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第1話 余命宣告と婚約破棄・・・椿

「残念ですが、今の医学では治すことは難しいです。進行が早すぎて既に手術も不可能…投薬治療をしても気休めにしか過ぎないかもしれないです…申し訳ありません…」

「………そう…ですか…あの、私はいつまで……生きられるんですか?」




――余命一年――


それも保って一年。





敷島椿は、虚ろな心で病院からの帰り道を歩いていた。

最近どうも身体の調子が良くなく、たんなる風邪だと思っていた。それか過労だろうと思って軽く考えていた。しかし、それにしては体重が急激に落ちた。普段なら喜んだのだが、落ち方が普通では無かったため、流石に不安になって病院を受診したのだ。

元々過労と言うほど働いているわけではない。とりあえず一通り検査してみましょうかと言われたので、言われた通り検査を受けたのだが、後日気になるところがあると言われて、もう一度精密な検査を受けた。

椿は一族が経営している会社で総務の仕事をしている。総務は当たり障りのない仕事だと言われても、それなりにやってきたプライドというものが少なからず存在している。しかも今は年を越したばかりの時期だとは言え、仕事は山済みになっている中での病欠と言うのは避けたい。


寝てれば治るだろう。

まさにそんな感覚だった。


それなのに病院に行って、まさか余命宣告されるとは。

それも保って一年。


冗談ですよ~と笑って茶化してくれるだろうと思った医師は、至極真面目な顔で椿に告げた。それを見て、これは現実なのだと認めざるを得なかった。



フラフラとさ迷い歩いていると、一組の男女が腕を絡ませて、反対側の華やかなホテルの入り口を歩いていたのが目に入った。

ちょうど椿から見える位置を歩いていた男の顔が見えた。

その顔を椿は良く知っていた。


と言うか、自分の婚約者だ。だが愛し合って婚約しているわけではない。



彼にとっては、単なる『義務』でしかない結婚。



椿がまだ何も知らないうちから、勝手に決められた婚約者。



ただ、それだけ。



それでも、椿は彼の事が好きだった。

六歳も年が離れている彼は、まだまだ子供の自分なんて見向きもしなかった。それどころか、あからさまに嫌ってすらいた。


端から見てもそうとわかるのに、椿本人からしてみれば悲しいくらいに、そんな彼が正に現実だった。



整っている顔と、それに見合った長身。

頭だっていい。有名大学を現役で入って、主席で卒業。そればかりか、アメリカに留学してMBAまで取って帰って来た。

加えて、椿の入っている会社の重役。若くして、非の打ち所の無い彼が唯一眉を顰められるのは、好色な事だと言えるだろう。


しかし、彼にかかればそれは欠点では無くなるらしい。抱いて欲しいと群がる女性は後を絶たない。例え一夜だけでもいいからと笑いながら言っているが、それが本心からではないと椿は知っている。

望むのは彼の一番側に。


そう願う女にとって、目の上のたんこぶとも言える椿は何よりも憎悪対象だった。

彼と関係を持った女達からの嫌がらせは絶えず、あからさまな侮蔑の言葉を吐かれたこともある。まさにコトの現場を見させられた事すらあるのだ。


だが、彼にそういう事をされていたとは言えなかった。

ただですら面倒な婚約者なのだ。そう言った事にすら口を出していいはずがない。そう思って全部抱えて今まで来た。

その椿の血を吐くほど辛い現実を、彼は一切何も知らないまま、今も椿を傷付けている。



そろそろ腰を落ち着けたらどうかねと、一族の長老達に言われているのを聞いた事がある。だが彼は、取るに足らない事のように彼等に向かって言い放った。



「三十には結婚しますよ」



だがそれは、全く心が籠もっていない。ともすれば、棒読みとも取られかねない台詞だったのにも関わらず、長老達はそれ以上言う事は無かった。


生まれた時から決まっていたとは言え、破棄する機会はいくらでもあった。それが、彼から見れば格下である敷島家からの申し出であったとしても。


しかしそうしなかった。椿が男の事を、初めて逢ったその日から好きだというのを両親達は知っていたから。

いくら邪険に扱われようと、散々無碍な仕打ちを受けようと、彼が好きだった。

幾度と無く婚約を破棄してはどうかと周囲はおろか、見かねた兄にすら言われたが、好きですからと言って笑ってそれを断った。そんな事、彼に望まれていなかったのにも関わらず。

不憫な目で見られる事にも、敵意を持った視線にも耐えに耐えた。そんな椿に見返りは無かった。婚約者の男は、公式の場に椿を連れて行くが、そこまで。連れてきたのにも関わらず、帰りは別々で椿は帰宅し、男はホテルの最上階の部屋に泊まるのが常だった。そんな時、大抵彼の隣には椿とは全く違うタイプの女がいた。


それでも、椿は彼の事が好きだった。

だがそれも、男が連れている女の顔を見て全部が音を立てて崩れた。



彼が連れていたのは、椿の親友だった。

彼女は、いつも相談に乗ってくれた。彼に相手にされないのは何故だろうと真剣に悩んだ時、頑張れと励ましてくれていたのに、どうやら頑張ったのは彼女の方だったらしい。あの打ち解けた様子を見る限り、関係が始まったのは昨日今日の話では無さそうだ。



