第13話 すれ違う思い・・・椿
無理矢理描写がありますので、無理な方は回避してください。
光は出張のついでだとは言ったものの、それが嘘なのではないかと思うほど椿の側にいた。それこそ、これがハネムーンだと言われても遜色が無いほどに。
沖縄に来て早々に美ら海水族館へ行った。
楽しみにしていたジンベイザメも見れたし、更にはマンタも見れて、終始関心しきりでご満悦だった椿に光は呆れたような表情を浮かべていた。だが、彼自身も迫力のある水槽内の魚に関心しきりだったけれども。
またもう一度来ようとは椿も光も言わない。
だから、今の感動を心に留め置く。
忘れたくない。だけどそれは無理だと知っているからこそ、一瞬一瞬が愛おしい。
椿は光の温かく大きな手を握りながら、そう思った。
とは言えやはり光は仕事で沖縄へ来ているので、彼が仕事に行っている間暇になってしまった。身体の事を考えると遠くに行けず、結局定番の首里城に一人で来ていた。
首里城までの坂道は椿の今の健康状態では辛いものがある。でも、ずっと観てみたかった首里城を前にして引き返すと言う事はしたくなかった。
ふうふう言いながらようやく城の前に着くと、目の前には赤と白の石畳があり、その奥には立派な正殿が聳え立っていた。開門時間になると、琉球王国時代の衣装を着たスタッフが格式めいた開門の合図をしているのを厳粛な気分で見ていた。その厳かな感じに圧倒されつつも、中に入っていろいろと観て回った。
歴代の琉球王国の王の肖像画は意外にも興味をそそられた。長い歴史を見て行く上で、本当に沖縄という地は面白いなと思った。
タクシーで国際通りまで行くと、たくさんの観光者向けの店が立ち並んでいる。そこを一人でぶらぶらと眺めていると、見知らぬ男に声をかけられた。お茶でもどうだという事はナンパだろう。随分ベタな手だなと思いつつ、気付かぬ顔で通り過ぎようとすると、急に手を引かれた。驚いてその男の顔を見ると、ニヤニヤと笑っている。思わず総毛だって振りほどこうとするが、華奢な椿の身体がずるずると脇に押しやられて行くのを、皆そ知らぬ顔で歩き去って行くのを見て椿は泣きたくなった。
「放して!」
「えー?いいじゃん、別に。一人なんでしょー?だったら俺と遊ぼうよ。ね、絶対楽しいからさぁ!」
「嫌ですってば!放してください!!」
「まぁまぁ。…おっとー、何この指輪。すっげ、これ本物?」
捕まれた腕が外れず、ナンパ男は椿の付けている指輪に目敏く目を付けた。
ピジョンブラッドのルビーは非常に高価で、光が贈った指輪は更にその周りをダイヤが取り囲んでいる。椿はその値段を知らないが、市場価格にすれば数千万はくだらない代物だ。その高価な指輪をしている椿をいいカモだと思ったのか、男は椿からその結婚指輪を抜き取って更に執拗に椿に絡んだ。
「ねー、俺と遊んでよ。金持ってんでしょ?左の薬指にしてるって事は、あんた結婚してんの?人妻なわけ?うわー見えないね」
「貴方に関係ないでしょ!指輪、返して!!」
「ねー、人妻がこんなところで一人で歩いてるって事は今暇なんでしょ?ぱっと見、あんた人妻には見えないしさ。いいなー、俺人妻とヤッた事ってなかったんだよねー。ね、今からいいとこ行かない?絶対満足させてあげるからさ!」
「いや、放して!」
椿は恐怖から、何が何でも逃げなければ行けないと思い、腕をがむしゃらに振り回した。
その腕が運悪く男の顔を掠った。当たる事はなかったのだが、その抵抗が男の頭に血を昇らせたようだ。今まで愛想の良い笑顔を貼り付けていた顔が、見る見るうちに憤怒の表情へと変わっていくのを、椿は恐怖を感じながら見ていた。男が手を振りかざす瞬間、来るべき衝撃に備えて目を閉じた。
だがその衝撃が来ず、恐る恐る目を開けて前を見てみると、そこにはもう会う事がないと思っていた楓が立っていた。
「え…?」
何故ここにいるのか信じられなくて、椿は恐る恐るその名を呼んだ。もう呼ぶ事はないと思っていたその名前を。
「か…かえ、で…様…?」
「椿、大丈夫か!?こいつに何もされてないだろうな!?」
