第10話 叱責・・・楓
イライラする。
理由はわからないが、ずっと気分が降下したまま上昇しない。
こんな事は初めてだ。
パーティーが終わってから、楓はずっと機嫌が悪かった。お陰で、秘書や部下からの悲鳴の混じった報告が嵐の耳に届くのも早く、嵐としてはなんとなく理由がわかっているが社長室に呼びつけるしかなかった。
嵐は内線で呼び出して早々、社長室に入ってきた楓を手前にある椅子へ座るように促すと、彼は短く「あぁ」とだけ答えて深く腰かけて脚を組んだ。むっつりと黙り込んでいる楓は相も変わらず、機嫌が悪いらしい。このまま放っておきたい所だが、さすがに仕事の方に支障が出始めている。
と言っても、楓本人はちゃんと仕事をこなしている。ただ、ちょっとした失態ですら今や叱責対象となって、先日楓が秘書を怒鳴り散らしているのを偶然見てしまった嵐としても内心「さすがに酷いな」と思っていた矢先だったので、丁度良かったと言えば良かったのだが。
「随分イライラしてるな。パーティーが終わってからずっとしかめっ面ばかりだ。いい加減その顔見飽きたぞ」
「…それは悪かったな」
「悪かったで済ませられればいいんだが。その不機嫌の原因は、大概予想付いてるがな。…椿だろ?」
「あ?なんで俺が椿の事でイライラするんだ」
そうだ。何で俺が。
しかし楓には、あの椿が着ていた赤いドレスが頭から離れない。あのパーティーの夜以降、ずっとだ。そして、その離れない赤のドレスを着た椿を、我が者顔で抱いている緑川光が。
その記憶が鮮明に頭の中に浮かんできて。もう下がる事が無いはずの機嫌は更に降下した。そんな楓の表情を見ていた嵐は嘆息して、「パーティに連れてきた女はどうしたのか」と聞いてきたのだが、嵐が言う女と言うのが最初誰を指しているのかわからずに怪訝な顔をしていると、嵐は再び、はー…と呆れたようにため息を付いた。
「三神社長の娘だよ。この前のパーティーに連れてきてただろ?あの女と遊んで」
「もう会ってないから知らん。大体、あんな醜態を晒した女と付き合う物好きなんていないだろう」
「…お前最低だな。ま、わかっていたけどな」
「は?俺が最低?馬鹿言うなよ。あの女も相当強かだ。俺から声が掛からなくなれば、さっさと次の男探すだろ」
小百合が醜態を晒しまくったあの日以来、楓は小百合と一切の連絡を取らなくなった。小百合からは何度もメールや電話がきていたのだが、全部無視した。
幸い、楓が住んでいるマンションの部屋に通していなかったので、自分の部屋で待たれる心配は無かったし、さすがに会社にまで押しかけるようなバカではない。しかも、今やそれどころではないのだろう。
あの日、緑川光に対して言い放った暴言が尾を引いたらしく、後日緑川から共同開発の一部白紙撤回が発表された。他社の事なので公にはされていないが、三神の会社には大打撃だろう。
すぐに経営に影響が出るほどの打撃では無いだろうが、業界から注目されていた新規事業からの撤退は間違いない。その三神の会社が撤退した事業に緑川単独で参入するのではないかと業界内では囁かれていたが、今の所はノーコメントを貫いている。しかし、あの抜け目の無い緑川光のことだ。必ず、水面下で動いているのは確実で、橘もその動向を静観していると言う状況だ。
あの男が椿の事を愛していると言うのならば、こんな蛇の生殺しのような状況を楽しまず、一気に片を付けるのではないのだろうか。
何せ、緑川光が愛しているらしい椿の親友、小百合は彼女の信頼を裏切ったのだから。
「三神の会社はそろそろ危ないな。あの社長…どうもきな臭かったから、緑川が手の平を返すとなると…」
「ま、それも小百合の自業自得だがな」
「全く悪びれる事がないのが、お前らしいよ。椿の親友だってわかってた上で手を出したんだろ?」
