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時を止めることができたなら  作者: 竜果物
序章:悪魔
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第2話:異形狩り

第2話:異形狩り


 リエルは全身を強く打ち付けられて、体のいたるところから血が漏れ出ていた。怪我の程度から見て、体中の骨が破砕していることは、誰の目にも明らかだった。大鎌を握っていた両手はひどく痙攣しており、青い血管が浮き出てくる。




 しばらくして、リエルの体はずるずると崩れ落ち、地面に突き刺さっている大鎌の隣に倒れこんだ。




 レガルは、その日見た悪魔の姿を、二度と忘れることはないだろう。




 つい先ほどまで、周囲には何もなかったはずの荒れ地に立ち尽くす、四足歩行の獣。体を構成する物質は、他の異形と同様のものだった。しかし、サイズが異常で、普通の狼の10倍ほどの大きさだった。顎の肉塊は絶え間なく蠕動(ぜんどう)し、黒い粘液が滴り落ちている。




――いつ……いつ現れた?さっきまで何も……




 その狼は一歩一歩、レガルの方へと踏み込んできた。




 目の前に人生最大の脅威が迫ってきている。それなのに、彼女はまったく動くことができなかった。




 涙は出ない。声も出ない。ただ体を震わせながら、何も考えることができずにいた。




「……君…………逃げ……」




 息をするのも激痛を伴うであろう状態で、リエルは言葉を発した。それでも、レガルは全身の骨が抜き取られたように、力が入らない。異形の狼は、レガルの目の前まで到達してしまった。




「κı†∧∪Ø……」




熱と悪臭がこもった息が、彼女の髪を揺らす。




 無心で死を受け入れていた彼女だったが、喉を噛みつかれることも、心臓に体当たりされることもなかった。狼の狙いは、別にあったのだ。




「……あがっ……や……いやだ……」




 巨大な牙の隙間で、異形狩りの頭を挟み、宙に持ち上げた。




 何とか脱出しようと、リエルは震える手で屈強な顎を押し上げようとするが、人間の素の力、それも致命傷を負った状態で口を開かせようとするのは、無謀以外の何物でもなかった。言葉にならない掠れた喘ぎが、レガルの脳に焼き付いていく。




「……い……きて……みんな……に、しらせ……」




 遺言は、肉と骨が噛み砕かれる音を境に、ぷつりと途切れた。




 腕と脚が脱力し、重力に負けてだらしなく垂れ落ちる。その後まもなく、首から下の部分も落下して地面に崩れ落ち、尋常でない量の赤をまき散らした。




 レガルに微かな希望を与えてくれた、魔女帽子の下に輝かしい笑みを浮かべていた異形狩りの顔は、完全に失われていた。




 思考を失った体が、生にしがみつくようにして、激しく震えている。しかし、死にゆく定めはもう覆しようがない。




 レガルは生物の本能に従って、自分に与えられた戦士としての使命を放棄した。




 脇目も振らず、ひたすらに走った。無意識下で体を加速させ、雷に撃たれたような激痛が全身に伝播してもなお、腕を振り、脚を前に出す。無力な人々を置き去りにして。




 あの異形狩りの最期の言葉がなければ、彼女は今まで通り生に絶望したまま、何の抵抗もせずに死を受け入れいていただろう。




 『生きて』。その言葉は、レガルの心の中で、呪いのように留まり続けた。結果的に、その呪縛が、明けない夜に終焉をもたらすことになることになるのだが。




*   *   *




 郊外の森林地帯。冷たい朝露に濡れた茂みの中で、レガルは目を覚ました。




 血にまみれた空気を揺るがしていた轟音は既に止み、太陽は何事もなかったかのように東から昇り始めている。昨日の惨憺たる光景が、まるで何の変哲もない悪夢のようだった。




――あの人は……。




 もしかしたら、生きているかもしれない。昨日の光景はすべて嘘で、人々は異形の群れを殲滅したのだろう。そんな根も葉もない望みを抱きながら、レガルは街へと走り出した。




 いつの間にか靴が脱げており、草地に散らばった石片や瓦礫が足裏を刺激するが、その程度の痛みでは、彼女の痛覚に認知されることはなかった。ほどなくして、彼女は死の痕跡が刻み込まれた故郷へと戻ってきた。




 人間と異形の屍の量は、ほとんど同じくらいに見える。崩壊を免れた建造物が点々として存在しているが、その中に善良な生物の気配はまったく感じられなかった。




 しばらく歩いていくと、遠くの方に奇妙な影が見えた。細長い棒の先端から大きな弧が伸びて、その先が地面へと伸びている。




 それは紛れもなく、あの魔女が異形を屠るために振るっていた大鎌だった。その隣には――。




 レガルは、拙い足取りで駆け出した。赤い絶望へと向かって。




 惨たらしく棄てられた死体には、やはり頭が無かった。それどころか、胸のあたりをくり抜かれて、臓器までもが失われていた。今となってはもう、死に際の痙攣も消え失せている。




――あの時、眠っていなければ、この人は……




 もし、意識が鮮明であったら、あの異形を斃すことは無理でも、攻撃を避けることはできただろう。しかし、体力の限界が訪れ、生理的欲求に従って眠りに落ちてしまった。そんな彼女を庇い、この異形狩りは瞬きする間に命を落としたのだ。




――私なんかより、あなたが生き延びた方がよかったのに。




 命の恩人の屍を前にしても、レガルの涙腺は乾ききっていた。故郷が焼け落ちても、自分の弱さに打ちひしがれても、眼が潤うことはない。




 涙の代わりに内から溢れ出るのは、途方もない大きさの、静かな怒りだった。




――なんで人間は、こんな仕打ちを受けなければいけないの?なんで私は……




 こんなに、弱いんだ。




 それでも、彼女は生きていかなければならない。




 戦士として、そして一人の人間として。




 レガルは、異形狩りが身に着けていた血に染まる黒衣を羽織り、自分の身長の2倍はある大鎌を地面から引き抜いた。




 血と黒液にまみれた鉄鎌は、まだ15の細身な少女にとって、腕が千切れそうになるくらいに重い。心なしか、柄にはまだ、前の持ち主の体温が遺されているような感覚がある。それを確かめるようにして、拳をぎゅっと握りしめた。




「あなたへの償いは……いつか必ず果たす」




 大鎌に語り掛けるように、レガルは決意を漏らした。




 しかし、これからどうすればいいのだろうか。どう生きていけばいいのだろうか。故郷は焼け落ち、家族と呼べる人も元からいない。




 無限に広がっているように感じられる荒れ地に一人立ち尽くしていると、どこからともなく、蹄が大地を駆ける音が微かに聞こえてきた。その音は、レガルの背後からどんどん近づいてきて、誰かの呼ぶ声も聞こえてくる。




「おーい!リエルかー?」




――違う。でも……




 今日から私が、彼女の代わりに異形を狩る。

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