第16話 先触れ・・・楓
沖縄で仕事を終えて自社に戻って来たは良いものの、楓は仕事以外は全く使い物にならないと言っても過言では無かった。
椿が寝込んでいた一ヶ月間、楓はとりあえず仕事は無難にこなしているものの、以前に比べて力が入っていないと言えばいいのか魂が抜けているというのか、とにかく楓らしく無かった。あれほど派手だった女性関係も最近ではぱったりとナリを潜め、最近では全く浮いた噂が無くなっている。
それに慌てたのが今まで楓からの寵を受けていた女性達だったが、楓が住んでいるマンションに入った事も無ければそもそもマンションの場所すら知らされていない。さしもの彼女達も実家にまで押し掛ける事は出来ず、唯一の頼みの綱である携帯電話も一向に繋がらない。
となれば会社に押し掛ける事しか出来ないのだが、さすがにそれは出来ないと二の足を踏んでいた女性達の中で、一人だけ会社に来た猛者がいた。
「小百合…お前、何しに来た」
「だって、楓さんと連絡がつかないんですもん。住んでるマンションもセキュリティ厳しくて入れ無いししー。だったら、直接会社に来るしかないでしょ?」
あまりにも短絡的な思考、だが小百合らしい考えに呆れて何も言えなくなった楓を、重役付きの秘書がちらちらと気にするように見ていくのがガラス張りの専務室からでもよく見える。
煩わしい。
彼等のいる奥の場所には社長室も見えるが、その部屋の主は現在外出中でガランとしている。
もしも社長がいたら、アポも取っていない女が重役フロアにいるという失態は絶対に許される事ではない。どうやってここまで上がってきたのかわからないが、とにかく一通りの話を聞いたら出て行って貰わなければ困る。
とりあえずガラスに加電をしスモークをかけて外からの好奇心だらけの視線を遮ると、楓は無表情のまま小百合に向き合った。
「それで?何か話があってここまで来たんだろう。一体何の話だ」
「あのね、楓さん。あたし…妊娠したのっ!」
「ふぅん…おめでとう。で?」
「で?じゃないわ!楓さんの赤ちゃんなのよ!?」
「はっ。残念だが俺じゃない。俺が避妊に気を使ってた事はお前もわかってるだろ」
楓はこと避妊に関しては、神経質なほど気をつけていた。
こんな風に如何にも財産目当ての女の罠にかかるのなんて真っ平御免だし、そもそも子供は椿との間に作るものだと思っていたからだ。
そう考えた時に、ズキリと胸が痛んだ。
…椿…
あれからずっと椿に連絡を取りたかったが、夫である緑川が拒否していたのもあって電話ですら話せない。あまりに強固に拒否された末、無理を承知で椿の兄にも椿に連絡を取りたいと言ってみたものの、彼からはあっさりと拒否された。
「申し訳ないですが、それは義弟から取り次ぐなと言われているので無理です」
彼のそっけない態度を思い出して、それも当然だろうと言う頭の中の意地悪い声に日々苦しみ、それでも椿に会いたかった。
会って謝りたかった。
自分の苦しみなど彼女の苦しさから考えれば何でもない。
無理矢理自分に抱かれた椿に比べて。
今もなお、耳の奥で椿の泣き叫ぶ声が聞こえるようだ。
嫌だと。
止めてと泣き叫ぶ椿を力で押さえつけた。拒否の言葉を自分の唇で飲み込んで、無理矢理こじ開けた身体は狭く慣れていなかった。
それも当然だ。椿は全くの手付かず、処女だったのだから。
「ねぇ、聞いてます!?」
「悪いが、仕事があるんだ。お前みたいに一日中遊んでても、自由に金が入ってくるわけじゃないんだよ」
「ちょっ…それは流石に言いすぎじゃありませんか?いくら楓さんでも言っていい事と悪い事があるんですけど…!」
「本当の事だろ。就職もせずふらふら遊び歩いてるだけのお前が妊娠したって言ったところで、『はいそうですか。じゃあ結婚しましょうか』ってあっさり納得出来るわけがない。それに、何度も言う様だが、俺の子供じゃない。それでも俺のだって言うんだったら、DNA検査をして来い。ところで、何ヶ月だ?」
「三ヶ月だけど…。絶対貴方の子供よ。だってあの頃はずっとあたしが相手だったじゃない!!」
三ヶ月。
