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痴漢冤罪で俺を「生理的に無理」と切り捨てた最愛の妻と娘。彼女たちが信じた救世主の正体が暴かれる時、本当の地獄が始まる  作者: ledled


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サイドストーリー 偽りの愛に溺れた代償

薄い布団を頭まで被っても、隙間風の冷たさが容赦なく肌を刺す。

築四十年、木造二階建てのアパート「コーポ松風」。その一階の角部屋が、今の私、杉浦玲子の「家」だ。

六畳一間に小さなキッチン、それにユニットバスがついただけの間取り。壁は薄く、隣の部屋の住人が咳き込む音や、テレビの音が筒抜けになって聞こえてくる。


「……うぅ」


寒さと、古びた畳特有のカビ臭さに耐えかねて、私は重い瞼を開けた。

枕元に置いたスマホを見ると、画面には「5:30」の表示。早朝パートの時間だ。体は鉛のように重く、節々が痛む。かつては高級な羽毛布団とオーダーメイドの枕で眠っていた私が、今はせんべい布団で縮こまって寝ている。


隣を見ると、娘の美緒が背中を丸めて眠っていた。

かつては天使のように可愛らしかった寝顔は、今は険しく歪み、眉間に深い皺が刻まれている。彼女もまた、この劣悪な環境と終わりの見えない貧困に心を蝕まれているのだ。


「……ごめんね、美緒」


小さく呟いてみるが、返事はない。もし起きていたら、「謝るくらいなら金持ってきてよ」と罵声が飛んできたことだろう。

私は音を立てないように起き上がり、冷え切ったキッチンへ向かった。冷蔵庫を開ける。中にあるのは、半額シールの貼られた食パンと、賞味期限ギリギリの牛乳、そして美緒がバイト先から廃棄をもらってきたコンビニ弁当が二つだけ。


これが、今の私たちの全てだった。


数ヶ月前まで、私は幸せだったはずだ。

都内に一軒家を持ち、真面目で優しい夫・健一に守られ、何不自由ない生活を送っていた。ランチには三千円のコースを食べ、エステで肌を磨き、ママ友たちと優雅なティータイムを楽しんでいた。

「玲子さんはいいわね、旦那様が優秀で」「美魔女って言葉は玲子さんのためにあるみたい」

そんなお世辞を真に受け、私は自分が特別な人間だと勘違いしていたのだ。


それがどうして、こんなことになってしまったのか。


蛇口を捻ると、氷水のような水が出てきて指先の感覚を奪う。顔を洗おうとして鏡を見た瞬間、私は息を呑んだ。

そこに映っていたのは、老婆のようにやつれた女だった。

髪はパサついて艶がなく、白髪が目立つ。肌は乾燥して荒れ、目の下には濃いクマが張り付いている。かつての美貌など見る影もない。


「……嘘よ。こんなの、私じゃない」


鏡の中の女に向かって呟く。けれど、現実は残酷なほど鮮明だ。

あの時。そう、あの時だ。

健一が痴漢で捕まったあの日。権田という男が現れ、私に甘い言葉を囁いたあの日から、私の人生は狂い始めた。


いいえ、狂っていたのは私の方だったのかもしれない。

健一の無実を信じるよりも、権田が見せた偽造された証拠の方を信じたいと、どこかで思っていたのではないか。「夫は裏で汚いことをしている」と思い込むことで、マンネリ化していた日常に悲劇のヒロインという刺激を求めたのではないか。

そして何より、権田という男の、強引で野性的な魅力に、女としての本能が抗えなかった。


「馬鹿ね……本当に、大馬鹿者だわ」


自嘲気味に笑うと、目尻の皺が深く刻まれるのが分かった。

あの男は詐欺師だった。私と美緒を騙し、健一を追い出し、家の権利書と実印を奪って借金のカタにした悪魔だった。

でも、その悪魔を家に招き入れ、寝室で抱き合ったのは私自身だ。健一の思い出の品をゴミのように捨てさせ、それを笑って見ていたのも私だ。


「……行かなきゃ」


後悔に押し潰されそうになる心を無理やり奮い立たせ、私は化粧もそこそこに身支度を整えた。

今の私には、感傷に浸る時間さえない。時給千百円のパートに行かなければ、明日のパンも買えないのだから。


***


「いらっしゃいませー。ポイントカードはお持ちですかー」


スーパーマーケットのレジ打ち。それが私の現在の仕事だ。

機械的に商品をスキャンし、カゴに移し替える。単純作業の繰り返しだが、立ちっぱなしの足は棒のように痛み、腰には鈍痛が走る。


「おい、ちょっと! 卵が割れてるじゃないか! どういう詰め方してんだ!」


男性客の怒鳴り声に、私はビクリと肩を震わせた。

見ると、カゴの中で卵パックの角が他の商品に当たって潰れている。


「も、申し訳ございません! すぐにお取り替えします!」

「当たり前だろ! トロトロしやがって。これだからババアのレジは嫌なんだよ」


ババア。

その言葉が鋭利な刃物となって胸に突き刺さる。

かつては「お姉さんに見えますね」と言われるのが常だった私が、今は見知らぬ男に罵倒され、頭を下げている。


「申し訳ございません……申し訳ございません……」


何度も頭を下げながら、涙が滲んでくるのを必死に堪えた。

なぜ私がこんな目に遭わなければならないの。私は被害者なのに。騙されただけなのに。

健一なら、こんな時きっと庇ってくれたはずだ。「妻になんて口を利くんだ」と怒ってくれたかもしれない。あるいは、笑って「気にすることないよ」と慰めてくれたかもしれない。