大丈夫だという意思表示に首を縦に振って見たけれど、なぜ彼が沖縄に楓がいるのかわからない。
それに、ナンパ男に絡まれていた自分をどうして助けてくれたのだろう。
理由がわからず楓をじっと見ていると、うめき声が聞こえてきたのでその声の方を見ると、さっきまで絡んでいた男が地面に這いつくばっていた。驚いて思わず楓の顔を見ると、椿の視線の意味が気付いたようにそこにいる男を睨んだ。
「警察に突き出されたくなかったら、金輪際ここでのナンパはやめるんだな」
今まで聞いた事のないようなドスの効いた声で男を退けた楓は、椿の腕を取ってその場を離れると停めてあった車に乗り込んだ。
どうやら自分は楓に助けて貰ったらしい。
だがどうして沖縄に楓がいるのだろう。
その疑問が口に出てしまったらしい。楓は短く「仕事だ」と言うと、それきり黙ってしまった。
一度口を閉ざすともう何も話してくれない事を知っている椿は、自分が泊まっているホテルに行ってくれと頼もうと、運転手に向かって身を乗り出した。
その瞬間、軽い目眩がして思わず座席に沈み込んだ。そう言えば、朝に光に食事を食べるように言われたのだが、あまり食欲が無くて少ししか食べられなかった。そんな中で首里城までの道のりを歩いて、先ほどの男の一件だ。流石に身体に負担が掛かったらしい。
いくら快適なシーズンとは言え、水分補給ですら満足にしてない椿にとっては、それら些細な行動とは言え自殺行為に等しい。
目眩が治まるまでじっと目を閉じて俯いていると、隣に座っているはずの楓が随分と近くにいる事に気付いた。
「どうした、酔ったか?」
「…いいえ、何でもありません。少し目眩がしただけです」
「目眩…?その割には顔が真っ青だぞ」
「大丈夫ですから…。あの、私が泊まっているホテルに行ってもらえませんか。そこまで行けば大丈夫ですから」
「どこに泊まってるんだ?」
ぶっきら棒に尋ねられたそれに、椿は光と一緒に泊まっているホテルを答えた。
ホテルの名前を聞いて一瞬楓が顔を顰めたように感じたが、ここから少し距離がある場所だからだろう。嫌だったら別にここで降ろしてもらっても構わない。
タクシーを拾ってホテルに戻るだけなのだから。
光に電話してもいいが、今日は大事な会議だと事前に言われているので迎えに来てもらえないだろう。
そんな事をつらつら考えながら、こみ上げてきた光への親愛に少しだけ笑みがこぼれた。
流れる車窓の景色を見ながら、隣にいる楓の様子を伺っていた。まあ、いつものように椿には無関心な様子だ。そう言えばさっきの礼をしていない。助けてもらったのに礼の一つも言わない女だと思われるのが嫌で、身体を楓の方に向けて頭を下げた。
「さっきは助けていただいて、ありがとうございました」
「いや…別に」
楓から返事が返ってきたことに驚いたが、それから別に話すことがあるわけでもない。十八年間もこんなやり取りはいつものことだった。話下手な椿が一方的に話すだけ。元々話し上手でない自覚はあるだけあって、何も面白い話など無かったはずだ。
しかも椿と楓は六歳離れている。小学生が中学生と、中学生が大学生と共通の話題などあるはずもなく、年々話題と言うものは無くなって行った。それでも話かけ続けたのは、一重に楓と何か話をしたいという願望にも似た願いがあったからに他ならない。
十歳離れた兄ともジェネレーションギャップがあるのだ。六歳とは言え、その差は大きい。
だが、会話とはキャッチボールのように相手が何か反応を返してくれるからこそ成り立つもので、一方的に話しているだけなら独り言となんら変わりは無い。
今だからこそわかる。
兄とも、そして親子ほど年の離れた椿と光の会話が成立しているのは、ちゃんとお互いに感情があるからで、だからこそお互いを分かり合い、そして慈しみあうのだと。
比べる事など出来ようはずもないが、やはり自分は楓への思いを婚約破棄と共に昇華してしまった事は良かったと思う。
