょうがなかったかもしれない。だが、確かに光を愛している。楓のそれとは違う、それでも確かに愛だ。
今更になって思う。
自分が楓の何を好きだったのか、愛していたのか。
十八年間ずっと好きだった感情は、もうない。
薄情だと思いたければ思えばいい。だが、楓の事は過去だ。悲しいくらい真っ直ぐで、何も知らなかった頃の幼い自分への決別のように。
それがその事に対する罰なのであれば。
自分の罪は何なのだろう。
知らず力の入った手を優しく包む光の手は外れる事がなく、手を重ねたまま診察を受けていた。
「社長、よろしいですか」
「あぁ。どうだ、やはり抗がん剤を投与した方がいいか?」
「…いえ、それは少し待ってください。どうやら奥様はご懐妊の兆しがありますので、少し検査してみたいんです。奥様、大丈夫ですか?」
「……懐妊…?それは椿が…妻が妊娠したという事か?」
顔が強張る。怖くて光の顔が見れない。
違う。
何かの間違いだ。
確かに生理は沖縄の旅行以来、来ていない。だが椿の生理は元々安定していなかったのもあり、いつもの事だと考えて気にしていなかった。
それに、あの頃は正直それどころではなかった。椿自身の容態が安定していなかったのもあり、結局はなんの対処もしないでいた。だが、楓は避妊していたはずだ。椿はあの悪夢のような時間、何も見ていないが、他の女達から楓の避妊に対する潔癖症的な事は聞いていた。だから、当然付けていると思っていた。それなのに、妊娠なんてあるはずがない。
それに、もし妊娠となったとしても生み月までの十ヶ月、生きていられるかわからない身体で子供が育つのだろうか。
仮に自分が無事に出産出来たとしても、この子の父親は楓だ。
夫である光ではない。
自分の子ではない子を光が欲しがるわけがない。実の子供である大地に対して寂寞の思いはあるものの、結局は仲違いしたままだ。実の親子関係でもそうである以上、実の子でないこの子に対してどういう思いを抱くのだろう。
「わかった。病院に行こう」
静かにそう言うと、光は椿の身体を抱き起こしてそのまま腕に抱いて病院まで連れて行った。
白くて無機質な病院は嫌いだ。独特の匂いも好きになれない。
以前来院した時は、余命宣告をされた。あの時、これ以上悪いことは起こるわけが無いと思っていたら、楓と小百合との逢引現場に遭遇してしまった。それから椿の人生は正反対に動いたと思っていた。もうあれ以上辛い事なんか無いと思って。
それなのに。
検査の結果は陽性。楓の子供を妊娠しているという最悪の結果になってしまった。
信じたくなくても、結果が覆る事はない。
「大地さんは?」
「あの子は観光でもしてるようだ。何年か年振りに帰国したからってね。心配しなくても、あの子はもう大きいんだから、迷子にならないよ」
「そうですか…」
「椿、」
「ごめんなさい、少し一人にしてもらえますか?」
窓の外に目線をやったまま一度として光を見ようともしない椿を、光が少し諌めるように何かを言おうとしたが、椿が目を閉じてしまったので結局閉口するしかなかった。
静かに病室を後にして、ひっそりと静まり返った部屋の中に一人きりになった椿は目を開けた。
これからどうしよう。
検査をしてくれた医師はいい顔をしていなかった。当然だろう、椿の身体は投薬治療をしてギリギリ保つか保たないか。それが出産となれば、それこそ一進一退の病状の進行状況を注視していかなければいかなければならない。だが、堕胎という事はしたくなかった。せっかく授かった命だ。自分の命を犠牲にしてでも産んであげたい。そうなるとしたら、もうここにはいられない。
光と離婚しよう。
敷島家に戻っても一族の縁は切れてはいない。それでもあの兄であれば自分が死んでも子供の事を頼める。当然離婚の敬意を聞かれるだろうし、子供も光の血を引いていると思うだろう。そうなったら、兄にだけは光の子供でない事を言うつもりだ。自分の命と引き換えにして産む命が楓の子だとは最後まで言うつもりはないが、せめてその事を知っておいてもらわなければ。
当然兄はいい顔はしないだろう。
だが、頼めるのは兄しかいない。今や何も無くなってしまった実家に一人でいる兄ではあるが、それが兄の考えであるならば自分は何も言わない。
むしろ、彼自身を犠牲にしてまで育てて貰った恩を返すためには、これから兄が行なおうとしている事に反対はしない。
両親を亡くした自分達にとっては、お互いがたった一人の家族だった。兄の友人の柏木秋もまた、もう一人の兄のように思っているがやはり実の兄には勝てない。
小学生の自分を養うために好きだった剣道を辞め、生活のためにバイト三昧。就職をするために柏木家との縁談を結び、それが引け目になって婚約者からは侮られた。椿が婚約していた楓を狙っていた萌花は、ことある事に兄を貶し、楓と比べていたがそれでも兄は何も言わなかった。
