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痴漢冤罪で俺を「生理的に無理」と切り捨てた最愛の妻と娘。彼女たちが信じた救世主の正体が暴かれる時、本当の地獄が始まる  作者: ledled


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エピローグ 雨上がりの空に祈る

高級セダンの後部座席は、外界の喧騒を遮断した静寂に包まれていた。

窓の外を流れる地方都市の夜景は雨に濡れて滲み、まるで涙で歪んだ万華鏡のように見える。

隣に座る妻の優子が、私の太腿の上に置かれた手に、そっと自分の手を重ねてきた。


「……あの子だったのね」


静かな声だった。責めるような響きは微塵もなく、ただ事実を確認し、私の心を案じるような響きを含んでいた。


「……ああ」


私は短く答えた。喉が張り付いたように渇いていた。

先ほど、ホテルのロビーで起きた出来事が、脳裏に焼き付いて離れない。

薄汚れた配膳係の制服。荒れた肌。こけた頬。そして、悲痛な叫び声を上げて縋り付いてきた、かつての娘、美緒の姿。


「別人かと思ったよ。……昔の面影なんて、ほとんどなかった」


独り言のように呟く。

十七歳だったあの日、彼女は輝いていた。生意気で、ブランド物が好きで、私をATM扱いしながらも、どこか憎めない愛嬌があった。

だが、今の彼女は、まるで抜け殻のようだった。生活苦と後悔に押し潰され、魂が摩耗してしまったような、痛々しい姿。


「……声を、かけてあげなくてよかったの?」


優子が私の顔を覗き込む。彼女は全てを知っている。

私がかつて冤罪で家族を失ったこと。そのトラウマに苦しみながらも、彼女と出会い、彼女の連れ子たちと共に再生してきたこと。そして、私が今でも、捨てたはずの「前の家族」の動向を気にかけ続けていたことも。


「これでいいんだ」


私は自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。


「もしあそこで私が彼女を抱きしめ、『もう大丈夫だ』と言ってしまったら、彼女はまた私に依存するだろう。借金も、生活の面倒も、全て私が解決してくれると甘えるだろう。……それでは意味がないんだ」


私は窓の外に目を向けた。

雨はまだ降り続いている。あの冷たい雨の中に、彼女は放り出されたのだろうか。

胸が締め付けられるような痛みが走る。

どれだけ冷徹に振る舞おうとも、血の繋がりは断ち切れない。あの子が赤ん坊の頃、初めて「パパ」と呼んでくれた日の記憶が、今でも鮮明に蘇るのだから。


「……あなたって、本当に不器用な人」


優子は悲しげに微笑み、私の手を強く握り返した。

その温もりだけが、震え出しそうになる私の心を繋ぎ止めていた。


***


東京に戻って数日後。

私は、親友でありビジネスパートナーでもある高島と、行きつけの会員制バーのカウンターにいた。

琥珀色の液体が入ったグラスを揺らしながら、高島は呆れたように息を吐いた。


「お前も人が悪いな、健一。わざわざあんな地方都市のパーティーに出席するなんてよ。……最初から、美緒ちゃんに会うつもりだったんだろう?」


高島の指摘に、私は苦笑するしかなかった。

彼には隠し事ができない。冤罪事件の時からずっと、私の影となり日向となり支えてくれた彼だけが、私の本心を見抜いている。


「……会うつもりなんてなかったさ。ただ、あの子が登録している派遣会社が、あのホテルの宴会に入っていると聞いてな。……遠くから、真面目に働いている姿を一目見られれば、それでいいと思っていたんだ」

「その結果が、あの大立ち回りか。警備員から聞いたぞ。お前、『手荒な真似はするな、外に出すだけでいい』と目で合図したそうじゃないか」

「……あの子が怪我でもしたら、寝覚めが悪いからな」


私はウイスキーを一口含んだ。喉を焼く熱さが心地よい。

高島はポケットから一枚の封筒を取り出し、カウンターの上に滑らせた。


「報告書だ。……お前の指示通り、裏で処理しておいたぞ」


私は封筒を手に取り、中身を確認した。

そこには、美緒と、亡くなった元妻・玲子が背負わされていた借金に関する詳細な記録があった。


三年前、玲子が過労で倒れ、そのまま亡くなった時、私は葬儀には出なかった。

だが、彼女たちが抱えていた、権田という詐欺師が作った莫大な借金のうち、法的な手続きで免除されなかった「闇金」の部分。執拗な取り立てが続き、美緒を追い詰めていたその債権を、私は高島を使って裏で買い取らせていたのだ。


「……これで、あの子を追い回す連中は消えたな」

「ああ。今は真っ当な金融機関への返済が残っているだけだ。それも、お前が裏から手を回して、金利を最低限に引き下げさせたおかげで、あの子のバイト代でも何とか返せる額になっている」


