第14話 暴走・・・楓
無理矢理描写がありますので、苦手な方は回避してください。
楓が目を覚ましたのは、無機質な電子音でだった。
ふと音の出先を見ると、それは先ほどベッドの上に放った椿の携帯だった。
どうやら先程放った時、ベッドの下に落ちてしまったらしい。振動させ音を鳴らせているので仕方なくを拾い上げ、発信者の名前を見て思わず顔を顰めた。
しかしあまりにもしつこく鳴るので、楓は通話のボタンを押して応対していた。
『もしもし、椿?エントランスにいるから降りて』
「椿は寝ています。申し訳ありませんが、今言う部屋まで来てもらえませんか」
『……鳥谷部か…。わかった、部屋はどこだ』
自分のいる部屋番号を告げ、携帯を切った。
とりあえず服を着なければ。
そう思って、ベッドから立ち上がって下に脱ぎ散らかした衣服を身に付けた。シャワーを浴びたいが、すぐに人が来る事を思えば浴びている暇はない。
仕方がないので鬱陶しく落ちてくる髪をかきあげて、ベッドルームを出た。
未開封の冷えたミネラルウォーターを半分ほど一気に飲み、一息ついたところでコンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえたので、重い足を引きずるように遠くも無い距離を歩いた。
ドアを開くと憮然とした表情の緑川光が立っていて、少しだけ厳しい目で睨みつけられた。
「椿は?」
「あっちですが…でも今は待って下さい」
「もしかして具合が悪いのか?それは失礼したな、やはり沖縄の気候が合わなかったかようだな…この季節なら大丈夫かと思ったんだが」
「何で椿を抱いてないんだ、あんた」
その言葉にピクリと反応した緑川は、すぐにベッドルームがある部屋を睨んだ。今そこはドアが閉められているが、奥のベッドでは椿が眠っている。
「抱いたのか」
「………」
「…そうか。椿を連れてすぐ出て行く」
静かにそう言うと、ベッドルームに入って行った。さすがに入って行く事は憚られたので、部屋のドアに凭れて様子を伺っていた。
数分も経たない内に、薄いドアの向こうから泣き声が聞こえ始めた。
何度も謝っているような言葉も泣き声に混じって、途切れ途切れに聞こえてくる。その声を聞きながら、楓は己の手の平をじっと見た。
微かに奮えている手をもう片方の手でぎゅっと握り、固く目を瞑った。
泣かせたかったわけではない。
だが、自分の感情が制御できないほど、あの赤い指輪に揺さぶられていた。
あの指輪が存在しない椿を自分のものにしたかった。他の誰のものでもない、ましてや緑川のものでもない。
元々自分だったはずのものに。
ここ、沖縄で椿を見かけたのは本当に偶然だった。
嵐から言われていた問題点はさほど時間をかけずに解決した。仕事が一段落し、泊まっているホテルまで車を走らせ丁度国際通りで停まっていると、影で揉みあっている男女が見えた。ナンパの類だろうと気にせず時計に目をやろうとした時、キラリと何かが反射し、それが楓の時計へと赤い光を弾いた。
何だと思って光源を探そうとさっきの揉めている男女を見ると、我が目を疑った。男の方に見覚えはないが、女の方はもう会わないと言った椿だった。
どうして沖縄にいるんだと思った時には、車を止めるように運転手に声をかけていた。
先程の赤い光は椿の指輪だったらしい。
彼女に殴りかかろうとしていたナンパ男を逆に地に伏せさすと、男の手からその指輪がコロコロと転がり落ちた。それを全くの無意識のまま拾い上げ、スーツのポケットにしまった。
後ろから驚愕している声が耳に入って、振り返ると椿が呆気に取られたような顔をしているのが見え、怪我をしていないか確かめ、男に釘を釘をさしてさっさと彼女と共に待たせていた車に乗り込んだ。
車内では椿が何を言うわけではない。彼女自身動揺していたのもあるが、元々自分達の間には会話というものが無かった。
婚約していた長い間、いつも話しかけるのは椿からで楓から話を振ったことはない。その椿から話しかけてきた内容も自分にとっては、大した内容のものではなかった。大体遊び盛りの高校生の時期に小学生と話が合おうはずもない。
それなのに婚約者だなんて言われるのは嫌だったし、興味も無かった。