結局、椿が婚約破棄をしたとほぼ変わらない内に、兄もまた婚約を白紙に戻された。一方的に白紙に戻しただけでは飽き足らず、柏木家はもっと兄に対して無理難題を付きつけた。
兄が出した答えに、自分は反対する意思は無い。むしろ、それで兄が解放されるのであれば、してほしいとも思う。
自分が兄にしてやれる事といえば、それ位しかない。
まだ平たいお腹に手を当てる。
何の変わりもない、いつもの身体。これがあと半年もすれば、胎動を感じるようになるのだ。
正直、不思議な感覚がする。
未来がない自分と、未来を見据えて生まれてくる赤子。死ぬ自分と、生きる子供。
生まれてくる子供の成長が見れないのは寂しい。愛している光の子供じゃないのも、本当に申し訳がない。
「ごめんね…」
ぽつりと呟いた椿の言葉は空しく病室の壁に反響して、やけに大きく聞こえた。
「椿さん、身体の調子はどう?無理してない?」
「…大地君、おかえりなさい。私なら大丈夫だよ…観光はどうだった?」
にこにこと笑う大地に気後れして、少し口ごもるように返事をする。椿は大地を『大地君』と呼ぶようになっていたが、大地は当初からの『椿さん』から変わる事がない。椿の方が年上だという事を考えればそれでいいのかもしれないが、本人曰く、一応義母なのだから、呼び捨てにするのは気が引けるんだそうだ。
その大地というと、毎日ふらふらと観光し、ついでに沢山のお土産を買った来る。今も買ってきた東京の銘菓を頬張り、自分の淹れた紅茶を飲んでいる。
意外な事に大地は光のマンションに泊まった。短い期間しか滞在しないからという理由だったが、特に妙な視線も感じることもなく、かといって、光との会話があるわけでもなかった。変わった親子だと思いながらも、大地はそれを気にしていないようで、光も光で同じだった。
「ねえ、椿さん。父と別れるの?」
「え?」
「妊娠したって言うのに、毎日浮かばない顔してるんだもの。止めておいた方がいいよ。あの人って結構執念深いから。知らないかもしれないけど、父ってかなり粘着質なんだよ?」
この子はどこまで知っているのだろう。
なぜそんな事を言うのかわからぬまま、大地の顔をじっと見ていると、くはっと破顔した。
「椿さんって、顔に出やすいんだよね。カマかけたつもりが当たるなんて。ねえ、どうしてか離婚したいのか理由を聞いても?」
「カマって…大地君って人の思考を読むのが得意なの?」
「得意って言うか…僕の処世術かな。僕ってさー、祖父母に引き取られたけど、そこで可愛がってもらったわけじゃないんだ。むしろ邪魔者っていうか。だって僕と父って、似てるじゃない。顔が。だから母一筋だった祖父母が、母を死なせた原因でもある男と似た僕を良く思うわけが無かったんだよね。虐待こそされなかったけど、まぁそれに近い感じ?ネグレクト寸前だったんだよね。
だから僕がスイス行きを自ら志願したわけじゃなかったんだよ。早い話、厄介払いっていうのかなぁ。いつの間にかスイス行きが決定してたんだ。まぁ僕としてももう日本にいる必要も感じなかったし、あのまま祖父母の家にいても何にもならない事はわかっていたから、だから文句も言わずにスイスに行った。
あ、知ってる?あっちでの学費も生活費も今でも全部父持ちなんだけど、祖父母に引き取られた段階で僕の養育費とか全額父持ちだったんだ。だったら僕を引き取らなくても良かったと思わない?変な意地を張る所は母親そっくり。ついでに母親に対する慰謝料も相当額払ったらしいよ。
っと…話脱線しちゃったけど、僕が人の思考を読むのはそこから派生したものなんだ。あの家じゃ二人の思考を読んでなきゃ、鬱憤の捌け口にされて僕が被害を受けちゃうからね」
そんなに重い事実をあっけらかんと話す大地の目に憤りという感情はない。あるがままに受け入れて育ったが故の、諦めにも似た現実感がそこにはある。
主観的観点が出来ずに、常に傍観者のような態度を取るのもそこからなのだろう。
「人の気持ちって不思議だよね。両親がいい例。結婚していた時は、お互い恋だの愛だのっていう感情は一切無かったのに、最後通牒を突きつけられてから自覚したんだ。愛してるってね。一方通行の時は本当に何をしても通じないでしょ。よくわかるよね、椿さん」
「…よくね。痛いほど…」
「膨れ上がるばかりで、排出溝がない。ようやくそれを見つけても、裂け目がある限りまた溜まる。ねえ、椿さん。鳥谷部楓の事はもういいの?」
それが言いたかったのか。
もういいばかりか、お互い取り返しのつかない事になってしまった。これから光に離婚届を渡さなければならない。役所に取りに行きたいところだが、椿の身体の心配をした光に外出禁止を言い渡された。それを見ていた大地が気晴らしとばかりに、テラスに出てお茶をしないかと誘ってきたのだ。
