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第15話 彼の息子・・・椿

誰に謝ればいいのか。


何に対して謝っているのか。


全ては将来も何もない、真っ暗な闇しか見えない。



あの後、楓のホテルから連れ出され本来宿泊していたホテルに戻ったものの、椿の身体は震えが止まる事が無く。

それは一日を置いて沖縄から都内の自宅マンションに戻ってからは一層酷くなった。

高熱を出しずっとうなされていた椿を、光と専属契約を結んでいるホームドクターが眉を顰めて診察したのだが、精神的なものでどうしようもないと言われたのを椿は朦朧とする意識の中で聞いていた。



「椿…苦しくないか?」

「…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい………」

「謝らなくていい。大丈夫だから。ちゃんとここにいるから、今は眠りなさい」



光に優しくしてもらう権利など自分にはない。

合意でなかったとしても、自分は楓に抱かれてしまったのだ。はしたなく嬌態を晒し、夫である光にすら見せた事のない痴態を晒してしまった。


恥ずかしくて。


それ以上に、哀しくて。


楓に貫かれた瞬間焼け付くような激痛と共に、絶望の淵に落とされた。

これでもう光に顔向けできないと。

それと同時に楓の顔も見られなかった。自分を憎んで、嫌っているからこその行為に優しさは全くない。彼の元へ戻って来いも言っていたが、どうして戻れようか。


こんな事になってしまったからには、光の妻ではいられない。


やっと見つけて手に入れたはずの安息は、十八年間恋い焦がれた相手によって粉々に砕かれた。

こんな手段を取るほど楓は椿へ執着していたわけではない。ただ単に、自分の所有物だったものが自らの意志で選択した事が気に入らなかっただけだ。


現に自分のモノだと言っていた。


そう、モノだと。


それに、あと少しだったのに何故待てなかったとも言った。

その一年後には自分は死ぬ。

最後の一年をせめて自分らしく、誰かに愛されて死ぬのはそんなに悪い事なのか。


あの人は自分が死んでも悲しまない。それを確信していたからこそ、椿から離れた。それなのに、何故今更になってこんな事をするのだろう。



考えてもわからない。わからなくてずっと泣き続け、泣き疲れて眠るとうなされて起きる。それに付加した高熱により、椿はどんどん衰弱して行った。



一ヶ月そのような容態が続き、ようやくまだ微熱ながらも熱も引いてきて頼んでいた看護士にも毎日来て貰わなくてもよくなる位には回復していた。

随分窶(やつ)れてしまった椿を心配しながら、温かいお粥を食べさせてくれる光に感謝しつつ、こんな優しさをかけられる権利などないのにと自己嫌悪に沈む。そんな椿を見て、毎回悲しそうな目をして光がふわりと抱き締めてくれるのだが、椿自身が彼のその背に腕を回す事など出来なかった。



「じゃあ椿、私は仕事に行ってくるけど、大丈夫か?」

「大丈夫です、いってらっしゃい…気をつけて」

「いってきます」



あの事がある以前だったら、新婚夫婦らしく朝のじゃれ合いもあった。だが、沖縄から帰ってから以降、光からのキスを椿が拒んだ。そのため、苦笑しながら光は椿の髪や額に口付けて終わる。今日も玄関まで見送ると言う椿をベッドに残したまま、おでこに軽いキスをして出掛けて行った。


ガチャガチャとカギを閉める音が聞こえなくなると、看護士のいなくなったマンションの部屋は途端に静かになる。高層マンションではないものの、それなりに高層階に住んでいる。その寝室の窓から見える青空は澄んでいて、とても綺麗だ。


久しぶりに外の空気を吸いたいとゆっくりと窓を開けて、空気を入れ換えた。

あれから一ヶ月も経ち、外の景色も変わった。

今や桜が咲いている季節になった。そうなればそろそろ橘の本家にある椿も花を付けるはずだ。今年で見納めになるはずだったそれを愛でる事は出来なくなったが、御大やご当主夫妻が変わりに愛でてくれればいい。


微熱のせいでフラフラとしているが、一応は歩ける。身体をさっぱりさせたいと思ってシャワーを浴びる事にした。


楓に抱かれてしまった後、覚えていない内に光によって洗われていたらしい。それはそれで羞恥心が沸くのだが、それよりも罪悪感の方が大きかった。全身に付けられた鬱血の跡が残る身体を洗ってもらうなんて、無神経にも程がある。