そんな昔の事を思い出していると、椿が運転席の方に身を乗り出したがすぐにシートに凭れた。
目を閉じて俯いている顔が心なしか青いように見えて、酔ったのかと思い声をかけたが、そうではないと否定された。
そして、自分の泊まっているホテルまで行って欲しいと頼むと、そこは緑川系列のホテルの中でも最上級のホテルだった。そこに椿が一人で泊まっているわけではないだろう。きっと緑川と泊まっているのだろうと目測を付けると、我知らず顔が強張った。
椿が無理だったらここで降ろしても構わないと行ったが、ここは交通の便があまり良くない。運転手に泊まっているホテルまで行ってくれと言うと、椿が少しだけ笑ったように思えて楓は意識せずそちらを向いたが、既に彼女の顔は車外の景色に向けられていた。
そして訪れた沈黙が痛い。
今までこんな事は日常茶飯事だったはずなのに、何故か今は沈黙が痛いと感じる。
ふと椿の視線を感じて顔を向けると、体ごとこちらを向いて助けてもらったことへの感謝の言葉を貰った。別にあれ位はなんでもないと思って、そっけなく答えた。何故か返事をした事に意外そうな顔をされたが、それ以上何か会話が弾むわけでもなく、車内はまた静かになった。
目を閉じて、再び昔の事を思い出す。
橘家恒例の隔月パーティは、フォーマルのものからそうでないものまでいろいろあったが、いつも椿は振袖姿だった。
緑川と結婚報告があったパーティの時のようなドレスは一度も着た事はない。そして、その時に結い上げてあった艶やかな長い黒髪は、今はばっさりと切られ、金茶に染め上げられて白い首筋が見えるほど短くなった。
あの時、白い首筋を煌びやかなダイヤが飾っていた。
今はまた外の風景を眺めて、こちらに向けられているうなじを隠すこともしない椿を見て、急いで目をそこから引きはがし、自分もガラスの向こうを見るともなしに眺めるフリをする。
くそっ…!
訳のわからぬ苛立ちを紛らわすためにスーツのポケットに手を突っ込んで、ギリッと握り締めた手に何かが当たった。
右のポケットに入れていたソレをそっと取り出すと、相変わらず赤い光を弾いているルビーの指輪だった。
椿の結婚指輪。
椿が緑川光のものだという証。
椿の花は、赤と白。
まさにこの指輪と同じだ。真ん中に存在感を示している真紅のルビーに、周りを取り囲む無色透明なダイヤ。贅を尽くしているはずのソレは、全くいやらしくない。むしろ、清楚な感じすら漂っている。
これを選び贈った男は、椿の伴侶となった。
自分がいるはずだった椿の隣に。
歯噛みした気持ちを抑えて隣にいる椿をちらりと見ると、疲れたのかだろうか眠っている。
しかし、さっきより顔色が悪い。
はっと我に返った楓は、大丈夫かと声をかけようと思ったが具合が悪そうだし、寝ているのを起こすのも悪い。
そう思うのだが、顔色が悪すぎる。あいにく彼女が泊まっているホテルはここから更に時間がかかる。ふと考えを巡らし、自分が宿泊しているホテルはすぐ近くなのを思い出した。
この顔色の悪さだ、椿の具合が悪いのかもしれないと考えた楓は、運転手に自分が泊まっているホテルまで行けと命じた。
運転手は最初いい顔をしなかった。それも当然だろう。楓は元婚約者だったとは言え、椿は今、緑川光の妻だ。
楓とてそれを考えなかったわけではないが、ちらりと椿の顔色を見た運転手もあまりの顔色の悪さに驚いて素直に楓の指示に従いホテルに直行してくれた。
ホテルに着いても椿は一向に起きる気配がなく、仕方がないので運転手が抱き上げて運ぼうとしたのだが、楓はそれを自分ですると言って断った。
後部座席から抱き上げる時、椿のあまりの軽さに驚いた。
この分だと小百合はおろか、今まで付き合った事がある女達の誰よりも軽いはずだ。
なにもここまでダイエットしなくてもいいと思うが、それも緑川光のためだと思うと苛立ちを感じた。別に部屋を取りましょうかと先にホテルに着いて居た秘書から進言されたが、どうせすぐ帰るからと言って自分の部屋に運んだ。
自分の部屋へ運んで、ベッドに寝かせる時に苦しいだろうと思って、着ていたアウターの類は脱がせた。幸いインナーは着ていたのでさすがにそれは脱がせなかったが、露わになった小枝のように腕が細い。
