第18話 アドリブ
第三層・温泉区画を映す魔導スクリーンの中に広がっているのは、ねっとりとした闇色の塊だった。
液体のように蠢きながらも確かに生き物であり、壁や床に触れた部分をじゅわじゅわと溶かしながら前進している。
「ひぃぃッ、巨大化してるラブ!」
「桶がいくらあっても足りないぞー!」
プスプス族が必死で桶を持って水をかけているが、蒸気が立ち上るばかりで全く効果がない。かなり危険な状況だ。
「ガイア! 解析は!?」
俺の問いにガイアが深刻な顔で告げる。
「解析完了しました。種別及びステータス不明。仮称“瘴気泥霊スライム・ミアズマ”。魔界図鑑には未記載の亜種です」
「不明だと……! クソ……!」
スクリーン越しでも分かる。そいつはただのスライムじゃない。動くたびに黒い瘴気を撒き散らし、近くの木材や石材が灰のように崩れ落ちていた。観光ルートが汚染されるのも時間の問題だ。
「ガイア、周辺を封鎖できないか!?」
「第三層は工事途中で隔壁が未完成です。封鎖には時間が必要。ですが、恐らくミアズマは壁ごと侵食するので意味をなさないかと。通常の魔法も即座に無効化されるでしょう」
「クッ、なら避難状況は!?」
「精霊は90%が退避済み。しかし観光客は23%……侵攻速度が速すぎて、避難が追いついていません」
ガイアの表情が曇っている。
やばいやばいやばい。
「なに、今の不気味な塊……?」
背後からアガペーの声。振り返ると、すでに彼女が玉座の間に戻ってきていた。蛇髪は逆立ち、サソリの尾は獲物を狙うように揺れている。
「新手の敵ね?」
少し違う。こっちは完全に予想外の乱入者だ。だが説明している暇はない。
「アシュラ、私が行く」
アガペーが一歩前に出る。その瞳には、さっきの茶番劇とは比べ物にならない緊張が宿っていた。
彼女に頼るしかない、か。
「……相手は魔法を打ち消すらしい。アガペーとは相性が悪く、危険かも知れないが……頼めるか?」
「相討ち覚悟でやるわ。あれを止めなきゃ王子様と私の安寧が失われる。だから死ぬ気で戦う」
いい女かよ。ズルいくらい真っ直ぐな言葉だ。
「そうか、ありがとう。任せるぞ……!」
アガペーは深く頷くと敵の元へ走っていった。
それを見届けた俺はガイアへと視線を移す。
「ガイア! 類似モンスターの事例を片っ端から調べろ!」
「了解しました」
それをやらせる理由は、似たモンスターなら対処法が分かるかもしれないと考えたからだ。
他にないか俺が思考をフル回転させていると、スクリーンの奥で瘴気のスライムが蠢き、観光ルートのゲートをずるりと飲み込もうとしていた。
温泉区画に黒い波が広がっていく。
「キャアアッ!」
「子どもを守れラブ!」
逃げ遅れた観光客の悲鳴が飛び交う。プスプス達の必死の桶投げ、放水などは全部効果がなく、ミアズマは止まらない。
黒い泥のような怪物がずるりと進み、岩肌をただの灰に変えながら浴場の床を侵食していく。
洒落にならない惨状に目を背けたくなる。が、その時。
「これ以上、好きにはさせないわ!」
現場に到着したアガペーが駆け出す。蛇髪がうねり、サソリの尾が地面を叩き、観光客と怪物の間に立ちはだかった。
だがその瞬間、興味本位で遊びに来たであろう子どもが浴槽の縁に取り残されているのが見えた。
ミアズマの泥がじわりと迫る。
「まずい!」
俺が思わず声を荒げる。
一方でアガペーは躊躇なく跳躍していた。
「逃げて!」
尻尾で子どもをすくい上げ、プスプス達へ投げ渡す。
直後、蛇髪が盾のように広がり、迫る泥水を受け止めた。じゅわ、と煙が上がる。防御するたびに瘴気が肌を焼く。
それでも彼女は一歩も退かず、観光客の避難が終わるまで仁王立ちしていた。
「うおおお! あれが最強女戦士アガペー様ッ!」
「命の恩人だラブ!」
ナビビとプスプスの声援が飛ぶ。
俺は玉座の間で息を呑んで見つめていた。
「……まさかアガペーが人間を守るとはな」
人間を生け贄に捧げようとしていた女と、目の前にいる彼女とが同じ存在だとは到底思えない。歯を食いしばり、泥に焼かれながらも観光客を背に庇う姿は、誰かを守るために戦う揺るぎないヒロインそのものだった。
俺がアガペーの行動に心を打たれている間も戦況は攻防を入れ替えながら変化し続ける。
「クッ……!」
アガペーが体勢を崩した刹那、ミアズマが怒り狂ったように全身を膨張させる。
黒い波がアガペーを呑み込もうとした、その瞬間。
「そんなもの!」
蛇髪とサソリの尾で振り払う。だが泥は重く、補助スキルを纏った蛇髪ですら完全には防ぎきれない。煙が上がり、彼女の腕に赤い痕が浮かぶ。
アガペーは善戦しているが人間を守りながらだと厳しい。このままじゃ、もたない。
『アシュラ様! 解析完了!』
ガイアの声が頭に響いた。
『瘴気泥霊スライムミアズマに似た魔物及び事件から、解決方法を抽出。結果、物理攻撃では無限再生。が、高熱による蒸発でのみ完全消滅の可能性を見い出しました。その確率99%』
「なるほど……つまり、炎が弱点か」
この決定的な情報——瞬間、俺はひらめいた。この危機と茶番を組み合わせる方法を。
「ガイア! 魔導マイクを渡せ!」
「了解」
彼女はなんの疑問も抱かず、通信に使う魔導マイクを俺の手のひらに乗せた。
「《炎護刻印》!」
対象物に炎の守りを刻むスキルだ。マイクに付与した。
「これを92号に送れ!」
投げ渡されたそれを、ガイアは返事もせずノータイムで転送した。
「ナビビ! 聞こえるか! 今送った魔導マイクを敵の中に仕込め!」
『承知しましたッ!』
ナビビ92号が妖精の羽を必死に羽ばたかせながら、戸惑うことなく突撃し、ミアズマの泥を回避して奥へ消える。
数秒後。ぴこん、とランプが点った。
『魔導マイク、設置完了ッ!』
よし!