健一。

その名前を思うだけで、胸が焼けつくような痛みに襲われる。

彼は今、どうしているのだろう。


昼休憩の時間。狭い休憩室のパイプ椅子に座り、私は冷たくなったおにぎりを齧りながら、震える指でスマホを取り出した。

検索窓に『杉浦健一』と入力する。これは私の日課であり、同時に自傷行為でもあった。


画面に表示されたのは、ビジネス系ウェブメディアの記事だった。

『逆境からの復活。冤罪を乗り越え、新規プロジェクトを成功に導いたリーダーの手腕』

記事のトップには、スーツをビシッと着こなし、自信に満ちた表情で微笑む健一の写真が掲載されていた。

その顔色は良く、肌艶もいい。以前よりも若々しく、精悍に見える。


「……嘘でしょ」


記事をスクロールする。そこには、彼のチームが開発した新サービスが大ヒットし、業界で注目を集めていることが書かれていた。

さらに、インタビューの中で彼はこう答えていた。


『――困難な時期もありましたが、今は公私ともに充実しています。不要なものを手放し、本当に大切なものだけに集中できる環境になったことが大きいですね。今は、一人の時間を楽しんだり、趣味のキャンプに行ったりと、自由を満喫しています』


不要なもの。

その言葉が、私の心臓を握り潰す。

それは借金のことかもしれない。あるいは、人間関係の断捨離のことかもしれない。

でも、私には分かってしまった。彼にとっての「不要なもの」とは、間違いなく私と美緒のことなのだと。


私たちは、彼の人生における汚点であり、切り捨てて正解だった「ゴミ」なのだ。


画面の中の彼は、あまりにも眩しかった。

私たちが泥沼でもがいている間に、彼は一人で空高く飛び立ってしまった。

悔しい。悲しい。羨ましい。憎い。

様々な感情が入り混じり、ドロドロとした黒い塊となって胃の腑に溜まっていく。


「……なんでよ。なんで私を助けてくれなかったの」


独り言が口をついて出る。

身勝手なのは分かっている。でも、思わずにはいられない。

夫婦だったじゃない。二十年も一緒にいたじゃない。一度の過ちくらい、許してくれてもいいじゃない。

私が騙されて借金を背負ったと知った時、彼は冷酷に切り捨てた。「自業自得だ」と言い放った。

あの時の彼の目は、人間を見る目ではなかった。路傍の石ころを見るような、無関心で冷徹な瞳だった。


もし、あの時私が彼を信じていれば。

もし、あの時美緒を止めていれば。

今頃、私はあの写真の隣で、彼と一緒に笑っていたかもしれない。

「奥様のおかげです」なんて言われて、ちやほやされていたかもしれない。


「……っ」


堪えきれず、涙が零れ落ちた。

スマホの画面に落ちた涙が、健一の笑顔を歪ませる。

戻りたい。あの暖かかった日々へ。あの安心感のある腕の中へ。

でも、もう二度と戻れない。私が自分で壊してしまったのだから。


「杉浦さん、休憩終わりだよー」


同僚の声に、私は慌てて涙を拭った。

現実は待ってくれない。私はまた、あのレジに戻り、罵声を浴びながら小銭を稼がなければならないのだ。


***


深夜、重い足取りでアパートに帰ると、部屋の中は真っ暗だった。

美緒はまだバイトから帰っていないようだ。

電気をつけると、ちゃぶ台の上に白い封筒が置かれていた。

嫌な予感がして手に取ると、それは金融会社からの督促状だった。


『最終通告』

赤字で印字された文字が目に飛び込んでくる。

権田が作った五千万円の借金。その連帯保証人である私と美緒には、返済義務がある。もちろん、そんな大金を返せるはずもなく、私たちは自己破産の手続きを進めようとしていた。