それでも何も言わなかった光に感謝しつつ、募る罪悪感は今もなお底が見えない。


温かいシャワーを浴びながら、髪を洗って、良い香りのするシャワージェルを泡立てて身体を洗う。ふわりと香るそれに、自然と顔が緩む。

そう言えば、久しぶりに笑ったような感じがする。ずっと泣いてばかりいた目はだいぶ腫れが引いたとは言え、それでも少し腫れぼったい。

「駄目だなぁ」と自嘲しながら、泡を洗い流した。排水溝に流れていく泡を見ながら、シャワーブースを出てタオルで濡れた身体を拭いて、鏡台に写る自分の身体をしげしげと眺めた。


昔は痩せたいと願って、続かないダイエットをしたものだ。楓の隣に並ぶ彼女達のようになりたくて。

そんな椿の努力も無駄だと悟るより早く余命宣告を受けてしまって、それからは急激に落ちていく脂肪と筋肉。

今やモデルよりも細かった小百合より細くて軽いはずだ。小枝みたいだと自分の腕を見ながら、乾いた笑い声をあげた。

げっそりと痩けた頬をどこか他人事のように眺め、それ以上は見たくなくてバスルームを後にした。



シャワーを浴びたおかげで気分はさっぱりとしたが、何もする気力がない。テレビでも見ようと思ってリモコンを取り上げたが、来客を知らせるインターフォンが鳴った。時計を見るとまだ十時にもならない。と言うことは、光ではない。そもそも光だったら真っ直ぐ部屋に上がってくる。誰だろうと思って、カメラを覗くと見知らぬ男性だった。



「はい…?」

『あ、良かった、いた。こんにちは、僕は緑川大地って言います。緑川光の息子です。初めまして、お義母さん』

「光さんのって…?え、えぇ!?」



慌ててカメラをよく見ると画像は少し荒いものの、どこか光に似ている。驚いて開錠しようとすると、カメラの奥からそれを止められた。



『あ、僕は部屋に行く気はないんです。もしよかったら出て来てくれませんか?お義母さんも…椿さんも、部屋で二人きりよりだったら街に出た方が気が楽でしょう?』



椿はその申し出に驚いたが、さすがに外で待たせるわけにはいかない。少し待つように大地に言うと、急いで着替えた。顔色が悪いのは化粧で隠して、必要のない宝石類は何もつけないで部屋を出た。

エントランスに行くと、椿とさほど年の変わらない男性が椿を見てそれから一気に破顔した。光によく似た笑顔にどきりとする。



「初めまして、緑川大地です。すみません、今頃になって結婚の祝いに来てしまって。大学が休みになったんで来てしまいました」

「初めまして、椿です。あの…今更ですが…」

「あぁ、うん、はい。わかってますよ。っと、こんな所で立ち話も何ですね。僕はこの辺が全然わからないんですけど、椿さん、どこかで話せるような店とか知ってます?」

「あ…はい。じゃあ、少し歩いた所にカフェがあるので、そこでいいですか?」



はいと笑顔で答えた大地は本当に光に似ている。少しだけ目元が柔和に見えるのは、母親の面影だろう。それでも父親によく似ている。


カフェまでの短い距離を歩く中、今まで光から得ていた情報を整理する。

大地は確かイギリスの大学に在籍してはずで、年は二十歳かそこらだったはずだ。そんな年なのに自分とそう年の変わらない椿が母親と言うのは、年頃の大地にとってあまり気持ちの良いものではないはずだ。

しかし、隣を歩いている彼からはそういった剣呑とした雰囲気は感じられないし、むしろ好意的にすら感じてしまう。

彼とは一度も会った事も無いはずなのに…と不思議に思ったものの、単に人見知りのしない人なのかもしれないと思うに留めておいた。


しかしながら、父親と母親の確執を見ていた大地にとって、今現在の光はどう写っているのか疑問に思う。

今朝光は何も言っていなかったことを考えると、大地は何も連絡をせず日本に来たのだろう。流石に何年も会ってないとは言え、親子は親子。息子が日本に来ている事は光にも一言言っておかなければならないのではないか。