そして、その隙間だらけになってしまった心の中に、光という存在が出来た事も椿の存在価値が確かにあるのだと実感させてくれる。昔は悲しいほど恋焦がれた楓が隣にいても、ピリピリとした空気に緊張感を感じこそすれ、あのドキドキとした気持ちの高ぶりは感じられない。
それを別に悲しいだとも思わない。むしろ、これで良かったのだと言う思いしかない。
そんな事を考えながら、椿は疲れと車の心地よい振動の中でいつしか眠りについていた。
椿が目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。
光と泊まっている部屋ではない。ベッドが違う。まだ覚醒しきっていない頭でぼんやりと周囲を見渡す。
どうやら、自分が宿泊しているホテルの部屋ではないようだ。
そこまで考えて一気に目が覚めた。慌ててベッドの上に身を起こすと、上着やらは脱がされているが、さすがに下に着ていたインナーの類は身につけていた。その事にホッとしつつも、ここはどこだろうとキョロキョロと見回していると、寝室のドアが開いて唖然とした。
「起きたか」
「か…楓様…?…あの…ここは…」
「お前の顔色があまりに悪いから、俺が泊まってるホテルに連れてきた。こっちの方が近かったからな。ちなみにここは俺の部屋だ」
「…うそ…」
頭が付いてこない。
何故よりにもよって楓の部屋に連れてきたのだろう。せめて、ここが楓が泊まっている部屋ではなく違う部屋だったら良かった。
自分の立場を考えると、ますます寒気がしてくる。光を裏切るような事はしていない。だけど、自分は緑川光の妻である以上、元婚約者だった楓と一緒の部屋にいるとわかった時点で、双方大変なスキャンダルである。それがわからない楓ではないのに、何故今回に限ってそのような思慮が浅い行動を取ったのだろうか。
それに、本家の、御大の目の前で投げつけられた罵声が椿の頭に木霊して響く。思わず身震いをして、腕をさすった。
「椿?どうした、寒いのか?」
「い、いいえ………あの、私、帰ります…申し訳ありませんが、裏口にでもいいのでタクシーを呼んでもらえませんか…?」
俯いたままそろそろベッドを下りようとして、サイドボードに自分の携帯が置かれているのが見えた。
楓からのリアクションはない。と言う事は、自分でタクシーを呼べと言うことだろう。楓の手を煩わせる事は、彼が一番厭う事だ。
未だにそんな事が体に無条件でこびり付いている。泣きたくなるほど呆れてしまったが、十八年間ずっとそうやって生きていた。
その事を否が応でも思い出してしまう自分に辟易した。
震える手で携帯を開くと、光から着信があったらしい。
時間を見ると既に会議が終わった時間だった。青ざめたままの椿は光に電話をしようとして、結婚指輪がないのに気付いて更に蒼白になった。
「……指輪……」
そう言えばあの時、男に抜き取られたまま返してもらっていない。もう一度気を失ってしまいたいと切に願がわずにいられない。
だが、そうしたところで指輪は戻ってこないし、光にも申し訳が立たない。
だが一先ず、光に連絡を取らねばならない。すっかり冷たくなってしまった手で口許を覆いながら震える手で携帯を弄っていると、側で見ていた楓が椿の手の中からそれを奪った。
「あ…!」
「俺から連絡してやる。お前、今にも死にそうな顔してるぞ」
本当に。
この人は、残酷な事をさらりと言う。
知らないのだから無理はないが、それでも楓の口から『死』という言葉は聞きたくなかった。心に小さな小さな波紋が静かに広がっている中、楓は椿の携帯から止める間もなくさっさと光にかけてしまった。何事か話しているが、耳に入って来なかった。
俯いてぼんやりしていると、携帯がベッドの上にポンと放られて返された。のろのろと顔を上げると、むっつりとしたままの楓がそこに立っていた。
「一時間後ぐらい迎えに来るらしい。良かったな」
「…そうですか…じゃあロビーで待ってます。ご迷惑をかけてしまい、申し訳ありわけありませんでした。お気使い、ありがとうございました」
そう言ってベッドから降りようとしたときに、楓が口を開いた。