だが、権田が詐欺で得た金の一部が闇金から流れていたこともあり、法的な手続きだけでは逃げ切れない「裏の借金」が残っていたのだ。


「……どうすればいいのよ」


その場にへたり込む。

給料はほとんど利息の支払いに消え、生活費すらままならない。

このままでは、本当に野垂れ死ぬか、もっと恐ろしい場所に売り飛ばされるかだ。


ガチャリ、とドアが開く音がした。

美緒が帰ってきたのだ。


「……ただいま」


不機嫌そうな声。美緒はドカドカと靴を脱ぎ捨て、部屋に入ってきた。

彼女の姿を見て、私は眉をひそめた。派手なメイクに、露出の多い服。高校を中退してから、彼女は繁華街のガールズバーで働き始めていた。


「美緒、おかえり。……その服、もう少しなんとかならないの?」

「うるさいな。これが制服なの。文句あるならママがもっと稼いできてよ」


美緒は冷蔵庫からペットボトルの水を出し、ラッパ飲みする。その横顔は、十七歳とは思えないほど荒んで見えた。


「……督促状、来てたわよ」

「また? 無理だってば、あんな金額。……ねえママ、本当にパパに連絡取れないの?」


美緒が縋るような目で私を見る。

この数ヶ月、何度繰り返したか分からない会話だ。


「無理よ。着信拒否されてるし、マンションに行っても警備員に追い返されるだけ」

「でも! ネットで見たよ、パパすごく出世したんでしょ? お金持ってるんでしょ? 娘がこんな生活してるんだよ? 知らんぷりなんて酷いじゃん!」


美緒が叫ぶ。その目には涙が溜まっている。

彼女もまた、後悔と未練に苦しんでいるのだ。

大好きだったパパ。いつも甘やかしてくれたパパ。

そのパパを「キモい」「生理的に無理」と罵倒し、拒絶したのは彼女自身だ。


「……私たちがしたことを考えたら、仕方ないわ」

「仕方なくない! 私は子供だよ!? 騙されただけじゃん! 悪いのはあの権田って詐欺師と、それに引っかかったママじゃん!」

「なっ……私だけのせいにするの!?」

「そうだよ! ママがあの男を家に引き入れたんじゃん! パパの悪口吹き込んだのもママじゃん! 私、パパのこと信じたかったのに、ママが『あの人は変態だ』って言うから……!」

「私はあんたを守ろうとして……!」

「守れてないじゃん! こんなボロアパートで、変な客に酒作って、借金取りに怯えて……これが守ってるってこと!? パパならこんなことさせなかった!」


美緒がちゃぶ台を蹴り飛ばした。空のペットボトルが転がり、督促状が舞う。


「もう嫌だ……こんな生活……パパに会いたい……パパのご飯が食べたい……」


美緒はその場にしゃがみ込み、子供のように泣きじゃくった。

私はかける言葉が見つからなかった。

彼女の言う通りだ。私が悪い。私の愚かさが、娘の人生まで狂わせてしまった。

でも、私だって被害者なのだ。私だって愛されたかった。幸せになりたかった。


「……美緒」


震える手で娘の肩に触れようとしたが、パシッと振り払われた。


「触らないで! ママなんて大っ嫌い! ママのせいでパパはいなくなったんだ!」


美緒は立ち上がり、布団に潜り込んで背中を向けた。

嗚咽が部屋に響く。

私は一人、散らかった部屋の真ん中で立ち尽くしていた。


壁の薄いこの部屋では、娘の泣き声も、私の絶望も、どこにも逃げ場がない。

ふと、視線を部屋の隅に向けた。そこには、引っ越しの時に唯一持ち出した、昔の家族写真が伏せて置いてある。

ハワイ旅行に行った時の写真だ。健一が私と美緒の肩を抱き、三人で満面の笑みを浮かべている。

あの頃は、この幸せが永遠に続くと信じていた。

空気のように当たり前で、失うことなんて想像もしなかった。


写真を手に取り、指で健一の顔を撫でる。


「……あなた。助けて」


声に出してみるが、虚しく響くだけだ。

彼はもう、私のヒーローではない。

彼は自由になり、新しい人生を謳歌している。私たちが地獄を這いずり回っている今この瞬間も、彼は温かい部屋で、誰かと笑っているのかもしれない。


もし、神様がいるのなら時間を戻してほしい。

あの満員電車の日へ。

いいえ、もっと前へ。

彼が仕事で疲れて帰ってきた時、もっと優しく出迎えていれば。

彼の小さな変化にもっと気づいてあげていれば。

日常の些細な幸せをもっと大切にしていれば。


後悔は波のように押し寄せ、私を飲み込んでいく。

これは罰なのだ。

愛を裏切り、信義を踏みにじった女への、当然の報い。


「……寒い」


私は膝を抱え、小さく丸まった。

心も体も、芯まで冷え切っていた。

明日は家賃の支払日だ。財布の中には数千円しかない。

また店長に頭を下げて、給料の前借りを頼まなければならないだろう。あの卑しい目で体を見られる屈辱に耐えながら。


これが私の現実。

これが私の選んだ道の末路。


窓の外では冷たい秋雨が降り始めていた。

その音は、まるで私を嘲笑う拍手のように聞こえた。

杉浦玲子という女の人生は、もう二度と晴れることはないのだと、世界中が告げているようだった。


私は目を閉じ、二度と戻らない温かい過去の夢を見るために、冷たい闇の中へと意識を沈めていった。

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