第四話 閉ざされた扉と孤独な夜明け
季節は巡り、都心の街路樹が鮮やかな緑から深い黄金色へと姿を変えつつあった。
冷たい秋風が吹き抜ける中、俺、杉浦健一は、新しい革靴のコツコツという音を響かせながら、舗装されたばかりのアプローチを歩いていた。
目の前にそびえ立つのは、セキュリティ万全の低層高級マンション。
かつての俺ならば、こんな場所に住むことなど夢のまた夢だっただろう。家族四人で暮らすためのマイホームローンに縛られ、小遣いは三万円。昼食はワンコインで済ませ、スーツも量販店の安物で我慢していた。
だが、今の俺は違う。
エントランスのオートロックを解除し、広々としたロビーを抜ける。エレベーターで最上階へ上がり、重厚な扉を開ける。
そこには、俺一人だけのための広大な空間が広がっていた。
「ただいま」
返事はない。だが、その静寂こそが、今の俺にとっては何よりも心地よい音楽だった。
間接照明に照らされたリビングには、買い直したばかりのヴィンテージオーディオと、座り心地の良い一人掛けのレザーソファ。壁には、かつて玲子に「埃が溜まるからやめて」と禁止されていた映画のポスターが飾られている。
あの裁判から三ヶ月。俺の人生は劇的に好転していた。
痴漢冤罪が晴れたことで、会社からの処分は撤回されただけでなく、同情と、毅然と戦った姿勢への評価が集まり、念願だった新規プロジェクトのリーダーに抜擢されたのだ。昇進に伴い給与も大幅にアップした。
さらに、権田に対する損害賠償請求こそ彼が無一文だったため空振りに終わったものの、離婚に伴う財産分与の手続きにおいて、俺は「負の遺産」である借金を背負った妻側に対し、慰謝料請求権を放棄する代わりに手切れ金のような形で一切の金銭的援助を断ち切ることに成功した。
いや、正確には、彼女たちが背負った借金が莫大すぎて、俺から搾り取れるものなど何一つ残っていなかったのだ。
俺はキッチンでコーヒーを淹れ、湯気の立つマグカップを持ってバルコニーへ出た。
夜風が火照った頬に心地よい。
ここから見える夜景は、以前高島の家から見た時のような冷たい光ではなく、俺の未来を祝福する温かな灯火のように見えた。
「……平和だな」
独り言が夜空に溶ける。
かつては「家族のいない人生なんて考えられない」と思っていた。だが、その家族という名の鎖から解き放たれて初めて知ったのだ。自分だけの時間、自分だけの金、自分だけの人生が、これほどまでに自由で、豊かであることを。
ふと、スマホが振動した。高島からのメッセージだ。
『よう、新居の住み心地はどうだ? それと、例の件だが……どうやら嗅ぎつけたらしいぞ。気をつけろよ』
「例の件」。
俺は眉をひそめ、眼下の路上を見下ろした。
マンションのエントランス付近に、街灯の明かりに照らされた二つの小さな影が見える。
ボロボロのコートを着て、互いに身を寄せ合うようにして立っている女たち。
玲子と、美緒だ。
高島の情報網によれば、彼女たちの生活は転落の一途を辿っているらしい。
権田が逮捕された後、彼が作った五千万円の借金が保証人である彼女たちにのしかかった。当然、返せるはずもなく、あのマイホームは即座に差し押さえられ、競売にかけられた。
二人は家を追い出され、築四十年の風呂なしアパートへ転居。玲子は昼夜を問わずパートを掛け持ちし、美緒も学校に通い続けることができず、中退してアルバイトをしているという。
さらに悪いことに、美緒は学校で「痴漢冤罪をでっち上げた詐欺師の娘」として噂が広まり、居場所を失っていたそうだ。
因果応報。自業自得。
頭では分かっている。だが、実際に変わり果てた二人の姿を見ると、胸の奥で何かがざわつくのを止められなかった。
同情ではない。かつて愛した者たちが、ここまで惨めに落ちぶれたことへの、ある種の空虚さだ。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
エントランスのカメラ映像が、室内のモニターに映し出される。
そこに映っていたのは、かつての「美魔女」の面影など微塵もない、やつれ果てた玲子の顔だった。髪はパサつき、目の下には濃い隈ができている。隣にいる美緒も、派手なメイクやブランド物は消え失せ、安っぽいジャージ姿で寒そうに震えていた。
俺はコーヒーを一口飲み、ゆっくりと受話器を取った。
「……はい」
『あ、あなた……!?』
スピーカーから、玲子の掠れた声が聞こえた。俺の声を聞いた瞬間、彼女の顔がぱっと輝き、縋るような表情に変わる。
『よかった、繋がった……! 探したのよ、会社にも行けなくて……高島さんに土下座して、やっとここを教えてもらって……』
「何の用だ」
俺は氷点下の声で遮った。
『何の用って……あなた、会いたかったの。謝りたくて。私たち、本当に馬鹿だったわ。あの男に騙されて、あなたを傷つけて……』
玲子が涙声でまくし立てる。隣で美緒もモニターに顔を近づけた。
『パパ! パパ、ごめんなさい! 私、パパがいないとダメなの! バイト先の店長がひどいの、セクハラしてくるの! 助けてよ、パパは私のこと守ってくれるでしょ!?』
美緒の叫び声が鼓膜を打つ。
セクハラ? どの口が言うんだ。俺を痴漢呼ばわりし、「生理的に無理」と吐き捨てたその口で、今さら父親の庇護を求めるのか。