大地が入れてくれた白湯を飲んで、息を付く。これからは紅茶やコーヒーも飲めないのか。もっと味わって飲めばよかったな。そんな事を思いながら、ひらひらと散っている桜を眺める。
「もういいって言うか…もうね、疲れたの。傷付きたくないの。私は楽になっちゃいけないのかな」
「疲れたから父と結婚したの?それって相当性格悪くない?父を利用してるって思わない?」
「あはは…、そうなのかも。でもね、光さんと楓様に抱いてる気持ちは違うの。根本的に私は間違ってたのかもしれない。あのね、私、十八年も楓様の片思いしてたの。ずっとね。初めて会った時から一目惚れって…惚れっぽいのかもしれない。だけど楓様は私の事はなんにも思ってなかった。私は名ばかりの婚約者っていう枠を貰って、それこそストーカーみたいに引っ付いてた。そりゃあ嫌われるよ…それでもあの人に振り向いて欲しかったんだ」
椿の乾いた笑いがテラスを包む。大地は何も言わずに紅茶に口をつけて、茶菓子の包装をペリペリと剥がしている。
楓と初めて会ったのは、椿が六歳の時だった。あの頃もちょうどこんな時期だったと思う。橘の本家の庭に植えられた椿が綺麗に花を付けていた。着慣れない着物に袖を通し、早く終わらないかなとすら思っていたのに、楓に会った瞬間、この時間が永遠になればいいと思った。
当時楓は十二歳。元から大人びていた風貌と、その容姿。楓は終始むすっとしていたのだが、椿はそれすらも気にならなかった。思えば、その頃から嫌われていたのだろうと思う。当時橘の当主だった御大が何を考えて椿を許婚にしたのかはわからない。だが、椿は密かにそれを感謝し、同時に楓はそれを嫌悪したのであろう。それから二人の関係は進むどころか、停滞を通り越し、逆行し始めた。
楓と婚約していた頃の椿は、疎まれ、無視され、取るに足らない人間だった。
それが光に出会って、そうではないのだと目を覚まさせてくれた。あるがままの椿を見てくれたし、望みも聞いてくれた。大事にしてくれる。とても。
そんな光を裏切った自分は、彼と一緒にいるべき人間ではない。
「私って、自分で思っていたより性格悪いみたい」
「何、今頃気付いたの?」
「…っていう事は大地君は私の性格が悪いって思ってたの?ひどいなぁ」
「父と結婚した時点で、性格がいいわけがないんだよ」
「それは私に対する嫌味か、大地」
リビングからいるはずのない人の声が聞こえたので、大地と二人で顔を見合わせたあと一緒に振り返る。憮然とした表情の光がそこにいた。時計を見ると、まだ仕事が終わる時間ではない。いくら社長といえ、こうちょくちょく会社を抜けてきて大丈夫なのだろうか。
「光さん、仕事は?」
「急いで終わらせて戻って来た。三人で夕飯を取ろうと思ってな」
「え?」
「…三人ってことは僕も?正直遠慮したいんだけど」
「大地もだ。親子だろ」
どうやら買い物もしてきたようで、袋に沢山の食材が詰まっている。わざわざ光がスーパーで買ってきたのだろうか。だとしても、買い物をしている画が浮かばない。それは大地も一緒だったようで、目をパチクリしている。
得意気な顔の光に何を言えばいいのかわからずに、じーっと凝視していると、まだ寒いだろうという理由でテラスを追い出され、リビングのソファーに寝かされた。どうやら光と大地が料理をするらしい。
「料理…出来るんですか?」
「ま、大地もいることだし、なんとかなるだろう」
「僕作れないよ。ましてや妊婦の食べるものなんて作れるわけないじゃない」
「ま、そこは椿に助言してもらうとして。ほら、大地、そこに突っ立っていても料理は出来ないぞ」
「あの…」
「椿は寝てなさい。まだあまり顔色がよくないから」
いつもの強引さで口出しを禁止された椿は、大人しく親子二人の料理している光景を見ていた。
危なっかしい光の包丁さばきに対して、料理が出来ないと言っていたわりには上手い大地。似ている二人がキッチンに立っている光景は、何処からどうみても親子だ。これをきっかけに光も大地も心を開いてくれればいいのだが、二人の溝は深い。知らずにため息をついて目を閉じると、妊娠しているからなのかいつの間にか眠りに落ちていた。
「椿、出来たよ、椿」
「う…ん…あれ、私…」
「眠ってた。そのお陰で顔色も良くなったみたいだ。さ、ご飯が出来たよ」
「…あまり食欲ないんですけど…」
「駄目だよ、椿さん、ちゃんと食べないと。一応食べられるようにって作ったんだから、一口だけでも食べてよね」
あまりに大地が真剣に言うので、椿は身体を起こしてテーブルを見た。意外にもちゃんと料理になっている。中には焦げたものなどがあるが、逆にそれが微笑ましい。
ふっと笑み、テーブルの椅子に腰かけて水を飲んだ。自分が思っていたより、水分を必要としていたようでこくこくと飲んだ。光も大地も席に着くと、一家団欒とは言いがたい、なんとも不思議な食事の光景がそこにはあった。