椿には、向けた事すら無い笑みを彼女にして、仲良く腕を組むカップル。

誰が見ても、彼女達が婚約していると言っても不思議がらないだろう。長身で流行りのコートを身に纏っている彼はどこから見ても、隙がなく格好いい。親友も高いヒールを履いて、高そうなバッグを身に付け、彼に腕を絡ませて歩いている。

彼らの周囲にいる人達も羨望の眼差しで二人を振り返って、ヒソヒソと顔を寄せ合っている。


そう言えば、彼女の実家も資産家だ。

敷島家のような下位に近い分家で、しかも椿は早くに両親に先立たれている。ほとんど兄に育てられた椿のような一般家庭育ちよりも劣っていると思われている家柄の女よりは、彼女のように両親が揃っていて、しかも資産家の方がいいのかもしれない。

成金とは言え、彼女の父親が持っている権力と金の力は強力らしいし、椿などでは到底及ばない美貌を持った彼女の方がいいのだろう。




――なんだ……私ってば、本当に、馬鹿みたい…――



誰よりも愛されたかった彼は、椿の親友にすら手を出した。

婚約者だとは言っても、椿が相手にされていない事は傍目から見てもわかる事で、本家のご当主からもたくさん心配されていた。

ふと、ご当主も彼と親友だった事を思い出した。


嘆くだろうか。

それとも怒るだろうか。


それとも全く逆で、ほっとした顔を見せるのだろうか。


なんとなく。なんとなくだが、十中八九後者のような気がする。




どうやら潮時らしい。


余命宣告は自分にとって恐ろしい事だったけれど、これから婚約破棄を申し出る方が怖いと椿は思った。

これから、兄に婚約を破棄をしたいと願い出なければならない。

兄は反対しないだろう。兄は自分が、彼にどの様に扱われているか知っていたから。

今までも幾度と無く婚約破棄をしてはどうかと言ってくれた兄だったが、いざ今のタイミングでの破棄には何か聞かれるかもしれない。とは言え、反対はしないだろう。


あとは自分の方から破棄を申し出るのだから、当然彼の両親にも会って謝罪しなければならない。ずっと懇意にしてもらったあの優しい彼らに対して本当に申し訳無いと思いながら、それと同時に残念に思う。いつかは娘になるものだと思って気にかけてくれた小母様、無口だけれど自分の事を心配していた小父様。

これからはお目にかかる事すら無くなる。彼等二人を僭越ながらも、本当の両親のように慕っていた椿は、それはとても寂しいなと悲しく思った。


敷島家は下位であろうが橘の分家だ。

本家筋の婚約者に断りを入れるのだから、当然、本家のご当主にも言っておかなければならない。ご当主は安心なさるかもしれない。誰よりも椿の事を案じていたのは、他ならぬご当主だったからだ。破棄の申し出を聞いても、反対はしないだろう。それは長年、椿と親友である彼を見てきたご当主だからこそ。


そんな橘家当主を、椿は純粋に当主として慕っていた。


勿論、破棄の理由を聞かれると思う。

だが、身体の事を理由にするつもりはない。余命宣告はただのきっかけにしか過ぎない。



ここに来て、椿は誰にも言うつもりは無かった。両親の代わりに育ててくれた兄にも、婚約者の両親やご当主にも。勿論、彼にも。

と言っても、彼は自分の事に興味は無いだろうけど…と、自虐的に椿は笑った。


これからどうしようか。

婚約を破棄したら、当然次の結婚相手が出てくるだろう。だけど、自分の命はもう保たない。だったら、今まで行った事の無い、した事の無い事をしようか。

海外に行くのもいい。グレートバリアリーフに一度行ってみたいと思っていた。国内でもいい。今の時期だったら、南の方が身体にも負担がかからないだろうし、だったら沖縄もいいかもしれない。

暫くは騒がしいだろうし、やはり海外に行こう。そう思って、彼らが歩いていた方を見ると、有名ホテルに仲良く入って行った。

椿はパブロフの犬よろしく、彼らの後をこっそりと付けた。

残っている未練を断ち切るために。

案の定、彼がいつも取っている部屋に向かうらしい。エレベーターに乗る前に、彼らがキスをしていたのが見えた。



椿は、不思議と気分が凪いでいるのを感じていた。

これから、自分との長かった縛りから解放された彼は、ますます光り輝くことだろう。だが、それを近くで見る事は叶わない。だけど、それでいいのかもしれない。

今まで何も見向きもしなった自分から婚約破棄をしてくれた事を喜びこそすれ、怒りはしないだろう。

それを確信するほど、椿は彼からの愛情を言うものを一切与えられた事が無かった。



椿はホテルを後にすると、自分の家へ戻り、早速婚約破棄の旨を兄に伝えた。彼は突然の事で驚いていたが、仕方ないと了承してくれた。

それでも、兄は少し不機嫌になって「これで本当にいいのか」と憤っているようだったが、椿はそれを押し止めた。憮然とした兄はそれでも納得していないようだったが、これでいいのよと言って椿は笑った。



椿からの婚約破棄の知らせは、彼の家の了承を得、これで椿の長すぎた初恋はあっさりと幕を閉じた。




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