その事に改めて驚いて、フレアのスカートはそのままにしてシーツをかけて横にする。あれだけ動かして起きない椿に少し呆れて、そして苛立った。
楓だったからよかったものの、さっきのような男にこんなに隙を見せたら確実にヤられているだろう。それに指輪を見て金を持っているとも算段を付けていたようだ。そうなれば、強請るためにビデオだなんだと撮られていたことだろう。
そこまで考えてぞっとした。
緑川光の手が付いていると言うのだけでも我慢がならないのに、他の男に椿が抱かれるなんて考えたくもない。
ベッドを見下ろして寝ている椿を見る。ようやく顔色も落ち着いてきたように思えるが、まだ寝息を立てているところを見るとよっぽど疲れていたらしい。
それにあの軽さだ、どうせまともに食べてもいないのだろう。
仕方がないので、寝室を出てルームサービスで軽いものでも頼もうと電話を取ろうとしたとき、隣の部屋で身動きする音が聞こえた。どうやら椿が起きたようだ。
部屋に入ると、楓の顔を見た椿の折角戻った顔色がみるみるうちに青ざめて行く。
どうしてここにいるのかわからないという疑問を、顔色があまりに悪かったので自分の泊まっているホテルに連れてきたと言うと、うそ…とだけ言って口を噤んだ。黙ってしまい、青ざめて行く椿は身体をさすっていた。エアコンが寒いのかと思って聞いてみるとそうではないらしい。
「あの、私帰ります…。申し訳ありませんが、裏口にでもいいのでタクシーを呼んでもらえませんか…」
そんなに自分と一緒にいるのが嫌なのか。昔は頼みもしないのに付きまとっていたくせに。
楓がむっつりと考えてると、サイドボードの携帯を取った椿がそれを開いた。
どうやら自分で呼ぼうと思ったらしいが、先ほど着信があった。見ると緑川からだったが、さすがに自分が出るのはまずいだろうと思ってそのままにしていたが、椿はそれを確認するとふと自分の指を見て、ますます青ざめた。多分指輪をあの男に取られたと思っているのだろう。
どうしようと呟きながら呆然としている彼女は、まるで迷子の幼子のように見えた。
震える手で携帯を開いまま一向に電話をしようとしないので、仕方が無いので自分が連絡してやろうと思い、椿の携帯を取りあげてかけたくもない男に電話した。
ちらりと椿を見ると、相変わらず震えている。寒くないのかもしれないが、念のためエアコンの設定温度を上げて呼び出し音に耳を傾けた。案外早く出た緑川は、椿の電話に出たのが彼女ではないのに驚いていた。
『誰だ?』
「鳥谷部です」
『鳥谷部…?なんで君が椿の電話に出るんだ。彼女はどうした』
「椿が通りで絡まれているのを偶然見かけまして、私が保護しておきました。それで宿泊しているホテルに送って行こうとしたんですが、車中であまりにも顔色が悪くなってしまい、それで私が泊まっているホテルに連れて来たんです。今、彼女は帰るためにタクシーを呼ぼうとしていますが」
『いや、いい。私が迎えに行く。今からだと……そうだな、一時間もあれば着くだろう。椿に言っておいてくれないか』
「わかりました」
『しかし…保護か…。君の椿に対する感情の全てがその一言に表れているな』
「どういう事ですか」
『まあ深い意味はないさ。じゃあ一時間後にな』
そう言って電話は切れた。
緑川が最後に言った言葉の意味がわからない。保護と言った事の何が悪い。実際あれは保護だろう。絡まれている椿を助けて、それからホテルに連れてきたんだから。
言葉の謎が解けないまま、椿に緑川が一時間で迎えに来るという旨を教えてやると、目に見えてホッとした様子で、彼が来るまでロビーで待つと言い出した。そしてベッドから降りようとしている彼女を見て、だんだん腹が立ってきた。
そんなに自分と居たくないのか。この前の事も結局謝らず仕舞いだ。その事すら謝らせてもらえないのか。
あの華奢な身体で、自分の側からすり抜けて行った椿。その足で緑川の元へ歩いて行った。
一言も、何も言わないまま。
自分の婚約者だった。
十八年間も、ずっと離れなかったのに、何故今更になって離れた。
楓の知らぬ内に膨れ上がっていた思いが、段々決壊しそうになっている。
どうやって止めればいいのか。それを止める手段として、楓は椿に辛辣な言葉を吐いた。