「お前、随分といい旦那を捕まえたじゃないか。金持ちで、何でも買ってもらえるんだろう?」
「…え………?」
「ここに来ているって事はハネムーンか?だが、緑川社長も仕事らしいしな。仕事ついでにハネムーンか。随分とまあ…謙遜したもんだな」
どうやら楓は自分を貶したくて仕方がないらしい。謂れのないことだとわかっていても、傷つかないわけではない。聞くともなしに聞いていると、楓が苛立たしげに上等なスーツのポケットに手を突っ込んで、人差し指に引っ掛けて椿の目の前に掲げた。椿の結婚指輪を。
「…それ…私の…」
「凄いな、これ。ピジョンブラッドとダイアモンド。一体幾らしたんだ、これ?」
「かえ…返してください!」
背の高い楓に掲げられてしまった指輪を取り返そうと、椿は我知らず躍起になって楓にかかって行った。そんな椿に最初は意外そうにしていた楓も、口許ばかりを歪めた笑みを浮かべて返そうとしない。そればかりか、どんどんと椿を傷をえぐるような事ばかりを言ってくる。
「随分痩せたな、椿。何キロ落としたんだ?それも全部今の贅沢な生活を得たかったからか?だとしたら成功したな、椿。その身体で落としたんだろ?あの緑川光を。俺との婚約期間中にあの男としてたのか?だとしたら、俺ばかりが悪く言われるのは間違ってるよな。そうだろう?」
「っ!ちっ、ちが…!」
「十八年か…」
「え?」
「十八年。それだけ待ったのに、なんで今更他の男と結婚したんだ。どうしてあともう少し待てなかったんだ、椿。もう少し待ったら結婚できたんだぞ!それなのにみすみす今までの事を全部無かった事にして、何で他の男の元に走った。なんで俺の元から離れた!」
「何言って…何を言ってるんですか!なっ…放してください!!」
わけがわからない。
楓の言ってる事は支離滅裂で、要領を得ない。
それにさっきの男の様に、強い力で手首を掴まれている。放して欲しくて身体をよじって抵抗するが、所詮は女の力では叶わない。掴まれていない腕で楓を押しのけようとするが、逆に抱き込まれて身動きが取れなくなった。
ぞわっと鳥肌が立った。
こんな事はありえない。
今までもなかったし、これからもありえないはずなのに。
だから拘束者である楓にとっては椿の抵抗している椿の力が微々たるものであろうとも、椿はがむしゃらに抵抗した。
「いや!放してくださっ…放してぇ!!」
「ここで俺が嫌だと拒めばどうする。それでも放せと言うか」
「当たりま…っ!んんっ!」
噛み付かれるように唇を奪われた。ずっと夢見ていたはずのそれは、今の椿にとっては残酷な行為でしかない。
そんな椿の気持ちなぞお構いなしに、楓は椿の口内を無遠慮に探り、深めた。
優しくも無い、何の意味も成さないキスがしたかったわけではない。光に愛されていると自覚して知ってしまった。愛し愛されることの意味を。楓とのキスにはそれが無い。
絶望にも似た感覚が椿を襲う中、がっちりと楓によって拘束されていた椿の体はいとも容易くベッドに沈んだ。
それでも。
頭のどこかで無駄だとわかっていながらも必死に抵抗する。そんな椿をあざ笑うかのように、楓は自分がしていたネクタイで椿の腕を頭の上で縛り、その上で椿の身体に圧し掛かった。
「最初からこうすれば良かったのか。そうしたらお前は俺から離れて行かなかったんだろう?あんな指輪もしないで、俺の側にいたんだろう?そうだよな。最初からお前は俺のものなんだからな」
「違…っ!…やっやだ!!いや…いやぁぁぁっ!!」
「なぁ、椿。俺がこのままお前を抱いたら、お前は俺の元に戻って来るんだろう?」
そのまま否定の言葉を口にしようとする度に楓の唇に阻まれ、椿は終ぞ言葉にする事が出来ぬまま、楓は椿の全部を奪った。
沖縄の首里城には何年か前に行った事があるんですが、その時の記憶を引っ張り出してきたので、正直うろ覚えです。間違ってたらすみません。それと、国際通りも…(汗)
ちなみに美ら海水族館には行った事がないので、ネットで調べました。ごめんなさい。一度は行ってみたいです。ジンベイザメは観たい…