高島はグラスを干し、氷をカランと鳴らした。


「甘いな、健一。あそこまでお前をコケにした娘だぞ? 『生理的に無理』とまで言われたんだ。野垂れ死のうが自業自得だろう」

「……そうだな。頭では分かっているよ」


私は天井を見上げた。

薄暗い照明の中に、煙草の煙が揺らめいている。


「許せない気持ちはある。あの日、閉ざされたドアの向こうで聞いた罵倒は、一生忘れないだろう。……だがな、高島。あの子は、俺の娘なんだ」

「……」

「俺の遺伝子を受け継ぎ、俺がオムツを替え、俺が高い高いをして育てた娘なんだよ。……母親が死に、たった一人で世界に放り出されたあの子を、完全に無視することは、俺にはできなかった」


感情論だと言われればそれまでだ。

だが、玲子が死んだと聞いた時、私の中で「復讐」という名の炎は消えてしまった。

残ったのは、ただ空虚な哀れみと、親としてのごうのような責任感だけだった。


「それに、あの子は変わろうとしている」


私は先日のホテルの光景を思い出した。

かつては楽をして金を得ようとし、男に媚びて生きていた美緒が、今はボロボロになりながらも、配膳の仕事をし、駅前でティッシュ配りをしている。

なりふり構わず働き、借金を返そうとしている。

その姿に、私は微かな希望を見たのだ。


「……そうか。まあ、お前がそうしたいなら、俺は止めんよ」


高島は肩を竦め、新しいボトルを注文した。


「で? これからどうするつもりだ? 借金取りは消したが、あの子の生活が楽になったわけじゃないぞ」

「金は渡さない」


私はきっぱりと言った。


「金を渡せば、あの子はまたダメになる。過去の過ちを金で解決できると勘違いさせてはいけない。……あの子に必要なのは、自分の足で立ち、自分の手で人生を立て直したという『自信』と『誇り』だ」

「スパルタだな」

「親心と言ってくれ。……その代わり、高島。もう一つ頼みがある」

「なんだ、言ってみろ」

「あの子が今働いている派遣会社。……あそこの社長、お前の大学の後輩だったよな?」


高島はニヤリと笑った。


「察しがいいな。……ああ、そうだ」

「彼に伝えてくれないか。『杉浦美緒というスタッフがいるはずだ。もし彼女がこれからも真面目に働き、遅刻も欠勤もせず、誠実に仕事に向き合い続けるようなら……正社員への登用試験を受けさせてやってほしい』と」


高島は目を丸くし、それから吹き出した。


「ははっ! お前ってやつは……! 結局、最後まで過保護なパパってわけか」

「過保護じゃない。チャンスを与えるだけだ。そのチャンスを掴めるかどうかは、あの子次第だ」

「分かったよ。伝えておく。……『ある篤志家からの推薦だ』とでも言っておくさ」

「頼む」


私はグラスを掲げ、高島と乾杯した。

これでいい。

直接手を差し伸べることはしない。名乗ることもない。

彼女は一生、私を「冷酷に自分を切り捨てた父親」だと憎み続けるかもしれない。

それでも構わない。

彼女がどこかで、真っ当な道を歩み、ささやかでも幸せな人生を掴んでくれるなら。

それが、私にできる唯一の、そして最後の「許し」の形なのだ。


***


バーを出ると、東京の夜空は晴れ渡っていた。

冷たい風が頬を刺すが、不思議と寒くはなかった。


スマホを取り出し、待ち受け画面を見る。

そこには、現在の妻・優子と、彼女の娘、そして生まれたばかりの孫と一緒に撮った写真がある。

孫の柔らかな頬。無垢な瞳。

この新しい命を守り、育てていくことが、今の私の使命だ。


だが、私の心の片隅には、いつもある写真がしまわれている。

今はもう見ることもない、古いアルバムの中の一枚。

ハワイの青い海をバックに、満面の笑みで私の肩車に乗っていた、幼い美緒の写真。


(頑張れよ、美緒)


私は心の中で、遠く離れた空の下にいる娘に語りかけた。


(人生はやり直せる。俺がそうだったように。お前も、きっとやり直せるはずだ。……俺はもう、お前の手は引かない。けれど、お前が歩くその道が、少しでも平坦であることを、遠くから祈っている)


もし、十年後、二十年後。

彼女が自分の力で幸せを掴み、誰かの親になり、本当の意味で大人になった時。

もし運命が許すなら、どこかですれ違うことがあるかもしれない。

その時、互いに笑って会釈ができれば、それで十分だ。


「……帰ろう」


私はスマホをポケットにしまい、待たせていたタクシーに乗り込んだ。

「どちらまで?」と運転手に聞かれ、私ははっきりと答えた。


「自宅へ。……家族が待っているんです」


車が走り出す。

後ろへ流れていく街の灯りの中に、過去のすべてを置き去りにして。

私は前を向いた。

愛する妻と、愛すべき新しい家族が待つ、温かい家へと帰るために。


空には、雨上がりの澄んだ月が、静かに輝いていた。

その光は、東京の私も、そして地方の片隅で震えているであろう彼女も、等しく照らしているはずだ。

いつか彼女の心にも、この月明かりのような静かな安らぎが訪れることを願いながら、私は目を閉じた。

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