「あ、あーテステス」
俺はマイクが作動しているかテストした。
どうやら問題ないようだ。つまり敵は火属性を破ることができない。見た感じマイクを投げ込んだ辺りから煙が上がっている。やはり火が弱点で間違いない。
第一段階クリア。あとはアガペーを騙すだけ。
俺が口を開いた次の瞬間、ミアズマの体から低く反響する声が響き渡る。
『……我こそは迷宮を破壊する黒幕……! アシュラ王子を喰らい、玉座を奪うために現れたのだ……! あ、案山子魔獣を差し向けたのも我だ』
観光客が息を呑み、アガペーが憤怒の目を見開く。
「やっぱり……王子様を狙ってきたのね!」
よし、完全に信じ込んだ。これで全部ミアズマの仕業ってことにできる……!
『我が力の前に、愛も勇気も無意味……!』
「はぁ? なに言ってんの? バカァ?」
ちょ、ちょっと中二病すぎたか?
反省していると、ミアズマがさらに膨張し、黒い波で温泉区画を呑み込もうとする。
さすがに遊んでいる場合じゃないか。
俺は仕込んだマイクに声を流し込んだ。
『イキがるなよ小娘。冥土の土産にいいことを教えてやろう。我には唯一苦手なものがある。火だ、炎だ、ファイアだ。それが弱点だ。いいな、火だぞ? しかし、ここには火はない! 我の勝ちだ!』
観光客がどよめき、アガペーの目が光る。
「本当にバカなようね……なら、燃え尽きなさい!」
息を吸うアガペー。
「私の得物に……炎を宿す! 《蛇火の寵愛》……!」
彼女が低く詠唱すると、杖に紅蓮の光が走った。炎蛇が螺旋を描くように杖を登り、金属が赤熱し、輪郭が火で覆われる。
火属性じゃないのにそんなスキルあるのか。せっかく俺が火属性の武器を渡そうと思っていたのに。俺の立場って一体。ぐぬぬ。
「これなら通じるはず!」
アガペーが炎を纏った杖を振るい、漆黒の泥に殴りかかる。杖先が触れた瞬間、ぶしゅうっと黒煙が噴き出し、瘴気が焼かれて弾け飛んだ。
「効いてるラブ!」
プスプス族の叫びに、観光客も希望を取り戻す。
だがミアズマも黙ってはいない。泥の奔流が壁のように迫り、アガペーを呑み込もうとした。蛇髪が火を噴き、サソリの尾が燃え盛る。だが瘴気は強烈で彼女のHPが見る見るうちに減っていく。
「まだまだ!」
彼女は杖を両手で構え、紅蓮の大波をまとって突撃した。蛇髪が炎の鞭となり、サソリ尾が赤熱した槍と化す。
蛇髪が炎を吹き上げて敵を焼き払う。
「これでっ! 終わりよッ!!」
紅に染まったサソリの尾が、剥き出しになった心臓のような中心核へ一直線に突き立てられた。
ミアズマは高音の悲鳴を上げ、瘴気を撒き散らしながら崩壊していく。
数秒後。湯けむりに混じる蒸気の中で、泥は影も形も残さなかった。
「ハァハァ……やったわ! 勝った! 守り抜いた!」
観光客に振り返るアガペー。肩で息をしながらも、満足げに笑っていた。
「アガペー様ぁぁ! バンザイッ!」
「人も精霊も救ってくれた女神だラブ!」
「最高の守護者だ!」
大歓声が起こる。彼女の姿を見ても敵だと思う者は一人もいなかった。
俺は玉座から、その姿を見ていた。気高きヒロインを夢見る可哀想な馬鹿と思っていたけど……今だけは違った。
命を張って人を守り、そして勝った。それを見て、俺は素直に思ったことを口にする。
「ありがとうアガペー。お前は本当に“最高のヒロイン”だよ」
俺の心からの言葉に、彼女は今まで見せたことのない、天使のような笑顔を浮かべた。




