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痴漢冤罪で俺を「生理的に無理」と切り捨てた最愛の妻と娘。彼女たちが信じた救世主の正体が暴かれる時、本当の地獄が始まる  作者: ledled


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サイドストーリー 灰色の空、届かない光

冷たい雨が、アスファルトを黒く濡らしていく。

師走の寒風が吹き荒れる地方都市の駅前広場。行き交う人々は皆、厚手のコートに身を包み、足早に通り過ぎていく。

その雑踏の片隅で、私、杉浦美緒は身を縮めながら、道ゆく人にポケットティッシュを差し出し続けていた。


「お願いしまーす……あ、どうぞ……」


掠れた声は喧騒にかき消され、誰の耳にも届かない。

差し出した手は冷たさで赤く腫れ上がり、爪の間には薄汚れた垢が溜まっている。かつてネイルサロンで綺麗に飾っていた指先は、洗剤による手荒れと過酷な労働で見る影もなく荒れ果てていた。


「邪魔だよ」


サラリーマン風の男に肩をぶつけられ、私はよろめいた。

「すみません」と頭を下げるが、男は舌打ちをして去っていく。その背中を見つめながら、私は深く息を吐いた。白い息が、空しく空に溶けていく。


今の私は二十九歳。

世間では、キャリアを積んで仕事に邁進したり、結婚して家庭を持ったりする年齢だという。

だが、私にあるのは、高校中退という学歴と、水商売を転々とした傷だらけの職歴、そして完済することのできなかった借金の残滓だけだ。


「……寒い」


思わず口をついて出た言葉は、気温のことだけではなかった。

心の中には、もう十年以上も冷たい風が吹き荒れている。

あの時。私が十七歳だったあの時。

父を裏切り、詐欺師の男を信じ、家族を壊したあの日から、私の人生はずっと冬のままだ。


***


ティッシュ配りのノルマを終え、私は重い足取りで帰路についた。

駅から徒歩二十分。街灯もまばらな住宅街の奥にある、築五十年の木造アパートが今の私の城だ。

ギシギシと音を立てる鉄階段を上り、錆びついたドアを開ける。

六畳一間の部屋は薄暗く、カビと湿気の臭いが充満している。


「ただいま、お母さん」


ちゃぶ台の上に置かれた小さな遺影に向かって、私は力なく呟いた。

写真の中の母、杉浦玲子は、やつれた顔で力なく微笑んでいる。これは彼女が亡くなる一ヶ月前に撮ったものだ。かつての「美魔女」と呼ばれた面影はどこにもない。


母は、三年前に死んだ。

原因は過労による心不全だった。

あの事件の後、私たちは五千万円もの借金を背負わされた。法的な整理を行い、ある程度は減額されたものの、闇金に流れていた一部の債務は執拗に私たちを追いかけた。

母は昼はスーパーのレジ打ち、夜は皿洗いのパートを掛け持ちし、ボロボロになるまで働き続けた。私も高校を中退して風俗店で働いたが、元金はなかなか減らず、利息を払うのが精一杯だった。


『ごめんね、美緒。あなたにこんな苦労をさせて……』


それが、母の口癖だった。

死ぬ間際、病院のベッドで母は私の手を握り、涙を流しながら謝り続けた。

『お父さんに……謝りたかった……』

そう言い残して、母は息を引き取った。


母が死んで、私は本当の意味で一人になった。

天涯孤独。

頼れる親戚もいない。友人もいない。

借金取りからは逃げるようにこの地方都市へ流れ着き、今は日払いのバイトやスナックのヘルプで食いつないでいる。


コンビニで買った廃棄寸前の値引き弁当を温め、ペットボトルのお茶で流し込む。

味がしない。ただ空腹を満たすだけの作業だ。

食事を終えると、私は習慣のようにスマートフォンの画面をタップした。

画面のガラスにはヒビが入っているが、買い換える金などない。


検索窓に打ち込むのは、たった一つの名前。

『杉浦 健一』。

私の実の父であり、私が自ら捨てた人。


検索結果の一番上には、また新しい記事が出ていた。

『大手商社役員・杉浦健一氏、若手起業家支援の講演会に登壇。「失敗を恐れない力が未来を拓く」』


記事の中の父は、ロマンスグレーの髪を整え、仕立ての良いスーツを着こなしていた。五十五歳になったはずだが、昔よりもずっと若々しく、精悍に見える。目尻の皺さえも、彼の重ねてきた充実した年月を物語る勲章のようだ。


「……パパ」


画面の中の父に呼びかける。もちろん、返事はない。

記事を読み進めると、最後に父のプライベートに関する記述があった。


『――休日はどのように過ごされていますか?』

『妻と共通の趣味である登山を楽しんでいます。最近は孫も生まれましてね。再婚した妻の連れ子なんですが、実の娘のように可愛がってきた子が母親になり、私もおじいちゃんになりました。家族が増えるというのは、本当に幸せなことです』


心臓を雑巾絞りにされたような痛みが走る。

再婚。孫。幸せな家族。

父は、私たちが地獄を這いずり回っている間に、新しい家庭を築いていたのだ。

しかも、「再婚相手の連れ子」を実の娘のように可愛がっているという。

血の繋がった実の娘である私を切り捨て、赤の他人である娘を愛しているのだ。


「なんで……」


涙が溢れて画面が歪む。

悔しい。悲しい。羨ましい。

私がその場所にいたはずだった。

父に愛され、孫を見せ、幸せな家庭を築く未来が、私にもあったはずだった。

それを壊したのは誰だ?