さて、どうしたものか…。

光に連絡した方がいいのだろうか。


うんうんと一人で考え込んでいると、さほど時間をかけずにカフェに着いて席に案内された。

大地はブラックコーヒーを、椿はアイスティーを頼み、店員の軽やかな声と共に飲み物が並び、いよいよ何を言われるかと思い椿は思わず身構えると、大地は椿の固い表情を見て意外にも苦笑していた。



「そんなに緊張しないで下さい。僕は別に怒鳴り込みに来たわけじゃないんですから」

「…でも、私みたいな同年代の女が義母って嫌じゃないですか?」

「ははっ、そりゃあね。金目当ての性悪女だったら凄いいびってやろうと思ってましたよ。だけど、周りから敷島の娘だって聞いてそれはないだろうなーと思ったんです」

「…え?」

「あのね、椿さん。僕はずっとスイスのパブリックスクールにいたし、大学もイギリスの大学に行ってる。日本からずっと遠ざかっていたのは事実ですけど、だからと言って、ウチと橘のライバル関係を知らないわけじゃないんです。まぁはっきり言って、父は好きじゃないですけど、それでも一応は自分の父親が経営している会社ですからね、将来的には僕もそこに入ろうと思ってるし。気にならないと言えば嘘になります。それに、橘の一族関係もなかなかゴシップ性に溢れていて見ていて飽きなかったし」



くすくすと笑いながらコーヒーを飲んだ大地は、味が気に食わなかったのが、眉を少しだけ顰めてカップをソーサーに戻した。

その様子を黙って見ていた椿も、自分のグラスが水滴をかいているのを見て少しだけ飲んだ。



「敷島椿。橘の分家の敷島家出身で、小中高と女子校卒業、大学は国立大学を奨学金で入学。そこで優秀な成績を修め、卒業後は橘の会社に入社。そこで父と結婚するまで総務の事務職を一年勤める。家族構成は亡くなられたご両親。亡くなられてから今までずっと貴女を育てた兄、樹との二人家族。兄妹は良好。年の離れた兄は少しシスコン気味だけど、叱るところはしっかりと叱る。ここまでは合ってます?」

「シスコン…ふふっ、まぁ…そうなのかもしれませんね」

「あれ、少し違ってました?」

「いいえ、兄は私を大事に護ってくれていましたから。間違ってないと思いますよ。兄には感謝してもしきれないんです、私」



少しだけ笑った椿を見て、大地も目を細めた。そんな仕草も、やはり光に似ている。



「貴女が有名だったのは、やはり婚約者の事ですね。鳥谷部楓。橘家の御三家である鳥谷部家の一人息子で、跡取り。そして貴女の元婚約者」



知らず体温が下がる気がする。寒くもないのにカタカタと震えだした椿を訝しげに見た大地は、大丈夫ですかと声をかけたが、椿は力無く笑う事しか出来なかった。それも上手く笑えていたかわからないが。



「僕がスイスにいた時もよく噂では聞いてましたよ。凄い女性遍歴だってね。まぁ実際そうだったんでしょうけど、それでも貴女はずっと耐え続けた。貴女自身には全く見向きもしないのにね。その状況、貴女にとって辛かったですか?特に貴女の親友だと言う三神小百合と関係を持っていたのも最近発覚しましたし」

「……つらい…?」



力無く聞き返した椿を見て、大地は苦笑した。



「あぁ、すみません。僕、遠回しに聞くのって得意じゃないんです。だからはっきり言いますけど、何が貴女を鳥谷部楓から諦めさせたんですか?僕は貴女が本気で父を愛しているなんて思ってないんですよ。だって鳥谷部楓の不実な態度を十八年間ずっと我慢してきたんなら、今更親友との浮気がどうとか関係が無かったんじゃ…って…ちょっと椿さん、本気で顔色悪いですけど…もしかして体調が悪かったんですか?」



大地が心配するのも当然、今や椿の顔は青いを通り越して真っ白で、全く血の気がない。

その顔色の悪さにさしもの大地も血相を抱え、思わず身を乗り出して椿の熱を計ろうと手を額に持っていく瞬間、椿の意識はぶつりと途切れた。

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