「随分と気前のいい旦那を捕まえたじゃないか。金持ちで何でも買ってもらえるんだろ?」
――あのダイヤのネックレスもイヤリングも買ってもらったんだろう?俺を苛み続ける、あの赤いドレスも――
「ここに来ているって事はハネムーンか?それにしては遅いし、しかも国内か」
――泊まっているホテルは最高級。きっとこの間みたいにインペリアル・スイートだろう。あの男と一緒の部屋なんだろう?――
「凄いな、これ。ピジョンブラッドか…」
忌々しいほどの赤色を弾くそれは、相変わらず一点の曇りも無く光り輝いている。
ピジョンブラッド。
ルビーの中でも最上の物で、滅多に手に入らない最高級。
椿と小百合のようなものだ。椿がピジョンブラッドだとすれば、小百合は研磨しても取るに足らないルビーだろう。
それでも、ルビーの価値はあるとして一般向けに放出されるだろうが、その分価値は劣る。それをあの女はわかっていない。
指輪を目線の高さに掲げて見ていると、椿が返してといって食って掛かってきた。椿の身長は高くない。それなのに必死にこの指輪を取り返そうとする椿を見て、ますます腹が立った。
そんなにこの指輪が大切なのか。そんなにあの男の妻に執着しているのか。自分に十八年間ずっと思いを寄せていた時のような目で、態度で、気持ちで。
心がどんどん冷えていく。それと呼応するかのように椿に対する言葉も棘を含む。
「随分痩せたな、何キロ落とした。それも全部今の生活を得たかったからか?だとしたら成功したな、椿。その身体で落としたんだろ?あの緑川光を。俺との婚約期間中に浮気してたのか?だとしたら、俺ばかりが悪く言われるのは間違ってるよな、そうだろ?」
彼女の見開かれた瞳が、何を言っているのだと責める。
「十八年か…」
そう、十八年。今更。
「十八年。それだけ待ったのに、なんで今更他の男と結婚したんだ。どうしてもう少し待てなかったんだ、椿。もう少し待ったら結婚出来たんだぞ。それなのにみすみす今までの事を全部捨てて、何で他の男の元に走った。なんで俺から離れた!」
逃げようとする椿の手首を掴んだ。椿は必死に逃げようとするが、それは微々たるものだった。
放してと叫ぶ彼女の声なぞ、とうに聞こえていない。
「ここで俺が嫌だと拒めばどうする。それでも放せと言うか」
「当たりま…っ!んんっ!」
拒否の言葉を聞きたくなくて、椿の唇を塞いだ。抵抗する彼女を力で抑え込み、拒むそれを強引に割り開いて、舌を絡めとった。身体も自分の腕の中で拘束し、相変わらず矮小な力で逃げようとする彼女をベッドに押し倒した。ベッドに沈んだ事に気付くと離れようともがき始めたので、自分の首からネクタイを引き抜き、それを使って椿の両腕を頭の上で縛り上げた。
彼女の耳元でどこか言い聞かせるような口調で囁く。
「最初からこうすれば良かったのか。そうしたらお前は俺から離れて行かなかったんだろ?あんな指輪もしないで、俺の側にいたんだろう?そうだよな。最初からお前は俺のものなんだからな」
「違…っ!…やっやだ!!いや…いやぁぁぁっ!!!!」
「なぁ、椿。俺がこのままお前を抱いたら」
――お前は俺の元に戻って来るのか?――
「それじゃあ」
去って行く椿を見る事が出来なかった。
彼女も自分の方を見る事は無かっただろうが、相変わらずごめんなさいと謝っていたようだ。
誰に対しての謝罪なのか…。自分なのか、それとも緑川に対してなのか、それとも違う、彼女自身に対してなのか。
楓をちらりとも見なかった緑川は何も言わず、何も無かったかのように椿を抱いてさっさと部屋を後にした。
いっその事、罵られ、殴られたほうがまだいい。何も言われない方が余程堪える。
椿が去った寝室に戻ると、彼女が寝ていたはずのベッドのシーツに赤く広がる鮮血が否が応にも目に入る。
まさか椿が処女だとは思っていなかった。
拒否と懇願の言葉を全部無視して、感情の赴くままに一気に貫いた彼女の身体の狭さに驚いて楓は急いで身体を引いたが、もうその時には椿は自分を見ていなかった。
何故かその事が無性に悔しくて
椿に自分を見させようと半ば強引に感じさせて声を上げさせた。
だがそんな事をしても、椿の目は楓を見る事は無かった。
「…ごめん…椿…」
誰もいない寝室に楓の声だけが空しく響いた。