詐欺師の権田か? 騙された母か?

いいえ、違う。

「生理的に無理」「キモい」と言って父を拒絶した、十七歳の私自身だ。


『パパのご飯が食べたい』

『新しいパパの方が理解がある』

あの時の自分の言葉が、呪いのように脳内で再生される。

馬鹿だった。本当に馬鹿だった。

ブランド物のバッグや、甘い言葉や、表面的な格好良さに目がくらんで、本物の愛情を見失っていた。

父は不器用だったけれど、誰よりも私を愛してくれていたのに。私のために必死で働いて、私が欲しがっていたものを密かに調べてプレゼントしてくれていたのに。


私はそれをドブに捨てたのだ。

自業自得。因果応報。

分かっているけれど、画面の中の幸せそうな父を見るたびに、胸が張り裂けそうになる。


「会いたい……」


一目だけでいい。

パパに会いたい。

謝りたい。

「ごめんなさい」って、地面に頭を擦りつけて謝れば、もしかしたら許してくれるかもしれない。

だって、私はパパの娘なんだから。血が繋がっているんだから。

そんな淡い、虫のいい期待が、消えかかった私の命を辛うじて繋ぎ止めていた。


***


翌日。

バイト先の派遣会社から、急な仕事が入った。

「駅前のグランドホテルで企業パーティーがあるんだ。配膳係が足りないから、すぐに入ってくれ」

時給は良かった。私は二つ返事で引き受け、黒いスカートと白いブラウスに着替えてホテルへ向かった。


グランドホテルは、この街で一番格式高いホテルだ。エントランスには高級車が並び、煌びやかなシャンデリアがロビーを照らしている。

私のような人間が足を踏み入れるには場違いな空間だが、今日は裏方だ。目立たないように、粗相のないように仕事をこなせばいい。


パーティー会場は熱気に包まれていた。

地元企業の周年記念パーティーらしく、地元の名士や東京からの来賓も多数招かれているという。

私はトレイにシャンパングラスを載せ、招待客の間を縫うように歩いた。

香水の匂い、笑い声、グラスが触れ合う音。

ここは別世界だ。私とは関係のない、光の当たる世界。


「杉浦さん、あっちのテーブルの空いたグラス下げてきて」

「はい」


チーフに指示され、会場の中央付近へ向かった時だった。

ステージ上の司会者が、大きな声でアナウンスをした。


「それでは、本日のスペシャルゲストにご登壇いただきましょう。東京よりお越しいただきました、株式会社○○専務取締役、杉浦健一様です!」


えっ?