「あれが親友って言うのならな。大体あっちから迫ってきたんだ、俺が強制したわけじゃない」
「…ふーん。で、何で機嫌が悪いんだ?」
直球で聞かれた楓は少し狼狽したが、嵐にはばれていないと思う。
ふんと鼻を鳴らして、パーティーの時に自分に挨拶に来なかった椿に対して苛立っているとはぐらかす様に言ったのだが、それも大概外れていなかった。
いつもは一人で来るか楓の両親に連れられてく来るのだが、一年に一回は帰国して一緒に顔を出す兄と会場に来ることもある椿は、ロビーで楓と会ってからパーティ会場に入る。
その時、面倒くさいと思っている楓の表情を全く気にかけてもいないまま、単純に楓と会えたという事に嬉しさを感じるらしく、喜色まじりの顔で楓に挨拶をするのが常だった。
それなのに、今回は無かった。
楓を無視すると言う事は、鳥谷部家を蔑ろにする事と同意だ。それなのに、今回は全く楓に挨拶が無かった。あれだけ親身になってやった両親にも失礼だとは思わないのだろうか。そればかりか、逆に両親が椿に挨拶へ行ったのだ。恩を仇で返すとはこのことだろう。
そう苛立った声で嵐に言うと、きょとんとした目で見返された。
「は?お前、それ本気で言ってるのか?」
「俺が冗談言っているように見えるか?敷島家の娘の分際で、失礼にも程があるだろう」
「椿はもう敷島の娘じゃない、緑川の人間だ。それなのに、何で鳥谷部家に関係があるんだ?椿の兄からは挨拶されたんだろう?だったらいいじゃないか、別に。そんなに目くじら立てる必要はないだろう。それに、ご両親も何も言ってなかっただろう?」
「…あぁ」
「じゃあいいじゃないか。別に椿が挨拶に来なくても」
「納得出来ないんだよ。緑川と結婚した途端、手の平返したように俺や両親から離れていってる。それが腹立つんだ」
その言葉に唖然としたのは嵐だった。
目の前の男は、何もわかっていない。
いつまでも椿が自分のものだと思っている。
椿が結婚しようが、それがいつまでも続くと思っているのだろうか。
「…楓…お前本当に何もわかってないんだな。いいか、椿はもう敷島の娘じゃないし、橘の一族からも出た人間だ。勿論、鳥谷部家には全く関係が無い。あの子の隣に立って、これから一緒に連れ立って行くのはお前じゃない。椿の夫になった緑川光なんだ。お前と椿が並び立つ事は金輪際ないんだぞ。
それをお前は望んでた、叶ったんだ。アメリカに行く時、それを望んでたんだろう?椿の側を離れて、椿の隣に他の男が立つのを許そうとしたのはお前だ。ただ、その時はじい様が許さなかった。じい様はお前によかれと思ってたんだが、やはり間違いだったようだ…。
お前は最初から最後まで椿の隣に立って、椿を守れるような男じゃなかった。だから椿はお前を自由にしたんだ。お前の隣に並ぶ女が多すぎて、もう疲れたんだろうな。そして、そのお前の隣に立って守られる対象じゃないと気付いたんだ。そりゃそうだ、お前がパーティの後に他の女とホテルに泊まるのは勿論、最中にヤッてるのだって目の当たりにしてればな」
「!?なっ…!!」
「何だ、知らなかったのか。椿は全部知ってたぞ、お前が他の女を抱いてるのも、さっき言ったパーティの最中の情事も。お前も相手を選べとは言わないが、せめて場所ぐらいは選べよ。公共の場でヤっておいて、それを婚約者に見られるなんて、正直よく刺されなかったと思う。ま、椿の事だ。何も言わなかったんだろ?そして、お前は愚かにも椿は何も知らないと高をくくってたわけだ」
返事はしなかったが、それが肯定を示しているのは誰にでもわかる。
確かにパーティー中に女と行為に及んだ事があった。ただ、それは一族の女だったと言うこともあり、なかなか会う機会がないと女に強請られたからだ。それに、その女とはすぐに別れて、それ以上は会場内で手を出した事が無かった。それなのに椿が知っているという事は、その女が関係していることに間違いはないだろう。