「……帰ってくれ。俺にはもう関係のない話だ」
『関係ないなんて言わないで! 私たち、家族じゃない! 夫婦じゃない!』
玲子が必死に食い下がる。
『今の生活、もう限界なの……借金取りが毎日来て、ドアを叩くの……怖い、怖いのよあなた! 助けて! あなたなら払えるでしょ? 昇進したって聞いたわ。お願い、私たちをここに入れて!』
『そうだよパパ! 私、また学校行きたい! 友達にも会いたい! ブランドのバッグなんていらないから、普通のご飯が食べたいよぉ……!』
二人の嘆願は、あまりにも身勝手で、浅ましかった。
彼女たちは反省しているのではない。ただ、今の苦境から逃れたいだけだ。そして、そのための「便利なATM」として、かつて捨てた俺を再び利用しようとしているに過ぎない。
俺の中で、最後の一欠片の情が、音もなく燃え尽きた。
「……玲子。美緒」
俺は静かに呼びかけた。
『な、なぁに? 開けてくれるの?』
期待に満ちた声。
俺はモニター越しに、二人の目を真っ直ぐに見つめるつもりで言った。
「君たちは言ったよな。『生理的に無理』だと」
『っ……』
「『洗濯物を一緒に洗うな』『同じ空気を吸いたくない』……そう言って、俺をゴミのように追い出した。覚えているか?」
『そ、それは……あの時は気が動転してて……本心じゃなかったの!』
「いいや、あれが本心だ」
俺は断言した。
「君たちは、俺という人間を見ていなかった。俺が二十年間注いできた愛情よりも、権田という詐欺師が見せた偽りの証拠と、金と、刺激の方を信じたんだ。……君たちが愛していたのは俺じゃない。俺が運んでくる『安定した生活』だけだったんだよ」
『違う! 愛してるわ! 今でも愛してる!』
「愛してる?」
俺は嘲笑った。
「愛してるなら、なぜ俺が一番苦しい時に手を離した? なぜ俺の話を聞こうともせず、犯罪者として切り捨てた? ……俺はね、あの留置場の冷たい床の上で、君たちのことを信じていたんだ。最後まで」
言葉にするたび、過去の痛みが甦る。だが、それはもう俺を傷つける痛みではない。決別を確認するための痛みだ。
「でも、君たちは俺を裏切った。それだけじゃない。俺の居場所を奪い、思い出を捨て、別の男を招き入れた。……あの駐車場での笑顔、俺は一生忘れないよ」
モニターの向こうで、玲子が崩れ落ちるのが見えた。美緒はわんわんと泣き叫んでいる。
『ごめんなさい……許して……一度だけ、チャンスをちょうだい……』
「もう遅いんだ」
俺は冷徹に告げた。
「君たちが選んだ道だ。その男を信じ、借金の保証人になり、家を失った。全て君たちの選択の結果だ。自業自得だよ」
『そんな……見殺しにするの……? 私たち、野垂れ死んじゃうわ……!』
「死にはしないさ。日本には生活保護もあれば、働く場所だって選ばなければいくらでもある。……君たちが馬鹿にしていた『地味で真面目な労働』をして、自分の足で生きていくんだな」
『パパぁ! お願い、ドアを開けて! 寒いよぉ!』
美緒がカメラに向かって手を伸ばす。
俺は受話器を耳から少し離し、最後の言葉を投げかけた。
「俺は、君たちのATMでもなければ、都合の良いパパでもない。……さようなら。二度と来ないでくれ」
カチャン。
受話器を戻す音が、部屋に響いた。
モニターの映像を切る。
外からは、まだ何かを叫ぶ声が微かに聞こえてきたが、防音ガラスの向こうの雑音に過ぎない。
俺はブラインドを下ろし、世界を遮断した。
静寂が戻ったリビング。
俺はソファに深く沈み込み、天井を見上げた。
不思議なくらい、心が軽かった。
重たい荷物を、ようやく全て下ろしたような感覚。
胸の奥に澱んでいた黒い塊が消え去り、そこには澄み切った空洞が広がっている。
「……終わったんだな」
そう、終わったのだ。
俺の人生の第一章は、悲劇的な裏切りによって幕を閉じた。
だが、それは同時に、第二章の始まりでもある。
誰のためでもなく、自分のために生きる人生。
週末には、ずっとやりたかったソロキャンプに行こう。
捨てられたレコードを、また一枚ずつ買い集めよう。
仕事に打ち込み、新しい仲間と酒を飲み交わそう。
もしかしたら、いつかまた、誰かを愛せる日が来るかもしれない。いや、来なくても構わない。この自由な孤独さえあれば、俺は十分に満たされている。
俺は再びバルコニーへ出た。
眼下を見下ろすと、エントランスの前にはもう人影はなかった。
警備員に追い払われたのだろうか。それとも、諦めて闇の中へ消えていったのだろうか。
どちらでもいい。彼女たちはもう、俺の人生の登場人物ではないのだから。
夜空を見上げると、満月が青白く輝いていた。
その光は冷たく、けれどどこまでも美しく、俺の新しい門出を照らしているようだった。
俺はマグカップに残った冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、夜風に向かって小さく、しかし力強く呟いた。
「さあ、明日も仕事だ」
部屋に戻り、オーディオのスイッチを入れる。
流れてきたのは、古いジャズの名盤。
軽快なピアノの旋律が、俺の孤独な夜を彩り始めた。
その音色は、かつてないほど自由に、そして高らかに響き渡っていた。