心臓が止まるかと思った。

トレイを持つ手が激しく震え、グラスがカチャカチャと音を立てる。

杉浦健一。

まさか。嘘でしょ。


スポットライトがステージ袖を照らす。

拍手喝采の中、堂々とした足取りで現れたのは、紛れもなく私の父だった。

昨夜、スマホの画面で見た通りの、ロマンスグレーの紳士。

洗練されたダークネイビーのスーツに身を包み、穏やかな笑みを湛えてマイクの前に立つ。


「ご紹介にあずかりました、杉浦です。本日はこのような素晴らしい会にお招きいただき……」


懐かしい声。

記憶の中の声よりも少し低く、深みを増した、落ち着いたバリトンボイス。

涙が出そうになるのを必死で堪えた。

パパだ。本物のパパだ。

こんなに近くにいる。手を伸ばせば届きそうな距離に。


父のスピーチは完璧だった。

会場中の人々が、父の言葉に聞き入り、時折感嘆の声を漏らし、最後には割れんばかりの拍手を送った。

誇らしかった。

「見て、あれが私のパパなの」と叫びたかった。

でも、今の私にはそんな資格はない。私はただの薄汚れた配膳係で、父は雲の上の人なのだ。


スピーチが終わり、父がステージを降りる。

招待客たちが次々と父の周りに集まり、名刺交換を求めていく。父は一人一人に丁寧に頭を下げ、笑顔で応対している。


私は仕事も手につかず、柱の陰から父を見つめ続けていた。

このまま終わってしまうのか。

何も伝えられないまま、また他人同士に戻ってしまうのか。

嫌だ。そんなの嫌だ。

一生に一度のチャンスかもしれない。

一言だけでも。謝罪だけでも伝えたい。


パーティーがお開きになり、招待客たちが三々五々会場を後にし始めた。

父も関係者たちに見送られながら、出口の方へ歩いてくる。

その隣には、上品なベージュの着物を着た女性が寄り添っていた。

父より少し年下だろうか。穏やかで優しそうな女性だ。彼女が父の腕に手を添え、父もまた彼女を気遣うように歩幅を合わせている。


あれが、再婚相手の人……。

胸がチクリと痛む。でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。

私は意を決して、柱の陰から飛び出した。


「あ、あのっ!」


大きすぎる声が出てしまい、周囲の人が驚いて振り返る。

父も足を止め、こちらを見た。

十年以上ぶりの、父との視線の交差。

私は息を呑んだ。

近くで見ると、父の目尻には確かに皺が増えていたけれど、その瞳の輝きは昔と変わらなかった。


「パパ……」


震える声で呼びかけた。

私の姿を見て、父がどう反応するか。

驚くか。怒るか。それとも、泣いて抱きしめてくれるか。

様々な期待と恐怖が頭を駆け巡る。


しかし、父の反応は、そのどれでもなかった。


父は私を一瞥した。

ほんの一秒にも満たない、短い視線。

そして、すぐに視線を外し、隣の女性に微笑みかけたのだ。


「行こうか、優子ゆうこ。車が待っている」

「ええ、あなた」


父は再び歩き出した。

私の横を、まるでそこに誰もいないかのように通り過ぎていく。


え?

嘘でしょ?

気づかなかったの?

私だよ、美緒だよ?

こんなにやつれてしまったけれど、実の娘だよ?


「パパ……! 待って、パパ!」


私は父の背中を追いかけた。

警備員が「ちょっと君、何をしてるんだ!」と制止しようとするのを振り切り、父の前に回り込んだ。


「パパ! 私よ、美緒よ! 覚えてないの!?」


必死の形相で叫ぶ私。

父は足を止め、眉を少しだけひそめて私を見た。

その瞳にあったのは、嫌悪でも憎悪でもなかった。

ただの『無関心』だった。

見知らぬ不審者を見るような、冷たく乾いた無関心。


「……君は、誰だね?」


父の口から出た言葉は、ナイフよりも鋭く私の心臓を貫いた。


「誰って……美緒だよ! パパの娘の美緒だよ! 忘れちゃったの!?」

「娘?」


父は不思議そうに首を傾げ、そして隣の女性を見た。


「私の娘は、いま東京で孫の世話をしているはずだがね」

「違う! そっちじゃなくて、本当の娘よ! 杉浦美緒よ! 昔、一緒に暮らしてたでしょ!?」

「……ああ」


父は何かを思い出したように、小さく頷いた。


「昔、そんな名前の子供がいたような気もするな」


いたような気もする。

過去形。しかも、あやふやな記憶として。


「でも、今の私には関係のないことだ。……私の家族は、ここにいる妻と、東京にいる娘たちだけだよ」


父の声は穏やかだった。怒鳴るわけでもなく、諭すわけでもない。

ただ事実を淡々と述べるだけの、事務的なトーン。

それが余計に残酷だった。

父の中で、私はもう「存在しない人間」として処理されているのだ。憎む価値すらない、過去の遺物として。


「そんな……嘘よ……私、パパに謝りたくて……ずっと後悔してて……」


涙が溢れて止まらない。化粧が崩れ、黒い涙が頬を伝う。

無様な姿だ。


「謝る?」


父は初めて、少しだけ感情の篭った声を出した。

それは、嘲笑だった。


「君は一度でも、私の話を聞こうとしたかな? 十年前、私が助けを求めた時、君は私をゴミのように見たはずだ。……今の君の姿は、あの時の君が望んだ未来そのものだろう?」

「っ……」


言葉が出ない。

父は私の全てを見透かしていた。


「自業自得だ。……二度と私の前に現れないでくれ。不愉快だ」


父は冷たく言い捨てると、妻の肩を抱いて歩き去っていった。

高級車のドアが開き、二人が乗り込む。

重厚なドアが閉まる音が、私の人生の終わりの合図のように響いた。

車は音もなく滑り出し、夜の闇へと消えていった。


残されたのは、煌びやかなホテルのロビーで、膝から崩れ落ちて泣き崩れる薄汚れた女が一人。


「お客様、困ります。他のお客様のご迷惑になりますので」


警備員に腕を掴まれ、引きずり出される。

抵抗する気力もなかった。

私はゴミのように、ホテルの外へと放り出された。


外は相変わらず冷たい雨が降っていた。

濡れたアスファルトに座り込み、私は夜空を見上げた。

灰色の雲が、月も星も隠している。


「パパ……」


もう二度と、あの温かい手は私に触れない。

もう二度と、あの優しい声は私の名前を呼ばない。

父にとっての「娘」は、もう私ではないのだ。

赤の他人が、私の欲しかった愛情を全て受け取り、私が座るはずだった席で笑っている。


そして私は、これからも一人で生きていかなければならない。

母もいない。父もいない。金も、若さも、希望もない。

あるのは、過去への後悔と、底なしの孤独だけ。


雨が私の体を打ちつける。

寒さが骨の髄まで染み込んでくる。

でも、本当に冷たいのは、私の心だった。

自分で凍らせてしまった心は、もう二度と溶けることはない。


私は震える手で膝を抱え、誰もいない暗闇の中で、獣のような声を上げて泣いた。

その声は雨音にかき消され、誰にも届くことはなかった。

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