確かに二ヶ月前までは小百合と関係を持っていた。その間も避妊を怠った事は無かったし、小百合もピルを服用していたはずだ。それが楓と関係を持つ最重要ポイントだったことを小百合も承知していたにも関わらず、妊娠したと言う。
それに、三ヶ月にもなるのだったらもっと早くに知らせるのではないのか。そう詰めると、小百合はワザとらしく泣き出した。
「ヒドい!楓さんって本当に冷たいんですね!!この子は楓さんの子供なのに!」
「俺が?冷たい?」
「椿が愛想を尽かすのもわかるわ。こんな自分の責任も取れないような男より、緑川光みたいな社会的地位もある男に靡くのも当たり前よ!」
「………」
「DNA検査なんてしない!貴方の子供だもの!!絶対産むわ!だから責任取ってよ!!」
小百合の甲高い声が喚き散らす中、デスクの電話が鳴った。ひとまず助かったと思って電話に出たが、それは救世主などではなく小百合の父親、三神社長から直々の呼び出しだった。
次々と予期せぬ事が起きて何やら嫌な予感がしたのだが、ほぼ一方的に要件を告げた後、威圧的に来いと言われてしまった以上行かないわけにはいかなくなった。仕方なく、今日の終業後にそちらの会社に向かう旨を伝えて電話を切った。
その電話中、様子を窺うよう聞き耳を立てていた小百合は、電話を切るなりスンスンと泣き出しいかにも嘘泣きだとわかる泣き真似をしていたが、楓は疲れ切って怒る気にもなれなかった。
「パパも怒ってるんだからね。いい?この子は楓さんの子供だから!」
捨て台詞を吐き捨てて、来た時と同様、嵐の様に去っていった小百合を見て嘆息した。
責任もへったくれもない。
絶対に自分の子供ではないと確信しているから、取るべき責任もない。
小百合の男癖の悪さは楓の女癖の悪さと酷似しているが、彼女は楓と違い、質が悪かった。
楓と関係を持っていた時点でも、歌舞伎町のホストを始め色々な男とも幅広く遊んでいたと言う調べは付いている。
最悪なのは、海外での乱交紛いのパーティーだ。
どうやら合法ギリギリな薬物も使っていたらしいそのパーティーは、警察に摘発される事こそ無かったが、今度同じ事をすれば確実に逮捕されるだろう。もしそうなったとしても同情はしないし、むしろ当然の結果だとすら思う。
まぁ、あの考えの浅い小百合がそこまで考えているはずもないが。
ふと窓をオフィスの窓を覗きこむと、桜が咲いていた。少し風が強いのか、満開を過ぎた桜の花びらが舞っている。それを綺麗だなと眺めていると、ドアがノックされた。桜を眺めたまま返事だけすると、楓の秘書がどこか困惑したような声で、来訪者を告げた。
「またか。アポ無しの客は会わないと言ってあるだろう」
「それが…緑川社長のご子息だと言う方でして…」
「緑川の?」
緑川光の息子と言えば、父親である緑川光と幼い時から引き離されて育ち、現在は海外にいたはずではなかったか。
怪訝そうな顔をしていると秘書が「どうしますか」と聞いてきたので、訝しく思いながらも結局通すことにした。
と言っても、何を話せばいいのか。
まさか義母を無理矢理抱いたなんて言えるわけが無いし、だからと言って、父親と椿との結婚をおめでとうなどと祝福する気など無い。柄にも無くぐるぐると考え込んでいると、再びドアをノックする音が聞こえてきて、小百合の時とは違って今度はちゃんとそちらを見て返事をした。
入ってきたのはまだまだ学生のように見える青年で、会社に不似合いなラフな格好をしているわけではなかったが、どことなく力を抜いた服装で楓はそれを好ましく思った。
「すみません、アポイントも無く突然尋ねてしまって。それでも、貴重な時間をいただいた事に感謝しています」
「いや、構わない。楽にしてくれ」
「ありがとうございます。自己紹介が遅れてしまいましたが、緑川大地です。父…はご存知ですよね」
にっこりと笑って片手を差し出してきた大地に驚きながらも、楓も手を差し出し握手を交わした。
「鳥谷部楓だ。君の父上は承知している。君は海外に行ってたと聞いていたんだが…」