と言う事は、今まで楓が派手に関係していた女達の事も全部椿は知っていたと言う事を意味している。
小百合の事も知ってたのか…。
流石に状況が飲み込めてきて顔色を返ると、嵐が大仰に頷いた。
「椿は何も言わなかったが、それまでお前を探してきょろきょろして探し回っていたのに、会場に戻って来た時には泣きそうな顔で真っ青だった。倒れるんじゃないかと思って心配したんだが、何でもないと笑っていたよ。泣きそうな顔で。そのすぐ後に、お前と女が入って来るのを見て納得した。あの女は有名だからな、イロイロと」
「…なん…」
「他にも聞きたいか?お前が手を付けた一族の女以外からも、椿は頻繁に嫌がらせをされていた。報告によれば、学校でもイジメられていたらしいな。巧妙に隠されてはいたが、主犯格は三神の娘だ。それなのに、親友だと疑わなかった…いや、最初から信じていた三神の娘がイジメの主犯だとは思いもしなかったんだろう。
ただ、その三神の娘も、お前にいろいろと面白半分で告げ口していたらしいな。気付かない椿も椿だと思うが、そんな椿にもようやく守ってくれる男が現われたんだ。今更お前がどうのこうの言う必要はないし、そもそもお前は椿に興味がないんだろ?だったら、鳥谷部家に挨拶が来ないだなんだと言うのは、むしろ喜ぶべきであって、怒るところではない。椿はもう緑川椿なんだからな。お前と椿には一ミリも縁なんて物はなかった。最初から」
最初から。
そう、最初から無かった。椿をどう思っていたなんて、簡単だ。椿をうっとおしいと思っていた。愚かだとも。
だが、そんな事をされていたんなら自分に言えば良かった。
そう呟くと、嵐は心底呆れたように楓を見た。
「椿がお前に面と向かって何か言う機会があったか?椿が話かけようとする度に睨み付けて、話しかけても無視されれば、言えないに決まってるだろう。それに椿が言った所で、お前は何もリアクションを取らなかったと俺は断言出来る。むしろ、悪化させただろうな。下手に女に何か言えば、その矛先が誰に向かうと思う。椿に決まってる。
お前は結局無反応と無関心を貫き通した。それで椿と嫌々結婚するよりだったら、今回の結果は良かった。お前にとっても椿にとっても。椿は緑川光を愛しているようだし、緑川光も然りだ。楓、お前は椿が嫌いだったんだろ?だからあんなに椿に興味を持たなかったんだ。知っているか。好きの反対の意味って」
「嫌いだろ…」
「違う、無関心だ。嫌いと言う感情は少なからず相手の事を知っていてからこそ生じる感情で、無関心は何も無いんだよ。それこそ、お前が椿に取っていた態度みたいに。いいか、お前は椿を気にしなくていい。もうお前の婚約者じゃないし、そもそもお前は椿を何も知らない。だったらずっと知らないままでいいんだ。今までみたいにな。わかったら、いつもの楓に戻って仕事しろ」
そう、楓は椿が嫌いだったのだ。今、ようやくその事に気付いた。
楓が社長室を出て行く際、嵐が悲しそうな目で見ていたのを知らぬまま、自分の部屋に戻って言われた通り仕事を再開した。
ただし、手も頭も全く働かなかったが。
全く嵐の言うとおりだ。
自分は椿の事には何一つ興味がない。椿がイジメられているのも知らなかったし、他の女との情事を見られているのも知らなかった。嵐の言った通り、もしも椿が楓に言っていたとしても、「あ、そう」で済ましていると思う。別に好きで婚約したわけではない。一族の命に従って、下位の家柄の娘が自分と結婚するならばそれ位我慢しろと言っていたと思う。
そう、あれ以上自分と椿の関係は進展しない。
何せ、楓は椿に無関心だったから。