「あぁ、大学が休みなので一時帰国したんです。新しい義母に挨拶したかったんですよ」
秘書がコーヒーを持って来て、応接用のソファーに腰かけたが、この子が何をしに来たのかわからず、楓は彼の様子をじっと見ていた。
新しい義母…と言う事はわざわざ椿に会いに来たわけだ。あまり良好でないと噂の親子関係であるが、やはり再婚相手となると気になるのだろうか。
出されたコーヒーを一口飲んでピクリと眉を動かし、カップをソーサーに戻すと、大地はそれ以上は飲もうとしなかった。
「口に合わなかったか?」
「あ、すみません。気にしないで下さい。コーヒーより紅茶の方が飲み慣れてて。と言っても、イギリスの紅茶って薄いんですけどね。まぁ、慣れですが、今ではそっちの方がしっくりくるんですよ」
大地は苦笑しながらも、取り替えようかと言う楓の申し出をやんわりと断った。
こうして見ると、父親である緑川光に似ているように思う。目元が若干違うが、それは亡くなった母親の面影なのだろう。
それから少し他愛の無い会話を交わした。年はいくつだとか、大学の専攻はなんだとか。そんな会話をしながらも、楓は何をしに来たのか会話の中から探ろうとしたが、無駄だった。若いながらも、考えが読めないポーカーフェイスは父譲りか。
だが、そろそろ仕事もしなければいけないし、さっきの小百合の対処も考えなければいけない。そんな事を考えていると、意外にも大地からここに来た目的を話始めた。
「さて。僕がここに来た理由です。藪から棒に聞こえるかもしれません、手っ取り早く要点だけを言いますけど、鳥谷部さん。父には気を付けてくださいね」
「…と言うと?」
訝しげに問いかけると、目の前の若者は指を組んで身を乗り出した。
「鳥谷部さんが思っているより、緑川光という人は容赦ないですよ。まあ、椿さんが何を思って貴方と婚約破棄したのかは知りませんけど…と言っても、貴方にとって、敷島椿と言う人間は取るに足らない人だったって言うのは海外にいた僕ですら知ってますから、ようやくって感じでしたけどね。そんな貴方に耐え続けた椿さんを、父が妻の座に据えたんです。あの父がね。僕の母が亡くなってから一切その座は埋まる事がなかった、その座に。
あの人が椿さんを愛してるとか言うのには反吐が出ますけど、それでも父にその言葉を言わせたからには、彼女に相当思い入れがありますよ。だから悪い事は言いませんけど、もう椿さんに関わらない方がいいと思います。と言っても、初めから関わっていたわけじゃないんでしょうけどね」
大地が椿の事をどう思っているのかわからないが、大地はなにやら忠告をしているようだ。意味がわからないまま彼を見ていると、ふっと遠くを見るような目線で楓を見た。
「鳥谷部さんって、昔の父に似てるんですよ。まぁ…父の場合、最後には母を失ってようやく自覚したみたいですけど、死んでから愛してる事を自覚するなんて馬鹿げてると思いません?」
「…君は父上をどう思っているんだ?憎んでいるんじゃないのか?」
「憎む…憎むねぇ…。好きではないですよ、とりあえず。でも憎いと思うほど、あの人を知っているわけじゃないんです。
僕はね、小さい頃に母方の祖父母に引き取られて年一回しか父と面会は無くて、その時も別に寂しいとか思った事はないんです。正直面会自体も面倒だとも思ってました。中学に上がる時、スイスのパブリックスクールへ行くと決めた時にその年一の面会も無くなりましたけど、僕は父の事を考えた事は一度もなかったなぁ。
あの人と僕は血が繋がっているだけです。そこに親子の情なんてものはありはしないんですよ。貴方が椿さんに抱いていた感情と同じです。あの人とは何の意思疎通なんて出来ないし、しようとも思わない。必要がないですからね」
信じられない思いでニコニコと笑っている大地をじっと見ていると、ふと、フロアのエレベーターが開いて嵐が戻って来たのが見えた。
嵐は楓の来客中の客の名前を聞くと、眉を顰めて専務室に入ってきた。
「おっと、surprise。どうも、緑川大地です。初めまして、橘のご当主様」
「あぁ、橘嵐だ。堅苦しく呼ばなくてもいい。しかし、どうして君がここに?」
「鳥谷部さんに忠告しに来たんです。父に気を付けろってね」
「…?緑川社長に?」
「三神小百合。さっきここに来てたようですけど…鳥谷部さん、彼女に何らかの形で結婚かなんかをしろとかって言われませんでした?」
その言葉に驚いた楓とその楓を見ている嵐の二人を他所に、あくまでもニコニコと笑う大地の顔は忌々しいほど父親に似ていた。
驚いている二人を面白そうに見ていた大地が立ち上がって、帰り支度を始めた。
「その顔を見ると、当たらずとも遠からずって所かな?まぁ父の考えそうな事ですね。とは言え、詳しい事は橘のご当主の方がご存知じゃないかと思いますが、一応ね。警告はしておこうかなと思って。なにせ相手は僕の義母の元婚約者と、その元親友ですからね。義母が何も知らないのも僕のポリシーに反するし、貴方達も知っておいた方がいいかなって」
「君…君はどちらの味方なんだ?」
「僕?僕はあくまでも傍観者の立場ですよ。父がどうなろうが、貴方達がどうなろうが僕に一切関係はないです。まぁ、生まれてくる子供には優しくしてあげようかなと思いますけどね」
何故それを知っているのだろう。楓もさっきそれを小百合から聞いて知ったばかりだと言うのに。唖然としている楓を不思議そうに見ていた嵐が、大地に「子供?」と問いかけた。
「そう、子供です。来年には生まれるんじゃないかな」
「…おま…おまえ、なんでそれ………小百合から聞いたのか!?」
「え?小百合…?なんで僕が三神小百合の事…あぁ、なるほど。それでここに来てたんですか。妊娠したから責任取れって?うわぁ、浅はか。噂通りのbitchだなぁ」
「そうなのか、楓」
「…あぁ。だが、相手は俺じゃない。絶対に違う。それでも俺が父親だと言うのであれば、DNA鑑定をしろと言ってある。実は三神社長からその件で呼び出されたんだ。今日仕事終わりで会って来る」
そう言うなり厳しい眼をした嵐が押し黙った。多分、何事か考えているのだろう。それにしても、こんな形で醜態を晒す羽目になるとは。
だが嵐とて知っているはずだ、楓が避妊に気を使っていたという事は。かといって避妊具は完璧ではない。だからと言って、あんなに節操無く遊んでいた小百合の腹の中の子供の父親が自分だと言われて、はいそうですかと言うわけにはいかない。
もしも。
もしもその子供が本当に楓の子供だったとするならば…。
そこまで考えて、その考えを打ち消した。
大体小百合も子供なんて欲しくないはずだ。前にそう言っていたのを覚えているし、一緒に出かけていた時も子供が泣いている場面に出くわした時、露骨に「五月蝿い」だの、「ウザイ」だのと子供嫌いを声高に宣言していたはずだ。
それを考えれば、小百合が子供を産むという選択肢があるはずも無かった。
「ま、せいぜい頑張ってくださいね。僕としてはゴシップ性に満ち満ちている鳥谷部さんの私生活って、海外のセレブ連中のそれに劣る事ないほど面白いと思ってますから。あー…っと、椿さんにもそれ言ったんですよね。そしたら倒れてしまって。ま、それでわかったから良かったと言えば良かったんでしょうけど」
「倒れた?椿がか?大丈夫なのか!?」
「緑川君、そろそろ帰るんじゃないのか?俺達もあいにく暇じゃないんでね」
楓の問いを遮るように嵐が口を挟み、それに対して抗議の声を上げようとしたのだが、大地が動く方が早かった。
出口付近に移動し、にっこりと笑んだそれはやはり父親譲りのものだった。
「椿さんが妊娠したんです。年の離れた弟か妹なんて、不思議ですよね。僕が父親だって言っても差し支えないようなものなんですから」
「…妊娠…?椿が…?」
「そうですよ。これから悪阻が酷くなるって言うのに、あんなに痩せてて大丈夫なのか心配ですけど、まぁその辺は父がなんとかするでしょう。なにせあの人の二十年振りの子供だし。さて、僕はこれで失礼します。お時間を割いてもらってありがとうございました。じゃあ、さようなら」
パタンと閉まったオフィスのドアの中、呆然とした表情の楓と嵐だけが取り残された。