だったら、椿が他の男と結婚してどうして喜べないのだろう。どうしてこうも、椿の隣に並ぶ男に腹が立つのだろう。
矛盾した考えが楓の心に痼りとなって暗く沈んだ。
嵐に写真に呼び出されてから一週間。
今度は御大に本家に来るように呼び出された。御大の呼び出しには慣れている。どうせ暇だから囲碁か将棋にでも付き合えと言うのだろう。
残念ながら御大は将棋が弱い。昔から相手をしているのだが、殆ど楓の一人勝ち状態だ。今日もどうせそんなものだろうと思って本家の門を潜ると、家人がすぐさまとんできた。御大は今来客中で…と何故か言いにくそうにしていたが、玄関にある靴を見て楓は眉をしかめた。
華奢な靴。この日本家屋にそぐわないピンヒール。数多くの女と付き合ってきた楓はそんな靴は見慣れているはずなのに、何故かこの靴は嫌な予感がして、誰が来ていると家人を詰問すると、予想通りの人物が橘の本家に来ている事がわかり、楓は瞬間頭に血が昇った。
押し止める家人を払いのけ、足音荒く長い廊下を進む。途中目の端に入った庭にも目もくれず、真っ直ぐ御大の部屋へと進む。
勢い良く襖を開けると、驚いた表情の御大と、相変わらず美しくなった椿がそこにいた。今はその椿の驚いた表情が楓の癇に障った。
「ここで何をしている」
「楓、挨拶もせんと何だ、藪から棒に。それに今ワシは椿と話をしている」
「椿はもう橘の一族の者ではありません。緑川の人間なのに、図々しくも本家に来るなんてどういう神経をしている。流石は突然婚約破棄をしたと思ったら、すぐさま結婚するだけあるな。身持ちも悪ければ、頭も悪いのか」
楓の叱責に真っ青になった椿は震える声で「申し訳ありません」と謝ったが、それで楓の気分が晴れる訳ではなく、更に残忍な気持ちになっただけだった。
「随分と変わったな、椿。その身体で緑川光を落としたか?だとしたら、俺はお前に手を付けなくて正解だったな。緑川光も満足だろ?何も知らない小娘に手取り足取り教えてやれるんだから。身体を使って緑川の財産を狙ったか?はっ、その指輪が何よりも物語ってるか」
「楓っ!いい加減に」
「あぁ、それとも。俺と婚約している時から緑川光と寝てたか?全く…大した女だな。清純なフリをしたこの娼婦が!さっさとこの家から出て行け!!そして二度と来るな!!」
「楓、出て行くのはお前の方だ!!しばらく外で頭を冷やせっ!!」
御大の言葉に従うつもりはないが、荒々しく廊下を戻って広い庭に出た。
激昂した頭に冷えた空気は心地よい。しかし、晴れるはずだった気分は一向に晴れずに降下したままだ。先日のパーティの時より更に悪い。
あの時スルスルと口から滑った言葉に反応した椿の表情が、何を言わずとも彼女の気持ちを雄弁に語っていた。
特に娼婦と呼んだその瞬間、蒼白だった椿の顔面から更に血の気が引いた。部屋を後にする時にチラリと見たが、俯いて震えているようだった。
泣かせたのか、俺が…。
流石に言い過ぎたと反省した楓は、再び御大の部屋へ戻った。まだ椿がいると思って。しかし、御大の部屋には誰にもいず、仕方なしに探しに御大と椿を行こうとにした。簡単に見つかった御大だったが、予想に反して椿がいなかった。
「椿はどうしました」
「帰ったぞ」
「…そうですか…」
「何だ、まだ何か言い足りなかったか?娼婦の他に、毒婦とでも言いたかったか?」
鋭い棘に怯みながら首を振ってそれを否定したが、厳しい顔をした御大の言葉は容赦無かった。
「まだ言い足りんのだったら、呼び出そうか。多分まだその辺にいるぞ」
「いえ…そのつもりは…」
「と言っても、椿はもう金輪際この家に来ん。お前が言った通りな。それに、お前の目にも触れんとさ。良かったな、ワシに土下座までして謝って出て行ったぞ」
そう言って御大はまた部屋に戻った。
呆然とする楓をそこに残して。